神戸/大河内

▽相棒,2011_相棒9,[R18]

相棒9:神戸尊/大河内春樹


大河内春樹は仕事中よりさらに険しい表情で、自宅のドアを開けた。
「どういうつもりだ」
招かざる客は遠慮もなくずかずかと玄関に入ってくる。帰宅したばかりでネクタイもゆるめていない大河内を前に、神戸尊は細いあごをつんと上げて元上司を睨みつけた。
「ぼくがそれを聞きにきたんですよ」
切れ長の鋭い瞳が大河内を射抜く。
「わざわざ家の前で張り込んでか」
「この一週間、電話もメールも無視しておいて文句言えた義理じゃないでしょう。それとも、警務部に直接押しかけていったほうがよかったですか?」
返す声こそ落ちついているが、口調からも表情からも強情さがにじみ出ている。こうなった神戸をいなすのは難しい……というより不可能に近い。
それでも大河内は鉄面皮を崩さず、玄関先に立つ神戸を見下ろす。
「話すことはない。忘れろと言ったはずだ」
「そんなことはできませんと言ったはずです」
神戸は苛立たしげに、目にかかっていた前髪を軽く払いのけた。
「経緯はどうあれ、なかったことにして済ませていい問題じゃないでしょう」
「なかったことにする以外のどんな選択肢がある? 年甲斐というやつを少しは考えろ」
一瞬考え込むように目を伏せた神戸が再び視線を向けてきたときには、その表情は平静を取りもどしていた。少なくとも、そう見えた。
彼は軽く息を吐く。
「ええ……大河内さんみたいな落ちついた大人の男が、酔った勢いで一夜の過ちなんて犯すはずがないですよね」
言葉にされると、とたんにその事実が重みを増してくる。足下が揺らぎそうになった大河内に、神戸は静かに告げた。
「だからあなたが本気だとわかったんです」
「……!」
ついに耐えきれず視線を外してしまった大河内の腕を、神戸がつかむ。
「離せ……わからないのか!? 気持ちなんかどうでもいい、万一にでも誰かに知られたら……」
自分だけではない、神戸も、場合によっては特命係さえも巻き込んでしまうかもしれない。それほどに危険な秘密なのだ。
だが神戸の指はシャツの上からきつく食い込んでくる。
「気づいてしまった以上、なかったことにはできません。あなたの想いも、ぼくの想いも」
あまりにまっすぐで、不器用で、しかしこれが神戸尊という男なのだと大河内はよく知っていた。
「……どうする気だ。男相手に責任を取るとでも……取ってくれとでも言うつもりか」
「それなら話は早いんですけど」
神戸は真顔で答えてから、初めてくすっと笑った。
「正直、まだ戸惑ってます。大切な友人を失いたくはない、でもただの友人にはもう戻れない……かといってぼくらじゃ恋人らしいこともできそうにないですし」
「そのとおりだ。だから忘れろと言ってる」
「それはイヤです」
小憎らしいくらいの強情さで即答され、思わず歯ぎしりしそうになる。
「リスキーなのは承知の上です。でもぼくは……」
神戸は目を細め、つかんだままの腕を力強く引き寄せた。よろめく大河内の肩を抱いて、その耳元に迷いのない声で囁く。
「特命係を選んだ男ですよ?」
「神戸……」
これ以上説得力のある言葉はそう見当たらない。大河内の頬もわずかにゆるむ。
「……おまえは、いつも茨の道を歩きたがるんだったな」
「性分なんですかね、ここまでくると」
他人事のように呟く神戸をためらいながら抱き返し、そっと問いかけた。
「泊まって……いくか?」
「ええ、もちろん」


杉下右京という上司がなにを考えているかは、未だによくわからない。それでも一年以上つきあってきたせいか、機嫌くらいはわかるようになってきた。
今日は、どちらかといえば悪いほうだ。
