波多野/野宮

2023_らんまん,[R18]

衝動

 本から顔を上げ、そして正面の相手に声をかけようとして口を閉ざす。
 野宮は、鉛筆を握ったまま眠っていた。
 仕方ないと波多野は一人微笑んだ。今日も二人は大学で研究と勉強をしていたし、守衛に研究室を追い出されてから波多野の家で続きを始めるのも、連日のことだ。とくに野宮は植物学に語学と、未知の分野を学んでいる最中だった。画工との両立は過酷にちがいない。
 相手を起こさないよう静かに立ち上がり、綿入れを取りに隣の部屋へ向かった。
 縁側から母屋を見やったが、さすがに寝静まっている。広い庭の中にある武家屋敷の離れが、波多野の「研究室」だった。こちらから呼ぶまで女中も来ないように言ってある。「優秀な」息子を放任してくれるだけの度量はある家だ。
 暗がりの行李から手探りで綿入れを取り出して、また静かに戻る。
 小さく船を漕いでいる野宮の背に綿入れを掛けた、その拍子に彼が起きてしまった。
「!」
 驚いたようにあたりを見まわした野宮は、波多野に気づいて眉を下げた。その表情につい笑みが洩れる。
「しまった……」
 かつては居眠りする生徒を起こす側だったであろう彼が、その失態を犯してしまうのは本人にとっても予想外だったのかもしれない。頭を抱える野宮に、そっと声をかけた。
「お疲れなんでしょう。今日はもう切り上げましょうか」
「いや、こんな調子じゃだめだ……」
 両頬を幾度か叩いて、彼は苛立った様子でため息をつく。
「これじゃいつまでも、きみに追いつけない!」
「……!」
 いつになく険しい語気の彼にぎょっとして、思わず綿入れの上から彼にしがみついていた。後ろから抱きしめられた格好の野宮は、息を飲んで黙り込む。
 植物学教室は、以前とは別の焦燥に追い立てられていた。日陰から一気に花形へと駆け上がっていく最中で、学生時代とは別の緊張感がある。この国の学問にとって必要だと理解はしているが、完全に飲み込まれてしまう恐怖も常に持っていた。
 自分が引き込んだ野宮がその世界で溺れてしまうようなことがあってはいけない。彼は自分が守らなければならない。
「あなたを置いていくなんて、なにがあってもしませんから」
 つい、声が震えた。体も震えていたかもしれない。
「……………」
 ぎこちなく挙がった野宮の手が、背後にいる波多野の髪を撫でる。
 なだめるように、あやすように。
 本来ならば、弱音を吐きたくなるほど追い込まれているのは彼のほうなのに。時折あふれそうになる波多野の怯えを、ためらわずに受け止めてくれるのだった。
 渾身の力でしがみつく若者を振り払いもせず、野宮は波多野の髪を撫でながら、頭を動かしてこちらを見返った。
「……………」
 視線が合った、と感じた。
 実際には薄暗い中、度の強い眼鏡越しに近づいた顔など、ほとんど見えない。だが二人はまっすぐ見つめ合っていた。
 どちらからともなく、引き寄せられるように唇を重ねる。息が混じり合った刹那、己の欲求がはっきり形になるのを自覚した。
 この人と、離れたくない。
「っ……」
 顔に当たる眼鏡をもどかしく押し上げ、彼を抱く腕に力を込める。野宮も身をよじってこちらに向きなおり、波多野の頭を抱き寄せた。
「ん……ぅん……」
 触れるだけでは終わらずに、濡れた音を立てながら深い口づけは続いた。
 目眩にも似た感覚に体がぐらつき、押された野宮が後ろに倒れる。つられて波多野も畳に手をついた。真下にある顔には机の影が伸び、表情は見えない。
 落ちてきた眼鏡を顔からむしり取り、手探りで机の上に置く。
「若さだと、嗤いますか」
 みっともなく揺れる声が自ら未熟さを証していると嫌になったが、野宮は僅かにも笑わなかった。
「いいや」
 硬い声で答え、波多野のほうへまっすぐ手を伸ばしてくる。抱き寄せられて彼の上に倒れ込んだ波多野の耳に、かすれた囁きが聞こえた。
「おれはもう若くないから」
 もう若くない……一回り近く年上の相手が、この感情を共有してくれていると思うと、それだけでたまらなかった。恋情とも肉欲ともつかない、ただ境目を埋めたい衝動をなんと名づければよいのだろう。
 帯を解き肌着を押しのけ、互いの肌に触れようと躍起になった。波多野が野宮の首元に顔をうずめると、野宮は波多野の背中をまさぐる。内股を撫でられた野宮が呻き、胸元を吸われた波多野も喘ぐ。
 なぜだか声を上げるのはためらわれ、それでも荒い息を抑えることはできず、洋燈がつくる影の中で二人はひたすらに相手を求めた。そうすることでひとつになれるとでも信じているかのように。
「あ……」
 静かな嵐が過ぎ去ってから、波多野は今起きた事態に慄いて飛び起きた。
 ぼやけた視界に、犯した肌の陰影だけが映る。乱れた息と、二人のあいだに立ちこめる湿った熱と。
 ようやく戻ってきた思考に冷や水を浴びせられ、呆然と惨状を見下ろしていた。
 いったい自分はなにをしてしまったのか。
「あの、ぼく……すみませ……」
「波多野くん」
 咄嗟の謝罪を遮った声は、たしなめるようにも誘うようにも聞こえた。
「きみの仕業じゃない……『おれたち』だよ」
 これは、過ちではないのだろうか。
 指先と掌で彼の顔の輪郭を確かめながら、見えもしない瞳を鼻がぶつかる近さで覗き込む。
「野宮さん、ぼくは……」
 その夜はもう、どちらも本のページをめくることはなかった。

