信一/四仔、十二少/四仔
三.役立たず
今日も信一はずっと海を見ている。
もうそれ以上短くならない吸い殻を咥えたまま、ぼんやりと彼方へ顔を向けている。
凪いだ海と呆けた男。動かない景色に苛立って、十二少は腰を上げようとした。だが右脚に痛みが走り、立ち上がるどころか無様に転がる羽目になった。
「クソったれ」
起き上がるのも面倒で、倒れたまま思いつく限りの罵声を吐き散らしていると、真上に影が差す。
「むだに騒ぐな、治りが悪くなる」
「うるせえ」
言い返しつつも、差し出される力強い腕に掴まって身を起こした。彼もあの夜、命懸けで戦い抜いた仲間の一人だ。
「次は薬を多めに持ってきてもらうよう頼んだ」
「そうかよ」
湿気が多い、潮風が強い、足下がおぼつかない。海上の隠れ家は、怪我人には最悪な環境だと医者が言っていた。目の前に立っている医者だ。自分自身も満身創痍で、それでも毎日全員の傷を診ている。
十二少は潮でごわついた髪をかき上げた。セットどころかしばらく洗っていない。生きているだけでも儲けものとはよくいうが、こんな惨めったらしい身分に落ちぶれることはもうないと思っていた。
廟街を仕切る虎の若頭・十二少はもういない。今ごろ、位牌になって兄貴の背中を見つめている。城砦の抗争に巻き込まれて命を落としたということになっていた。でなければ、三人とも香港を出なければならなかっただろう。
この廃屋に身をひそめてまで「待つ」意味があるのか。近ごろの十二少にはわからなくなっていた。
波の音は子守歌代わりになるとしても、この揺れは時として耐えがたい。
三人は毎晩同じ小屋で寝ていた。魂が抜けたような信一を独りにしておくのは危なっかしく、十二少は杖で歩くことさえまだ慣れていない。夜中に傷が痛み出しても、四仔がすぐ手当てできるように……。
だが最も夜を恐れていたのは四仔だった。
「……ぁああっ!」
真夜中、四仔の絶叫で飛び起きた十二少と信一は、あわてて灯りをつける。
「おい、どっか痛むのか? 四仔……」
様子がおかしい。信一が震える手で彼の腕を掴んだ。
「なにか思い出したのか」
四仔は引きつった顔で信一を見上げ、それから溺れたようにもがいて彼の脚にしがみついた。
「信一、信一、頼む……」
十二少にはなんのことだかわからず、信一を見る。だが彼もひどく苦しそうな顔で四仔を見下ろしていて、やがて欠けた指で顔を覆った。
「悪い、今は無理だ……」
信一がよろめきながら出ていったあと、振りほどかれた四仔は呆然と座り込んでいた。
「四仔?」
声をかけられて初めて十二少の存在に気づいたかのように、黒い目がこちらを認めた。
「ああ……なんでもない、気にするな……」
「なんでもない? そんなに震えてるのにか?」
「触るな黒社会!」
つい伸ばした手を乱暴に払いのけられ、怒るよりもぎょっとした。これまでは冗談にしか聞こえなかった言葉が鋭く刺さる。
ずっと仲間だったのに。いっしょに憤って笑って、ともに死にかけ生き延びたのに。
四仔にとっては結局、王九も十二少も同じ「黒社会」でしかないというのか。
信一は隣の小屋の向こうにいた。
十二少が近寄っても、短い煙草をくわえたまま水平線を眺めている。
「おい、説明しろ」
「なにを」
「四仔だよ、知ってるんだろ」
城塞であんな姿は見たことがない。いつも憎まれ口を叩いている男が、哀れなほど弱々しく信一の名を呼び、なりふりかまわず縋っていた。
「ここしばらく……洛軍が来てからは、落ちついてたんだけどな。あの人数でやられて昔を思い出しちまったんだと思う」
「あの傷の話か」
黒社会に女を奪われて自身も切り刻まれた、という話は有名だ。壮絶な経験だったのは傷を見ればわかる。親しくなって、この十二少がその鬼畜を成敗してやると宣言もした。友だちなら当然のことだが、四仔はまともに取り合わなかった。
「十二」
煙を吐き出し、信一は灰を落とす。
「自分の女がAVに出てたとして、ああいう探し方できるか」
「……………」
四仔に対して幾度も思ったことではある。
自分なら、関係ないAVを見るだけでも怒りで頭がおかしくなるだろう。その憤りをぶつける先がないことにも、現状をどうにもできない自分にも腹が立つ。今がまさにそうだ。
「希望があるわけじゃない。自分を痛めつけるためだ。……黒社会の俺に抱かれるのもそうだった」
四仔が、信一に。
いつから、と問いただしそうになって飲み込んだ。気づかなかった自分が鈍いというだけのことだ。こちらも信一に打ち明けていない話はいくらでもある。それほど口が固いわけでもないこの男が守れていたのだから、なによりも秘すべきだったはず。
「わけわかんねえ……」
「俺もわかってなかった」
信一の声は帳簿でも読み上げるかのように平坦で、無感情だった。
「思い出すタイミングが悪いと、ああやって退役軍人みたいな発作を起こす。だからあいつを『奪われた女の代わりに』抱いてやってた。AVの真似事で気がまぎれるらしい。……どうかしてるって思ってた、けど」
実際どうかしている。自分が抱かれて女が助かるわけでもないのに。いかつい男が、AV女優の代わりに? 意味がわからない。
「今はわかりすぎるくらいだ」
信一の声が震える。右手の包帯に血が滲んでいた。
「……ふざけんな」
今になって、だれかにめった刺しにしてほしいとでもいうのか。これ以上、理不尽に傷つけられて気が休まるとでも? 信一が傷つけば龍捲風が戻ってくるとでも?