できるだけ目を合わせないようにしていたが、紅茶を入れに立ち上がった彼がついでのように話しかけてくるのは無視するわけにはいかない。
「そういえば昨日は、たまきさんと買い物に行ったそうですねえ」
原因はそれか。
離婚して長いとはいえかつて妻だった女性と自分の部下が、自分抜きで親しくしているのはおもしろくないらしい。いつも超然としている彼だからこそ、そんな俗っぽい感情を見せるのが愉快ではあるのだけれど。
半ば脱力しながらむりやり笑顔を作る。
「ええ……着物選びを手伝ってほしいと頼まれまして」
「そうですか。きみはそういう分野にはとても詳しいですから、さぞ頼りになるのでしょう」
「いえ、それほどでも」
適当に流して終わらせようとするが、なにしろここは警視庁随一のヒマな部署だ。会話を切るきっかけすらない。
暇人筆頭の杉下右京は、音を立てて紅茶を注ぎながら話を続けている。
「毎度感心させられますよ。ぼくなどは気の利いたコメントを探すのも一苦労だというのに、きみはアドバイスまでするのですからねえ」
たまき本人から聞いたのだろう。やっかみ半分、からかい半分といったところか。神戸は右京のティータイムにつき合って、パソコン横のペットボトルに手を伸ばす。
「好きなんですよね、女の人の服を選んだりするの。男物よりきれいで華やかで、小物やメイクの合わせ方でアレンジのバリエーションが段違いじゃないですか。ぼくはただ、その楽しみに参加させてもらってるだけです」
並みの男相手ならいくらか自慢げに語ってもいいが、ここでそんな話をしても意味がない。他の男には話したことのない本音を口にしたのは、そんな理由からだった。
しかし右京は怪訝そうに首をかしげる。
「女性そのものより、ファッションに興味があるように聞こえますが?」
「え? いえ、きれいな服も女性が着てこそですから。たまきさんみたいな美しい方だから、ぼくも選び甲斐があるんですよ」
ふふ、と一人で含み笑いを洩らすが、右京はなぜか納得した様子がない。後半は右京への当てつけのつもりだったのに。
実際のところ、女性と買い物に行くということは荷物持ちと同義で、そして神戸の場合は他の男より少し気が回るという点で重宝されるのだった。つまり男としては見られていないということだ。それを見抜かれたのかもしれない。
ただそれが残念かというと、それほどでもないのが自分でも不思議だった。美人ときれいな着物を選んで美味しいものを食べて、それだけでそれなりに満足してしまう。あえて上司の元妻に手を出そうとも思わない。
「枯れちゃったのかなあ……」
「はい?」
「ああいえ、なんでも」
独り言をミネラルウォーターで飲み下して、パソコンのモニタに映った自分の前髪を直した。とくに変化はない。そういえば昔から、女性との関係はそんなものだった。

未解決の……いや解決はしたのだが結果的に握りつぶされてしまった事件のことで、少し荒れていた夜だった。
たまたまなのかそれとも事件のことを知って慰めのつもりなのか、大河内から誘いの電話がきて、ヤケクソな気分で飲みに行った。愚痴りこそしなかったが、明らかに普段より飲みすぎて、大河内に寄りかかるようにして店を出たまでは覚えている。運転代行を呼んだが、行き先の指示も大河内任せだった。
なにか気持ちのいい場所に倒れ込んだなと思った瞬間に目が醒めた。
そこは知らない部屋だった。ホテルではない。だれのマンションだろう、と思いながらソファに投げ出された身体を起こす。肩に掛けられていたジャケットが落ちた。
「ここ……」
「私の家だ」
聞き慣れた低音にふり向けば、さっきまでいっしょに飲んでいた彼がいる。まだスーツの上着も脱いでいないところから見て、たった今神戸を下ろしたところなのだろう。