 外から呼ぶ声で目を覚ます。
 いつもあるはずのところにない眼鏡を拾い上げるのに苦労し、それから寝間着を引き寄せて自分から出ていった。いくら古参の女中であっても、朝から寝間に入られるのは好まない。
 日の高さから察するに、急がないと講義の準備をする余裕がなくなりそうだ。朝食はいらない、すぐに支度をして出る、と女中に告げて部屋に戻る。
 文机の上はきれいに片づけられていた。全身に残る怠さがなければ夢だったと信じてしまいそうなほどに、激情の痕跡は見当たらない。
 彼は暗いうちに家へ帰り、そしてまた研究室に出勤してくる。お互い素知らぬ顔でいられるだろうかと考えたが、他に振る舞いようがないのもわかっていた。
 野宮は波多野に学び、波多野は野宮を頼る、その間柄はこの先も変わらない。変わらないと確信しているから互いに求め合った。
 とはいえ……。
「こんな調子じゃ、だめだ」
 ひとり呟き、締まりのない頬を両手で叩いた。

青春

「……それでね、壁にこんな大穴が開いてたんですよ。壁に穴が開いていても人が住めるんだって、感心しちゃいました」
「それは、見てみたかったなあ」
 波多野から聞く「友人」の話は、いつも奇想天外で愉快だった。
「長屋の人からも狸の巣穴なんて呼ばれて……」
 ほんとうは愉快どころではない苦労のほうが多いだろうに、身振り手振りを交えて語られる槙野万太郎は、いつでも波瀾の日々を謳歌し、自由に生きている。
「……それにしても、あんな美人そうそういません。まったく、うまくやったもんです」
 彼の妻の話になると、いつもはとりすました波多野が年相応の顔に戻るのが、おかしくもあった。
「羨ましい?」
「ええまあ、そういう歳なんだなと……」
「きみだってそのうち、いい話がありますよ」
 家柄も地位も将来も申し分ない。すでに縁談のひとつやふたつ、舞い込んでいてもおかしくはない。
 しかし波多野は、気恥ずかしそうに首をすくめただけだった。
「話はありますけど……自分はまだその時期じゃないと思ってます」
 万太郎は、成すべきことを成し遂げてから想い人を迎えにいったのだという。そんな事例を間近で見せつけられては、たしかに流れてくる釣書をただ選ぶことに躊躇してしまうかもしれない。
「それに今は、野宮さんと研究してる毎日が楽しいです」
 本人が言うとおり「そういう時期」なのだろう。
 家族という枷もなく、自分の好きに没頭していたい。野宮の場合はあっという間に終わってしまったから。彼には少しでも長く楽しんでほしいと、眩しい気持ちで眺めた。