小屋の戸が開いて、四仔がのっそりと出てくる。目以外は襤褸布で覆われていて表情が見えない。
「……夕べは、迷惑かけた。波が荒くて酔っただけだ」
信一は煙草をもみ消し、感情のない瞳で四仔を見やった。
「力になれなくて悪い」
「もう言わない。怪我人はおとなしくしてろ」
二人とも悟ったような顔でをして、ただ痛みから気を逸らしているだけだ。沸き上がってくる苛立ちを抑えきれず、十二少はぐらつく柱に拳を叩きつける。ばらばらと木っ端や土埃が落ちてくるが、だれも文句は言わない。
「あああっ! 畜生っ!」
仲間は腑抜けと臆病風、自分の右脚は動かない。これが吠えずにいられるか。
「つき合ってられるか! 勝手にしやがれ!」
どれほど癇癪を起こしたところで、ここから出られないことも知っていた。
あの人が影ながらこの暮らしを支えてくれているのに、会って礼を言うことも詫びることもできない。
傷の治りが普段より遅いのも相まって、ここだけ時間が止まっている気がした。
夜中、また野太い悲鳴で叩き起こされる。
信一の姿はいつのまにか寝床から消えていた。外で四仔の声を聞いたとしても、今の彼には他人に手を差し伸べる余裕はない。
「四仔」
切り裂かれた肌の痛みか、女を奪われた屈辱か。城砦を奪われた悔恨か。
「ぅあ……っ」
「四仔、俺だ、落ちつけ」
「触るな……!」
近寄る者を払いのけようとする腕を掴み、抱きすくめる。
今度は引かない。十二少はそう決めていた。
「俺だ……十二、少だ」
言い含めるように言葉を句切って語りかける。
今の彼は、暗闇の中でさえ顔を覆う布を外そうとしない。テレビもビデオもここにはなく、彼の気をまぎらわせるものはなにもない。信一も……。
焦燥のまま、濡れた目元に唇を押し当てた。直に触れられるのはそこだけ。
「なにをすればいい?」
「……っ」
戸惑ったように相手の呼吸が止まり、それから手探りで十二少の手を掴もうとする。その手を握り返して、抱きしめる腕に力を込めた。
「おまえらのためだったら、なんだってする」
「……………」
大きな手が、震えながら十二少の首を抱き寄せた。
触れていいのだと判断して、仮面代わりの布の下に鼻先を突っ込む。上下する肩から首へ傷を辿り、唇まで辿りついて、荒く乱れた息を吸い込んでやる。
「抱いても抱かれてもいいから」
声をかすれさせた十二少の頭を、四仔の手が遠慮がちに撫でていた。
あの人が、セットした髪をわざと崩すように頭を撫でてくる感触が思い起こされる。今は崩れる髪型すら作れなくて、あの人にもしばらく会っていなくて……。
「クソ……っ」
もう帰れない。偽りの位牌だけがあの人のところにある。覚悟は決めていたはずなのに、涙が滲んでくる。
「俺を役立たずにするな……」
人前に出ることも、戦うことも、あの人のために生きることもできなくなった。大切な場所を奪われ、恩人を死なせ、仇敵をのさばらせ、友の心も救えない。
「十二」
四仔の節くれ立った指が、濡れた頬を拭う。慰めるはずが慰められているようだ。
「逆じゃねえか」
むりやり笑顔を作りながら、十二少は四仔の肩に顔をうずめた。彼の上着がはだけて、古い傷痕が十二少の頬に触れる。顔だけでなく全身に刻まれた、彼の悪夢。
過去に苛まれる苦痛はよく知っていた。どんなに強くなったつもりでも不意に姿を現す亡霊から、逃げおおせるすべを十二少もまだ知らない。
「信一じゃなくても、いいか?」
「……あいつはいつも全部言いふらす」
苦笑気味に呟いた四仔は、自ら顔の布を剥ぎ取った。暗がりの中で顔など元より見えないが、十二少は笑ってひたいに張りついた前髪をかき上げてやった。
「やっと会えたな」
迷いを振り切るつもりで裾から手を入れると、汗ばんだ肌が冷たい。古い傷を撫でさすり、傷のないところに口づけの痕を残していく。四仔の鼓動と呼吸が再び速くなった。