「へえ、大河内さんの……なんか緊張しちゃうなあ……」
緊張する、と言いながらも笑いがこみ上げてくる。
今までもそれなりに悪酔いしたことはあったが、部屋に連れてきてもらったことはなかった。めずらしいこともあるものだと、そっけないくらいにシンプルな部屋をぐるりと見まわす。が、急に頭を動かしたせいで眩暈を起こし、またソファに倒れ込んだ。
「寝るならベッドを貸すぞ」
親切な声が降ってきたが、心地よくて動く気がしない。さすがキャリアの部屋は家具も高級だ、と脈絡のないことを考える。
「いえいえ、ぼくはソファで充分ですからおかまいなく……」
大河内がなにか小言を口にしたようだが聞き取れない。
神戸はソファの腕にもたれ、座ったままの姿勢で再び眠り込んでしまった。

次に目を醒ましたのは一時間くらい経った後だった。
少し暑いと思ったら、いつのまにか毛布が掛けられている。しかし払いのけることすら億劫で、頭を動かさずに薄く目を開けた。前髪のあいだから、隣に大河内が座っているのが見えた。
彼は本を読んでいた。たまにコーヒーを飲み、そして白い錠剤を噛み砕く。静かな室内にはそれなりに響いて、よくこの音で起きなかったものだと自分で思う。
ふと、彼がページを繰る手を止めてこちらを見た。
起きているのに気づかれたのかと思ったが、そうでもないらしい。大河内は傍らで寝ている神戸を眺めているだけだった。普段の厳しい表情ではない。どこか慈しむような、微笑んでさえいるようなやわらかい目をして。
その表情にわけもなく動揺して、寝返りを打つ。
「神戸? 起きたのか?」
控えめに問いかけられる声を無視できなくて、神戸は寝たふりをやめ起き上がった。
大河内が本を閉じる。素肌に薄手のセーターをそのまま着ているという意外にラフな服装で、なにを思ったらいいのかもわからずに呆然と彼を見つめた。
「どうした。眠いならおとなしく寝ておけ」
つい今までの穏やかな表情はすでになく、いつもの眉間にシワで、例の錠剤を口に放り込んでいる。
ビタミン剤かなにかだろうか。
気になりはじめると彼の口元から目が離せなくなった。飲み込むときに上下する喉仏も、露わになっている首から胸までの線も。どうしてこんなに、身体がざわつくのだろう。
毛布の波を乗り越えて、神戸は大河内のひざに手を置いた。
「寝ぼけてるのか」
怪訝そうにこちらを睨みつける顔に手を伸ばす。床に本が落ちる音がした。
「か……」
名前を呼ぼうと開きかけた唇を、舐めてみた。コーヒーの味と、それから……
「甘い……」
ずいぶん懐かしい甘さ……ラムネだ。薬でも栄養補助剤でもない。
こんな強面で甘いラムネを噛み砕いていたなんて……無性におかしくなって、神戸はくすくすと笑い出す。笑いながら、もう一度舌を出した。
「神戸、どういうつもりだ……っ」
それまで息を止めて硬直していた大河内が、肩をつかんで神戸を引き剥がす。上ずりかけた声も、必死な表情も、なにもかもがおかしい。
「どういうつもりだと思います?」
そんなことは自分でもわからない。わからないが、この人に触れたくてたまらない。神戸は毛布を払いのけて、彼のひざの上に乗った。
こちらを見上げる眼鏡越しの視線には、殺気すら感じられる。
「自分がなにをしているかわかってるのか?」
「まあ、だいたいは」
笑顔で答え、両手で彼の顔を包んで上向かせる。指に当たった眼鏡をむしり取って、震える唇に今度は正面から挑んだ。
甘いのは唇だけではない。逃げようとする舌先も、ぬめる唾液も。
「ん、ふ……っ」
夢中になって、彼を貪る。息をすることすら忘れて。彼が口づけに応えていることすら気づかずに。
荒い息が混じり合う中で、大河内が神戸の背中をシャツの上から撫で下ろした。大きな手の感触に、抑えられないほどの震えがくる。