 *

 初めて肌を重ねた翌日、どこか気まずさを滲ませた波多野は、朝からなかなか目を合わせようとはしなかった。
 こちらも強引に話しかけるほど肝は据わっていなくて、なんとなく相手を意識の端に置いたまま昼を過ぎてしまう。このままでは会話もなく一日が終わり、明日もどんな顔をしてここへ来ればいいのかわからない。
「蕎麦でも、どうです?」
 さりげなく声をかけたつもりだったが、波多野は椅子から転げ落ちそうになっていた。
「すまない、大丈夫かい?」
「あっ、はい……」
 これは、早めに話をつけておかなければならないようだ。

 神社のイチョウが色づいている。
 ここには雄株しかないから、待っていても実は生らない。
 もうそろそろ、葉が落ちてくるころだろう。野宮は羽織の肩をすくめ、北風に身を震わせた。外套姿の波多野は、襟巻に顔を半分うずめている。世間話もないのは彼らしくない。
 前を向いて歩きながら、平静を装って切り出してみた。
「あの、ゆうべのことが今後に差し障りがあるようだったら、なかったことにでも……」
「いいえ!」
 とても大きな声が返ってきて、思わず立ち止まってしまった。本人も自分の声に驚いたらしく、あわてて頭を下げている。
「その、ずっと考えていたんですが」
 訥々と話しはじめる波多野に、改めて向きなおった。ごまかしたりはぐらかしたりはできなさそうだ。
「ぼくはあなたを尊敬しているし、大切な仲間だと思っています。ゆうべのことは、その延長線にあると思っていて……。
 でも、あのときぼくは、とても不安でどうしようもなくて、それをあなたにぶつけてしまっただけなんじゃないかって。もしくは、あなたの不安につけ込んだんじゃないかって、思って、いるわけなんですが……」
 ずっと考えていた、という言葉がなんだかくすぐったく思えて、じわじわとこみ上げる笑みを噛み殺す。
「ずいぶんと、難しく考えたものだねえ」
「いえ、そんな……」
 自分が思いつめていたことに彼自身も気づいたらしく、眉尻を下げて困った顔で笑い出した。
「やっぱり考えすぎですよね、今のは忘れてください……」
「不安なときに手を伸ばしたくなるのは、信頼できる相手じゃないかな」
 あのとき自分から誘ったのか、波多野に誘われたのか、記憶が曖昧だ。ただとにかく焦りに駆られて、波多野を求めた。流されたつもりはないし、歳のせいなどにされたくはない。
「おれは、きみをそういう相手だと思ってる」
「それは……ぼくもです」
 いつのまにか波多野は真っ赤になって汗を拭いていた。それを見ているうちに、こちらも妙に気恥ずかしくなり、彼から目を逸らしてしまう。北風は変わらず吹いているのに、二人とも顔がやたら火照っている。
「……おなかすきましたね、急ぎましょう!」
 足早に歩き出す波多野のあとを追った。

 *

 槙野万太郎にも見えない世界を求める彼は、槙野万太郎でも手に入れられない日々を手に入れた。その姿は常に眩しいけれど、同時に傍らにいられる誇らしさもある。
 野宮にとっても、今が「そういう時期」なのだ。
視線

 教授室の様子は、以前とかなり変わっていた。
「とても素敵な肖像画ですね、威厳が伝わってきます」
「さすが、徳永教授の研究室にふさわしい絵です」
 口々に世辞を述べる助教授や助手たちに対して、徳永は笑った。しかしその笑いは、勝ち誇ってなどいなかった。
「あの人なら、美しくないと拒んだだろうな」
「……………」
 この部屋の、前のあるじ。美なるものを愛で、古くさいものを排除しようとした。しがらみと権威の世界で敗北し、この部屋を去ることになった人。確かに帝国旗など邪魔だと吐いてのけそうだ。
 自嘲を含んだ口調に、波多野だけでなく全員が戸惑う。
 徳永教授の仕事は、まず彼の痕跡をすべて消し去ることから始まっているというのに。

