由利/等々力

2020_探偵由利麟太郎,[PG]

「弓張月」

 雲一つない夜空に、半分の月が浮かんでいる。
 三津木は橋の欄干に寄りかかってそれを眺めていた。
「上弦の月ってやつですね」
「弓張月ともいうな」
 風流な語から、傍らの師が弓を引き絞る姿を思い起こす。この月光のように凛として冷たく張りつめた横顔を。
 今、ちらりと伺ったその顔は、柔らかな表情で目元を和ませていた。視線は三津木と真逆の、川面へと向けられている。
「水に宿る月より、猶あやし……」
「なんですか」
 見た目は厳しそうだが、やたらと無知を責めるような師ではない。彼は静かに微笑んで言葉を返してきた。
「敦盛は知っているかね」
「ああ、織田信長の、人間五十年ってやつですね。人の命なんて短くて儚いものだ……っていう内容でしたっけ」
 正解を称えるようにうなずいた由利は、頭の上にある月を仰ぎ見てから再び橋の下へ目を落とす。流れる川の中にも、揺らめく月が光っていた。
「そう、草葉の露より、水面に映る月よりも儚いと」
「こんなにきれいなのに、ってことですかねえ……」
 思わず欄干から身を乗り出すと、頑丈な腕が押しとどめるように胸の前へ突き出された。
「分をわきまえず水面の月を捉えようとすれば、溺れてしまうぞ」
「やめてくださいよ、ぼくが『猿猴』だとでもいうんですか」
 ありもしない月の影に手を伸ばして、水の中に落ちてしまうほど愚かではないと思いたいが、心配性な師の気持ちを慮って一歩下がる。そんな三津木を見て目を細めた由利は、今度は自分が欄干に手を置いて黒い水面を覗き込んだ。
「いや……わたしかもしれないな」
「先生?」
 ご冗談を、と笑い飛ばそうとした顔で止まってしまう。こんなとき決まって向けられるおどけた一瞥はなく、彼はただ川の中の月を見つめていた。
「本来は存在しないものを捉えた気になっている……」
「先生はいつだって、明確に的を捉えて射抜くじゃありませんか」
 張りついた笑顔のまま、三津木の声は不安に揺らぐ。それに気づいたのか由利はやっと顔を上げて、きまり悪そうに笑みを浮かべた。
「とっくに溺れているのだとしたら?」
「それは……」
 無意味な仮定です、そんなことはありえないのだから。そう断言すべきだと思ったが、それは果たされなかった。
 川沿いの道路にパトカーが留まったからだ。二人をここで待たせていた張本人がやってきた。
「由利!」
 大声で彼の名を呼び手を振る等々力に、三津木も手を振り返して由利を見返る。
「やっと来ましたよ、さあ行きましょう……」
 月明かりの中、彼の目はまっすぐ友へと向けられていた。これから事件現場に赴くというのに、その表情は川面の月を見つめているときと同じで、三津木は思わずざわつく胸を押さえていた。
「……ああ」
 次の瞬間には頬をひきしめ、黒い裾を翻して彼は迷わず歩いていく。儚さを説いていた時間などなかったかのように。
 気のおけない旧友であるはずの彼を見やる視線が、ひどく切なげであることに気づいたのは、いつからだっただろう。二人が気安い間柄であることはとくに注意せずともわかるのだが、それだけではない感情が少なくとも由利の側にはあるように、三津木には見えた。
「水に映る月、かぁ」
 そこにはないのに、美しく揺らめいて誘う。悟りきって見える男の胸に映し出される月とはいかなるものか……。
 ふとよぎった憐憫の欠片を振り払って、三津木は由利の後を追った。

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