「大河内さん……」
自分の口から出た声はひどくかすれていて、その上つづく言葉も思い浮かばない。神戸はもどかしさに彼の首へ顔をうずめた。硬い筋肉の動きがこんなにも官能的だなんて、今まで想像もしなかった。
なんの隔たりもなくその肌に触れたい。そんな衝動に突き動かされて神戸は自分のシャツを脱ごうとするが、焦っているせいかボタンがなかなか外れない。舌打ちしながらシャツと格闘していると、同じように焦れた様子で大河内が神戸のボタンを外していく。
頭の片隅でなにか妙だと感じてはいるが、それより今は目の前の快楽を追いかけることが最優先だった。相手もその気ならばためらうことはない。
神戸がセーターをまくり上げると、彼は自らそれを脱ぎ捨てる。露になった肉体に思わず息を飲んだ。初めて目にするわけでもないのに、今は直視できないほど昂ぶってしまう。
「なんだろ、これ……」
ひとまず目を閉じ、顔を天井に向けて大きく息をつく。だがそれくらいではこの動悸は収まらない。
「神戸」
呼ばれて見下ろすと、彼が険しい表情でこちらを見ていた。だがいつもとはまるでちがう……その目はわずかに潤んで、無防備に開いた唇も濡れて光り、あからさまに誘っていた。そう思ってしまう自分に苛立ち、神戸も眉を寄せる。
「大河内さんの、せいですからね」
よくわからない言い訳を吐いて、再び相手の唇を吸った。裸の胸が当たればすり寄せ合い、互いの背中に手を回して筋肉と骨のかたちを確かめる。腰を押しつけ合うころには、どちらも中心を硬く昂ぶらせていた。
「はっ……」
もう引き返せない。引き返す気もない。目が合った二人は、それぞれ自分のベルトを外しはじめる。神戸は自分より先に前を開けた相手を見下ろし、苦しい息のあいだから笑いを洩らした。
「いつも、そんなやらしいパンツはいてるんですか?」
競泳パンツのような型の黒い下着が、猛った欲望をむりやり抑えつけている。彼のストイックな外見とギャップがありすぎて、却ってそれがいかがわしく感じられるのだった。
にやける神戸に、大河内が不機嫌そうに呻る。
「……おまえが気づかなかっただけだ」
剣道の稽古につき合って、いっしょにシャワーを浴びて同じ更衣室で着替えて……たしかに機会はいくらでもあったが、神戸は彼の下着どころか裸にもほとんど注意を向けたことがない。見ないのが礼儀だと思っていた節もある。
「そっか、もったいないことしたな……」
口ではそんなことを呟いていたが、実際は過ぎた時間などどうでもよかった。今、目の前の彼に欲情している自分がいて、彼も神戸を欲しがっている。それだけが全てだった。
しかしさすがに無遠慮に触れていい部分ではないという認識はあって、彼の表情を窺いながらそこへおそるおそる手を伸ばす。布の上から昂ぶりをそっと指でなぞると、彼が切なげに目を伏せた。
「ぅん……っ」
甘い喘ぎにうながされ下着をずらした。均整のとれた腹直筋の下で、黒い繁みから立ち上がった欲望が存在を主張している。
「あ……」
つい目を逸らしてしまったのは、嫌悪からではなかった。息が詰まるほどの感覚はまぎれもなく劣情で、そんな自分に動揺していた。
衝動に逆らわず、彼に覆いかぶさるかたちで自身を重ねる。
「ん、はぁ……っ」
目に映った以上にその感触は生々しくて、その生々しさにこそひどく昂奮する。昂ぶった性器を乱暴に押しつけ、裸の肩にかじりついて、神戸は大河内の身体を感じようとした。大河内も荒い息を吐きながら神戸を抱き寄せ、肌を密着させようとする。
「んぁあっ、ああ……っ!」
神戸は身を反らせて快感を迸らせた。
「くぅ……っ、ぅあっ!」