「肖像画か……これからどんどん増えていく仕事だろうね」
 兎小屋を掃除しながら、あの場にいなかった野宮に話を聞いてもらう。研究室の中では、皆ぴりぴりしていて雑談もしづらい。
「波多野くんも、そのうちだれかに描かせるくらいには、偉くなってくれなくちゃあ」
 もちろん、いつかはそういう立場になれればいいなとは思うけれど。
 ふと引っかかって顔を上げた。
「ぼくのは、野宮さんが描いてくださるんじゃないんですか?」
 小兎を抱いていた彼は少し考え込むように波多野の顔を見つめ、やがてくしゃっと笑った。
「それは……できないな」
「え、なんで」
 つい声を上げてしまい、兎たちが耳を立てる。
 野宮はのんきに小兎を撫でているだけだ。
「絵には描く者の『視線』が表れるものだからね。もしおれが波多野教授の肖像画なんて描いたら……」
 徳永教授のような威厳が出ない?
「……きみへの気持ちが、世に知れ渡ってしまうじゃないか」
「えっ、あっ……」
 返す言葉もなく眼鏡を直す波多野に、野宮は愉快そうな、照れたような笑みで小兎を返した。
「まあまず、肖像画より教授になるのが先ですよ、波多野さん」
「はあ」
 小兎を親へ返しながら生返事をするが、内心はそれどころではない。野宮の後を追って研究室に戻らなければならないのに、波多野は兎小屋の前から動けないでいた。
「ずるいなあ……」
 それはたしかに、帝国主義とともに掲げるものではなさそうだ。
 だが、美を愛しつづけた故人ならば、むしろ彼にこそ是非にと描かせるかもしれない。
「飾らなければいいんだよ」
 彼の目に自分がどう映っているのか、見てみたいという気持ちもある。
「こっそり、描いてもらおうか」
 兎たちに相談するものの、捗々しい回答は得られそうになかった。


旅先

 浴衣の裾を捌いて、野宮は月明かりに照らされた縁側に座り込んだ。
 宿屋の庭も背後の山々も、月を囲う雲も、すべてが絵のように美しい。
 いかにも瀟洒な意匠の煙草盆を引き寄せながら、ふとなぜこんなところにいるのかと奇妙な気分になる。僅かな給金で指図される絵だけを描いていた日々が、遠い昔のようだ。
 くゆらせた煙が月へ吸い込まれていくのを眺めていると、背後から呻き声が聞こえた。
 布団から這い出した波多野が、手とひざをついたまま寄ってくる。野宮の横までやってきて、大儀そうに座り込んでから眼鏡の位置を直した。
「もうだめです……明日帰ったら倒れますよ」
 首を鳴らしてぼやく彼に、つい笑みが洩れた。
「やっぱり、学生といっしょに今日帰ったほうがよかった?」
「とんでもない……こんな体で明日から講義なんて無理ですって。あいつらもどうせ居眠りするに決まってます。いいんですよ、休講で」
「ははは、優しい先生だ」
 波多野助教授率いる今回の採集旅行は、天候に恵まれたこともあり順調に済んだ。期待以上の成果物を抱えて帰る学生たちを見送り、二人はもう一泊この宿を楽しむことにしたのだった。
「ゆっくり寝ていたらいいのに」
「せっかく野宮さんと二人きりなのに、もったいない」
「嬉しいね」
 助教授と助手、地位が上がったぶん忙しくもなる。世間体もある。以前のように気安く行き来するのは難しくなっていた。年甲斐もなく、は言いすぎだが、盛り上がってしまったのも仕方ないとは思う。
「でも少し、羽目を外してしまったかな」
「いやあ、その……そうですね……」
 気まずそうに頭を掻く彼の浴衣は、布団から出てきたまま。襟元は着崩れて、いつもはシャツに隠れて見えない肌まで晒している。
 野宮はゆるむ口元を隠すように煙管を持ち上げ、波多野から顔を背けた。
「なんです?」
 露わになった彼の胸元に、紅い痣がいくつか見えていた。もともと日に焼けていないせいか、野宮の目にはやけに濃く映る。自分がつけた痕だと思えば尚更に。
「いや……はしゃぎすぎたなと思ってね」
 それとなく胸元を指してみせると、我が身を見下ろした波多野は、困ったように笑って襟を寄せた。
「気づきませんでした」
 ぼくも夢中で……と呟いて、眼鏡を押し上げている。
「採集中、藪蚊に食われたってことにでもしておきますよ」
 温泉に入って食事も晩酌も済ませれば、布団もあるし自然とそういう流れになる。ほんとうは二人とも連日の採集と指導監督で疲れきっていたはずだが、いきなりすべてから開放された勢いもあったにちがいない。
 しばらく縁遠かった欲望に、浅ましいほど溺れてしまった。波多野がぐったりしているのは半分ほど自分にも責任がある。
「面目ない……」
「いいえ。一服、分けていただけますか」
「ああ……」
 煙草を足したばかりの煙管を渡すと波多野は慣れた手で受け取った。
 しかし口元には持っていかず、灰落としのほうへ遠ざけ、もう片腕で野宮の肩を抱き寄せてくる。重ねられる唇に、分けてくれとはこういう意味だったかと思いながら応えようとした。
 ところが波多野の唇はすぐに逸れていって、野宮の首筋へと押しつけられる。
「ぁ……」
 己からは見えないが、痕がついたのを感じた。
「ぼくだけ食われたんじゃ不自然だから」
 波多野は悪戯っぽい眼差しでこちらを見上げ、ずれた眼鏡を直してから口元を煙管へと持っていく。満足げな顔が不意に幼く見え、野宮は耐えきれず噴き出していた。
「たちの悪い藪蚊だ」
 初めて彼の手を握ったときは、お互い不安に押しつぶされそうだった。頼り合い、縋り合って生きてきた。
 今、二人には経験も知識も技術もある。淋しさも怖さもない。あるのは、だれにも割り込めないこの時間だけ。二人で手に入れたものだ。
「波多野くん」
 床に手をつき身を乗り出して、彼の口から煙草を味わう。
 家からも大学からも遠く離れているせいだろうか。現実感がなく、ふわふわとした高揚感だけがずっとまとわりついている。雲を纏う今夜の月のように。
「……もう一泊したいねえ」
「いい考えですね」
 それから火種が消え、月光も差し込まない閨へ二人は戻っていった。

