信西/師光
平清盛:信西/藤原師光
戸板の隙間から、かすかだが光が差し込みはじめていることに気づき、師光は初めて眠気を覚えた。あくびを噛み殺し、つい握りしめてしまった紙の皺を伸ばす。
燭台の火は尽きようとしているが、今さらつけなおすこともないだろう。目をしばたかせながら、一晩中算木を並べていた男をあらためて見やった。
忙しいときには学者たちが数人、信西と同じように床に這いつくばって計算を重ねているが、今夜は師光の他にはだれもいない。
夜更けにふと書を読みはじめた信西が、思いついたことを深く追い求めようと座り込んだのが発端だった。はじめのうちは「先にやすんでおれ」と何度か言われたが、頑として居座っているうちに、控えていることすら忘れられて今に至る。
それでも師光に不平などなかった。少しばかり体の節々が痛むが、それがいかほどのことか。だれに阻まれることもなく、この国を背負っている男の姿を存分に眺めていられるのだから。
「……できた!!」
甲高い声が静寂を破る。
墨も乾かぬ紙を翻し、信西は体ごと振り返った。
「見よ師光! これならば一戸あたりの税を減らしても税収は増えることになる! 先月流された橋の工事もできようぞ!」
「おお……」
並んだ算木だけではさすがに一目ではわからないが、乱雑な走り書きに目を通せば、信西の辿った筋道がはっきりと見える。神の手業を見る思いで、師光は常に興奮をもって信西の仕事を目にしていた。
「殿……さすがにございます!」
たった今、自らの成果を誇ったばかりの信西だったが、師光のまっすぐな賛辞に気恥ずかしそうな笑みを見せた。
「そう申してくれるは、そなたばかりじゃ」
「いえ……」
わからぬ連中が愚かなのだ、と師光は思う。だが一仕事終えた信西は、それ以上の議論を重ねる気はないようだ。
「すまなんだな、こんな刻限まで……」
そこで信西は、ようやく朝の訪れを知ったらしい。ほの暗い部屋の中で眩しげに目を細めた。
「暫しおやすみなされませ。すぐに寝床の支度をさせましょう」
「うむ……」
師光の言葉に立ち上がりかけた信西だったが、よろめいて床に手をつく。
「殿!」
「面倒じゃ……ここでよい……」
そのまま崩れ落ちそうになる信西に、師光はあわてて手を伸べる。抱き止められるかたちになった信西は、師光を見上げて決まり悪そうに八重歯を見せた。白い歯を見せて笑うなどひどく品のないしぐさであるはずだったが、そんなことを思わなくなってかなり経つ。
「そなたもやすめ……」
師光を押しやろうとする手を掴んで、袖で僧衣を抱き込む。
「いえ、私もここで」
その意図を解したらしい信西はわずかに戸惑った目を向けてきたが、眠気には勝てなかったらしい。目を閉じてもたれかかってくる。
「すまぬ……出仕前には、起き……」
終わりまで言い終わらぬうちに、信西の重みは師光のひざに預けられていた。
「おやすみなさいませ……」
小声で囁き、薄い肩を袖で覆う。震えるほどの季節ではないが、それでも明け方は冷える。風邪などひかれたら一大事だ。
今や摂関家をも凌ぐ権力者の信西だが、国の要を支えるその身はひどく軽い。師光の腕の中に収まるほどに小さく、儚く感じられる。
この尊い、しかし壊れやすい璧玉を胸に抱き、己ができることといえば、このわずかな休息を護る程度なのだけれど。それでも信西は師光が傍らにあることを許してくれる。
「ついてまいりますよ、どこまでも……」
強く抱きすくめたい心を抑え、師光は今一度、主を包み込む袖を静かに掛けなおした。
はっと目が覚める。
部屋に差し込んだ光の長さから見て、まだ日は昇りきっていない。小さく息をつき、信西は自分の顔に差す影を見上げる。
師光は、信西を抱いたまま眠っていた。
化粧は剥げかけ、烏帽子は情けなく折れ曲がり、衣は皺だらけで、たきしめられた香もかなり薄れている。だが信西にはこちらのほうが好ましく思えた。
この男を利用していることは百も承知だ。出会ったころは罪悪感などなかった。こちらを利用しようとしているのは師光のほうだと、確信していた。互いに己の目的のためだけに相手を使う、承知の上のつながりだと思っていたのだ。
いつからかはわからない。他人を値踏みするような鋭い目が、ときとして慈しみすら感じさせるようになったのは。
なにが師光を変えたのか、信西には心当たりがなかった。
戯れに説く仏の道に心打たれるような輩ではないことはたしかだ。自らが信心厚いとはいえぬ信西の口先だけの説法など、師光ほどの男ならばすでに見抜いているだろう。
ふと、己の肩を抱く手に触れてみる。
冷たい手がひくりと震え、探るように動いて信西の手を握った。
「……?」
起こしたかと思って見上げたが、閉ざされたまぶたが動く様子もない。赤子のように、師光は信西の手を握ったまま眠っている。
ようやく悟った信西は、静かに息を吐き出す。
「私か……」
この男が認め、従い、縋っているもの。それは信心でも権力でもない。主と見込んだ男の知恵であり、行いであり、心だった。親を求める雛のような真摯さで信西を慕い、頼りきっている。なにも見返りなどないことはわかっているであろうに。
もし、この男になにかを与えられるとしたら、それはなんなのか。
わずかにも動かぬ寝顔を見つめながら、柄にもなくそんなことを思う。友に身内を斬らせ、非情に生きることを決めたあの日から、何者の期待にも応えることはやめたはずなのに。
だがやはり、なにひとつ思いつかなかった。どれほど算木を並べても出ない答えはいくらでもあるものだ。
せめて今は、忠実なる彼にわずかな安らぎの時を与えよう。日が昇り、使用人が戸を開けて、まばゆい朝を持ち込むまで。
「暫し、やすめ」
信西は口の中で呟き、再び目を閉じた。
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