威厳のある低音を上ずらせて、大河内も達する。腹のあいだを汚したまま、二人は余韻に震えながら抱き合っていた。
だが神戸は自分が満足していないことに気づいていた。不満だったのではない、足りないのだ。この程度では却って欲求不満になりそうだった。
「くそ……っ」
落ちてくる前髪を乱暴にかき上げて、彼のスラックスをむりやり脱がせようとする。
「待て、神戸……」
大河内は目を見開いてその腕をつかんでくるが、聞いてはいられない。
「ここまできて、やめるなんていいませんよね」
自分の声が攻撃的なのには自覚があった。強制してはいけないと頭では理解しているが、今は相手を気遣える余裕もない。このたくましい身体ならなにをしても平気だと、必死に思いたがっている自分がいる。
「焦るな……」
大河内は腰を浮かして自分で下を脱いだ。浅黒い肌に白濁を浴びた扇情的な肉体が、余すところなく神戸に晒される。
「大河内さん……」
もの欲しげに喉を鳴らしたのが聞こえたのか。彼はわずかに微笑んだ、ように見えた。
だがすぐに眉を寄せて目を伏せ、自分の下肢に手を伸ばす。その行き先を目で追った神戸は、今度こそ息をのんだ。
「ぁあ……っ」
自らの後ろに指をねじ込んでいる。身をくねらせ喘ぐ姿は、神戸の想像の範疇を軽く超えていた。自分が当然の顔で彼にしようとしたのは、こんなにも淫らで背徳的な行為だったのだと知る。
「手伝わせて……ください……」
彼の手に手を重ね、指をなぞって自分の指もすべり込ませた。
「か、神戸……っ!?」
指を締めつける内壁の熱さが神戸を煽った。
もう一秒たりとも待てない。承諾を得るのも忘れて、ほぐされかけたそこへ猛った自身を押しつける。
「んぁあっ……!!」
本能的に逃げる腰を押さえつけ、神戸は奥まで一息に侵入した。
「ぁは……っ!!」
さっきとは比べものにならない快感が突き抜けていく。
「だ、いじょうぶですか……」
苦悶に呻く大河内を見下ろし、なんとか声をかけた。大河内は滲む目で神戸を見やったかと思うと、手荒に首を抱き寄せて囁く。
「ここまできて……やめるなんて、言うなよ……」
神戸が完全に理性を飛ばすのに、数秒もかからなかった。

洗面台に手をついたまま、呆然と自分の顔を眺める。
窓から差し込む朝日が不必要に眩しい。
酔っぱらっていたのか。寝ぼけていたのか。混乱した頭を必死に整理しようとするが、浮かんでくるのは行為の記憶だけだった。
あんなに激しくだれかを求めたことはない。求められたこともない。
今まで……つまり女性相手のときはタイミングや手順が決まっていて、そのマニュアルに従いながら機械的にこなしていたようなものだった。もちろん今の今まで気づきもしなかったが、神戸はどこか義務のように行為を乗りきっていた。
乞われればいくらでも相手の望む奉仕はできたが、それが相手を満足させているかどうかは知りようがない。嘘か本当かわからない自己申告を信じるしかない。自分と同じ身体が同じように反応するのを見て初めて、今までの相手に対して無関心だった自分に気づいたのだ。
「じゃあ、俺……」
なんの気遣いも義務感もなく、ただ純粋に求めた相手が男だった……衝撃的な事実に、神戸は鏡の中の自分に力なく笑いかける。
「いや、ありえないだろ、40年気づかないって……」
40年目の真実というには、間抜けすぎる。
顔を洗って部屋にもどった神戸を待っていたのは、きっちりとネクタイを締めて髪を撫でつけた大河内だった。
「ええとその……おはようございます……」
「ああ」
ここがオフィスかと錯覚しそうな隙のなさだ。こちらは昨日のままのシャツに、髪型も決まりきらないだらしなさだというのに。
その彼からハンガーに掛かったジャケットを手渡され、神戸は「ありがとうございます」と頭を下げるしかなかった。