休憩

 顕微鏡から顔を上げる。
 視線の先には、画工の背中。窓を向いて座っているから、室内からは影が濃く見えた。
 なにを思うわけでもなく、その姿をぼんやり眺めていると、野宮がこちらを見ずに声をかけてきた。
「なにか、ご用ですか?」
「えっ、あの……えっ?」
 戸惑う波多野に、彼は体ごとふり返って、微笑んでみせる。
「教師になると、頭の後ろにも目がつくんだ。きみはまだだったかい」
「うーん、その域には達してないですね……」
 いちおう学生を指導する身ではあるが、もっと若い子供を教えていた野宮には、未だ教育者として敵わない部分が多々ある。
「波多野くんの目は、見えないものを見るためにあるから」
 野宮は優しく笑いながら、作業に戻った。
「てことは、そんなぼくを野宮さんがずっと、見守ってくださるってことですね。後ろ側の目で」
「任せておいて」
 その言葉に波多野は安心して、また小さな世界を覗き込んだ。

情動

 波多野はいつもどおり穏やかに笑っている。
「気にすることないですよ、ぼくがなんとかしますから」
 彼は眼鏡を押し上げ、表向きは意気揚々と会議室に向かっていった。山ほどの「論拠」を抱えて。
 野宮はその背中をなにも言えずに見送り、ため息をつく。こんなことになるなんて、思ってもみなかった。
 野宮が発表した論文は、評価を得ると同時に厳しい疑惑の目に晒された。帝国大学の権威も、植物学教室の実績も、元画工の身分を完全には保証できない。
 そもそも野宮朔太郎は本物の植物学者であるのか、という学界全体からの反発に、波多野は必死で抵抗していた。教授室から怒声に近いやりとりが聞こえることも少なくない。近ごろは常に顔色が悪いように見える。
 それでも波多野は、野宮には「なにも心配ない」と笑顔を向けつづけるのだった。
「……野宮!」
 大声で名を呼ばれ、はっと顔を上げる。
 細田が険しい顔で睨んでいた。気は短いが、無意味に声を荒げる男ではない。二度か三度、声をかけたのだろう。
「すみません……」
「教授がお呼びだ。さっさと行け」
 不機嫌そうな表情から察するに、楽しい用事ではないのだろう。せめて急ぎの図画を指示される程度であってほしいと、思いながら腰を上げる。
 覚悟して入室した野宮が聞かされたのは、予想外の情報だった。
「波多野に、東京農科大学から教授の話が来ている」
「それは……おめでとうございます」
 戸惑い、目を瞬かせる。波多野にとっても帝国大学植物学教室にとっても喜ばしい話のはず。なのに、なぜ徳永は気難しい皺を眉間に刻んだままなのか。
「その誘いは波多野一人に対してであり、おまえがついていくことは想定されていない」
「……ええ、承知しています」
 そうまで言われずとも、よく理解している。
「波多野は語学に堪能で、国内でも非常に評価の高い学者だ。わたしは指導者として、波多野にこのまま頂点まで駆け上がってほしいと考えている。わかるな?」
「はい」
「だが本人は、あの有様だ。今のままではこの栄転も蹴りかねん」
「はい……」
 要は、波多野の前途に野宮が邪魔だと言いたいのだ。
 イチョウの精虫が野宮の功績であっても波多野の功績であっても、植物学教室としては問題ではない。ただ、波多野が研究以外のことで煩わされているのは、彼の将来にとって望ましいことではない。
 波多野と野宮を引き離し、波多野から「野宮の名誉を守る」などという雑事から遠ざけるには、最も理にかなった人事だった。
 しかし徳永から苦渋の表情は消えない。
「野宮。おまえの植物画は、帝国大学が世界に誇る技術といっていい。槙野をも凌駕する可能性がある。植物学教室としては、ぜひ助手をつづけてほしい。当然、論文発表も認めよう。実績を出しつづければそのうち文句を言う者もいなくなる。それまで暫しの辛抱だ」
 この教室の研究者は、どれだけ尊大にふるまっても熱意や温情を忘れはしない。徳永はいつでもこうして、配下を守ってきた。自分も彼が抱える研究者の一人なのだと、今さらながらに感じ入る。
「辛抱なんて、とんでもない……」
 いつまでも守られてばかりでは、己も先も見失ってしまいそうだ。野宮は覚悟を決めた。