寝台に押し倒して乗りかかると、相手のひざが自分の股間に押し当てられた。そこは感情の昂ぶりとともに硬くなりはじめている。右脚の痛みから気を逸らして、十二少は厚い胸に指を食い込ませた。
「断っとくけど、信一よりでけぇぞ俺は」
四仔が声を上げて笑うのを、久々に聞いた。
長い指が、ずっと十二少の肌をまさぐっている。
治っていない傷を器用に避けて、腕や胸をさすり、背骨や腰骨をなぞり、力の入らない右腿を撫でて……縋りついているのか、慰めようとしているのか。
それが無意識の動きだと感じさせるのは、腕の中の四仔があまりに没頭しているから。
「ぅあっ、あん、もっと……」
想像もしていなかった甘い声でせがまれ、夢中で彼の奥を穿った。内側は誘い込むように吸いついてきて離そうとしない。
それと同時に、肩から撫で下ろされた手が、胸の突起を優しく嬲る。
「はぁ……っ」
初心なつもりはないが、その愛撫は反則だと思った。じわりと広がる快感が、迸る熱情に追い打ちをかける。汗ですべる彼のひざを抱えなおし、改めて腰を突き上げた。力強い腕がなりふりかまわずしがみついてくる。
「っ、信一……」
濡れた唇からこぼれた男の名を耳にし、思わず微笑む。
経緯はどうあれ、四仔は信一を求めていた。城砦の中では、信一との関係がが大きな支えだったことは事実だろう。
あらゆる苦痛から逃れていられたその瞬間に、自分も四仔を連れていけたということが、今の十二少には無性に嬉しかった。
「なあ四仔……俺でもいいか?」
彼は答えずに唇を重ねてきた。娼婦のように官能的な口づけは、限界に近い十二少の熱をさらに煽るのに充分だった。
「ぉっ、んぅっ……」
口を塞がれたまま、十二少は四仔の中にありったけの欲を注ぎ込む。一瞬のはずなのに、いつまでも吐精の感覚が終わらない。白濁で腹の奥まで満たしてしまいそうだった。
唾液の糸を引いた唇で、低い声が囁く。
「十二少は、どうなんだ?」
「……!」
出会ってから一度も、そんな呼び方はしなかったくせに。
目が合うと、彼は声を出さずに笑った。
信一はベンチに凭れ、夜明け前の海に向かっていた。
彼には未だ、なにも聞こえていない、見えてもいない。二人が睦み合っていたことさえ、意識の外だろう。
十二少は杖を鳴らす。それでようやく、彼は頭を動かした。
「四仔は」
「寝てるよ」
日の出の薄明かりが、信一の横顔を照らす。その頬は濡れていた。
「俺……兄貴を愛してた」
「うん」
「気持ちを逸らしたくて、四仔に手を出した。……先に縋ったのは俺なんだ」
「……………」
信一ほどの「色男」が、なぜ堅気の男と関係を続けていたのか。四仔ほどの知的な医者が、なぜ黒社会に自ら身を委ねたのか。今の十二少には理解できた。
だれ一人として幸せにならない。最愛の人とは二度と会えずに、違う人間と肌を重ねるだけの歪な繋がりだ。その危うい紐帯で、この日々がなんとか保たれている。
「やめようぜ。俺たちみんな、凭れ合わなきゃ生きてけねえんだ」
信一の横に腰を下ろし、冷え切った体に寄りかかる。
三人とも、以前と同じようには戦えない。決して癒えない傷もある。追っ手や報復に怯えながら、この揺れるあばら屋で一生を終えることになるかもしれない。
十二少は信一のポケットに手を突っ込み、ライターを取り出した。湿気った煙草に火をつけて一口吸ってから、信一の口元に差し出す。
「ほら」
頭だけを動かしておとなしく咥えた信一は、目を閉じてゆっくり吸い込む。
「……生きてるかな」
「生きてるよ。必ず戻ってくる」
海を渡ったかどうかはわからないけれど。洛軍はきっと生きのびていて、そして必ずまた会える。運がよければ、自分たちが共倒れになる前に。
そのときは、四人でこの最悪な日々を終わらせてやるのだ。
フリートーク2
スクショ
スクショ
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