「あの、大河内さん……」
「おまえの車は地下の駐車場に置いてある。鍵はジャケットの左ポケットだ」
聞きたいのはそんなことではない。ジャケットに腕を通しながら、神戸は意を決して尋ねてみる。
「どうして……拒まなかったんですか?」
「早く帰らないと遅刻するぞ」
こちらを見ようともしない相手の態度に、苛立ちすぎて笑ってしまった。
神戸一人が隠れた性癖に目覚めたところで、相手が応えなければなにも起こらない。冷静な頭で考えれば拳の一発を食らってもおかしくなかった。それだけのことを、酔っていたとはいえ神戸は仕掛けたのだ。
だが大河内は拒むどころか、自ら身体を開いた。求め縋るようなあの目。そしてその前に見た、無防備な優しい目。大河内が神戸に向けていた感情は……
「もしかしてあなたも……」
食い下がろうとする神戸に、大河内は冷然と言い渡す。
「夕べのことは忘れろ。我々のあいだにはなにもなかったんだ」
彼の言葉はまったく正しかった。しかし、神戸は首を縦に振れなかった。
「……むりです」
彼の秘密と、自身の秘密。それを同時に知ってしまったからには、もう元には戻れない。
「忘れるなんてできません」
神戸は深くうなだれながらも、硬い声でそう答えた。

今日の杉下右京は、晴れ……機嫌は上々。こちらは最悪だというのに。
適当に挨拶をして席に着くと、優雅に紅茶を飲んでいた右京が話しかけてきた。
「きみらしくありませんねえ……いえ、実にきみらしいと言うのでしょうか」
「は?」
朝から面倒な謎かけに興じる気分ではないのだが。そう思いながらもなんとか笑顔を作ると、彼は上品に目を伏せてカップに口をつける。
「プライベートに口を出す気はありませんが、今日はボタンをひとつ閉めたほうがいいでしょう、とだけ忠告させてもらいますよ」
「ボタン……」
押さえた胸元を見下ろして、神戸はそこに情事の痕跡を見つける。混乱しすぎていたとはいえ、なぜ今朝気づかなかったのか。家に帰ってシャワーまで浴びたはずなのに。
「失礼しました」
あわてたところを見せないようにゆっくりとボタンを閉め、目の前のモニタを鏡代わりに襟元を直す。ついでに髪も直して、これで完璧のはずだ。
しかし「実にきみらしい」とはさすがに失礼すぎるのではないか。
「ねえ杉下さん、ぼくってそんなに女好きに見えます?」
少し苛立ちを覚えてそのままの気分を問いにすると、彼は驚いたように眉を上げる。
「女性に詳しいとは思いますね。女性との接し方にも長けている。ただし、女性に対して不誠実には見えません。女好きという一般的なイメージからは少し外れていることは確かです」
「それは……どうも……」
今回は辛うじて褒めているようだ、と思いかけたが、そのあとの一言で考えなおすことになる。
「しかし今日は少しだけ認識を改めました。きみにもそんなルーズな一面があるんですね……」
「女性とは限らないじゃないですか」
腹立ちまぎれにそう返すと、右京は眼鏡の奥で目を丸くした。それからやたらと神妙な顔つきになり、紅茶を置いて椅子に座る。
「……そうでした。ぼくとしたことが、固定観念にとらわれていました」
どうやら墓穴を掘ってしまったらしい。
「冗談ですよ、冗談。女好きの遊び人ですからぼくは」
そう言ってあははと笑ってから、さすがに言い訳がましかったと思う。
「心配せずとも、ぼくは性嗜好でだれかの性格や能力を判断したりはしませんよ」
「……とても杉下さんらしい、公明正大なお考えですね」
我ながら皮肉にも覇気がないなと思いながら、ペットボトルに口をつける。