「槙野さんの奥方は、聞いていたよりずっと愉快なひとだったね」
 茶屋の座敷に、二人以外はいない。膳は下げられて酒だけ、呼ぶまでだれか来ることもない。波多野教授はすでにそんな「政治の場」を扱い慣れている。
「驚いたでしょう。見惚れているとあの調子で来られるもんだから、調子が狂うんですよ。そこにすかさず切り込まれて、男も女もみんな降参するんです」
 お互い、もうあれこれと湿っぽい話をする気はなかった。これは、波多野が野宮への餞として用意してくれた場だ。
「わかるなあ。槙野さんがあのひとを選んだのも、必然だと思ったよ」
 話に相槌を打つだけではなく、今や共通の知人として話題にできるのが嬉しかった。槙野万太郎とその家族に会うことができたのだから、もう心残りはない、と胸を張って言える。
 二人はぽつぽつと、知人の近況について語り合った。大仰にはしゃぐこともなく、かつてのように熱っぽく話し込むこともない。
「うちの母、明日初めて汽車に乗るんだ。汽笛の音に腰を抜かさないか、心配だよ」
「野宮さんも、長旅ですからお気をつけて」
 むりやりに作った笑顔は、今までと同じ。様々な懊悩を隠して、野宮を安心させるために笑っている。
「きみもあまり無茶はしないで、徹夜は控えて、早く縁談でも受けて……」
 いつか「まだ早い」と言っていた彼も今や、教授になろうとしていた。もう自分たちには、先延ばしなど許されない。それぞれに定められた道を進むしかない。
「平気です……ただ、とてもさびしいだけですから」
 その言葉を聞いたとたん、感情よりも先に涙があふれてきた。視界が滲んだことに自分で驚き、つい笑いが洩れる。
「ああ……おれだけは、泣いちゃいけないって、思ってたのになあ」
 目を覆ってうつむくが、相手の視線を痛いほどに感じていた。
「波多野くんが、ずっと笑ってくれているのに……」
「野宮さん」
 すぐそばで名を呼ばれ、それから抱きしめられていた。
「野宮さん」
 二度目は、震える声で。
「波多野くん……」
 彼のほうへ顔を向けると、彼は泣きそうな顔で眼鏡を頭上に押しやった。
 どちらが優位なわけでもない。ただ二人とも不安で、離れがたくて。最も近い相手に縋りつく。あの夜からずっと変わらない。
「……大丈夫です」
 野宮の肩に頬を押しつけ、涙声の波多野が呟く。
「ぼくだけが行ける場所で、ぼくにしかできない役目を果たすつもりですから」
「うん……」
 野宮にも、槙野万太郎にも成し得ない役割が、彼には見えている。なんの心配もない。
「いただいている縁談も、受けようと思います」
「そうだね、それがいい」
 学内政治も身につけ、長い猶予期間を終えた若き研究者には、遅すぎるくらいだ。
「だから……最後に、もう一度だけ」
 波多野の指が、野宮の唇をゆっくりとなぞる。
「意外に情緒的だね、きみは……」
 襟を濡らすのが、どちらの涙かもうわからない。
 茶屋の夜は、ひそやかに更けていった。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!