たしかに、よほど犯罪的な……弱者を虐げる性癖でもないかぎり、警察官たる自分には影響のないことかもしれない。昨日の今日で社会的な自覚が芽生えるわけでもないし……ただ「なんだかとってもショック」というだけだ。
のんきに朝のティータイムを楽しんでいる上司を見ていたら、数時間前の混乱がどうでもいいことに思えてきた。
考えるべきは自分への言い訳や保身などではなくて。
今朝見た、能面のような無表情を思い出しながら、神戸は洩れそうになるため息を飲み込む。
キスをして行為に及ぶ、その過程や心理に男も女もちがいはない。それがたとえ鉄面皮の監察官であっても。自分の嗜好も知らず40年間生きてきた迂闊な男であっても。
昼前には、神戸の中でひとつの答えが出ていた。


お互いの家など知らない。だから完全に酔いつぶれてしまった神戸を自宅へ連れてきたのは、仕方のないことだった。少なくとも家に着くまでは本気でそう思っていた。
だが、リビングで彼が無防備に眠っているのを目にしたとき、わけのわからない感慨に胸が詰まった。
疲れ切った身体を休めるためだけの孤独なプライベート空間に、他人が……心を許し合う友人が存在している。たったそれだけのことに、柄にもなく心が浮き立つ。
ソファで寝ている彼に毛布を掛けてやったが、起きる気配はない。自分だけがベッドで寝るのも、彼が起きたときに寝てしまっているのも、妙に気が引けた。
気を遣って起きていようと彼の横に座ってから、大河内は自分がそうしたかっただけなのだと知る。
はっきりした欲望があるわけでもない。無邪気な子どものように、ともにいられさえすればそれでいい。決して言葉にできないこの想いなど永遠に伝わらなくてもいいから、今はただ、彼の寝顔を眺めていたい。
至福の夜になる、はずだった。
目を覚ました神戸が血迷ったことをしでかさなければ。
大河内の中から、自分でも忘れていた欲望を引きずり出さなければ。
熱情に酔いしれた直後、大河内はかけがえのないものを失ってしまったことに気づいた。ひざをつきそうな後悔と喪失感を忘れようと、神戸の呼び出しを無視して仕事に没頭しつづけるしかなかった。
彼に軽蔑されるのはひどく堪える。立場上何度か味わったその感覚を、私的な理由で再び味わいたくはなかった。

神戸がコートのポケットから取り出したものを見て、大河内の眉根が寄る。彼にもこの場にもそぐわない、黄色いドラッグストアのビニール袋からそれらは転がり出てきた。
「神戸……なんだこれは」
「見てわかりませんか? こっちは交接時の負担を軽減する潤滑剤で、こっちはいわゆる男性用避妊具……」
「そういうことじゃない」
隣に座っている神戸を横目に睨みつけると、彼は姿勢を正して、面接でも受けるような顔で両ひざに拳を置いた。
「先日は、勢いとはいえ大河内さんにたいへんなご無理をさせてしまいましたので、今後あのようなことがないようにと思いまして。来る途中で購入してきました。……あ、べつに今日すぐ使おうとかそういうんじゃないですけど、常備しておくに越したことはないかなと。はい」
「……………」
ため息しか出ない。
「……私にだけ負担を強いることを前提にしているな?」
「ええ?」
つい、考えていたのとは別の言葉が出た。それを受けて神戸は少しうろたえた笑顔になる。
「あ、ぼくが下になるってことですか? いやそれは……でも何事も経験ですかねえ。意外にイケるかもしれないし……」
途中から真顔で考え込んだ神戸の肩を、大河内は軽く小突く。
「……おまえ、ほんとうに泊まっていくのか?」
「ほんとに……って、大河内さんが誘ったんじゃないですか」
苦笑しながら彼は「面接スタイル」を崩した。ソファの背にひじを乗せて、上体だけをこちらに向ける。
「まあ下心がないとは言いませんけど……今日は確かめたかっただけなので。ぼくとしてはそれなりに満足です」
「確かめる?」
にっこりと笑って、彼は軽く頭を振り前髪を払いのけた。
「好きでもない相手と勢いで関係を持つなんて経験もないわけじゃないですからね。ひょっとしたら、今回もアルコールのせいかも……なんてことも考えました。でもそれならそれで、あなたに謝らなきゃならない。どっちにしろ、なかったことにはできません」
見かけによらずきまじめな男は、どちらに転んでもけじめをつけるつもりだったのだろう。そして、彼は結論を出した。大河内が逃げつづけているあいだに。
「これでダメだったら、本気で土下座でもするつもりでしたけど」
神戸の顔が近づいてくる。反射的に身を引いたが、肩をつかまれ口づけられていた。
絡みつく舌に応えながら、どこか現実感に乏しい浮遊感を感じる。ひそかに想いつづけていた相手が、今こうして大河内を丸ごと受け止めてくれている、その事実がまだ真に迫ってこない。
「……ほら、気持ちいい」
息をつきながら、神戸は愉快そうに笑みを浮かべる。
顔が火照ってきてネクタイをゆるめ、シャツのボタンをひとつだけ外すと、器用そうな指が伸びてきてネクタイを引き、ボタンをもうひとつ開けた。
「なにをする……」
神戸は大河内の胸元に顔を寄せ、鎖骨のあいだに吸い痕を残す。
「神戸!」
さすがに叱りつけたが、彼は悪びれた様子もなく上目遣いに微笑んだ。
「仕返しです。大河内さんがつけたキスマーク、杉下さんに見つかっちゃったんですよ」
そう言いながら彼は開いた胸元を示してみせる。さすがに一週間も経つと完全に消えていたが、自分がしでかした失態を指摘されて、気まずさに目を逸らすしかない。
「あなたは隠れるからいいですけど……」
「おまえもネクタイを締めれば済む話だ」
「あは、そう言われればたしかにそうですね」
しまりのない顔で笑いながら、神戸は身を起こした。気が済んだらしい。離れていく彼の体温に未練を感じる自分を諫め、だらしなくぶら下がっているネクタイを襟から引き抜く。
「杉下さんに知られたくなければ本気で隠せ。あの人は私の『秘密』を知ってる」
「え、なんで……」
心底驚いた顔を見て、少しだけ溜飲が下がった。
「おまえもよく知ってるだろう。真実は明らかにしないと気が済まない人だ」
「そうでした」
納得したらしく大きくうなずいた神戸は、気が抜けたようにソファにもたれてから、ちらりと大河内を見やった。
「大河内さんは、知られてもいいと思ってるんじゃないですか?」
「なぜそう思う」
尋ねると、神戸は思考を整理するときの常で、視線を彷徨わせた。
「えーと……杉下さんに致命的な『秘密』を知られたにも関わらず、大河内監察官のキャリアは無傷です。それどころか、ぼくが入る前から特命係に贔屓目な行動をとっていますよね、すごく巧妙ですけど。双方の性格から考えてなにかの取引があったというのも考えにくいし……特命係に入ってからも、大河内さんが杉下さんを相当信頼してるのは、なんとなく感じてました。もしその理由のひとつが、個人的な恩義による……んっ!?」
小賢しい口を、自らの唇でふさいで黙らせる。神戸はわずかに戸惑いを見せたが、すぐに目を閉じて応えてきた。
「……自分が訊いたくせに」
唇を舐めながら彼はふてくされた声で呟く。
「やっぱりそれ、今夜使いましょう」
テーブルの上の「それ」らを指さされ、大河内はあれこれ言い訳を探すが見つからない。
そして、ようやく浮遊感の正体に気づいた。
もう何年も縁がなかった、他人に心をあずける幸せ……その感覚をまだ取りもどしていないだけなのだと。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!