フィクションにおけるセクシュアリティと「私たち」への葛藤。
純粋な雑談ですが、140字の連投じゃまとめられなかったのでここで吐き出します。
みんなこういうややこしい話をよくTwitter上でできるなあと思う。そりゃあ切り取りも誤解も出てくるよ。
基本的には、三次会で完全に酔いが回った状態でクダ巻いてるような話です。
この記事はあくまで私が自分に向けて考えていることで、世の中がどうこうではないし、こう考えるべきとも思ってないです。
去年まであたりまえに使ってた言葉や考え方が今はNGなんてことはザラな時代なので、一年後にはまた違ってるかもしれない、という前提で。
このテキスト自体去年から捏ねてるんだけど、一段落つける意味でも一回ここで出しとく。
まとまってはいないです。
できるだけ正式名称で書くので、知らない作品や単語があったら各自調べてください。
他人の私見を鵜呑みにするのは思考放棄になってしまうので。
今ごちゃごちゃ考える気分じゃないなあという人は読まないほうがいいです。
【目次】
◆腐女子、slasher、shipper…≓「私たち」
◆カルチュラル・スタディーズとしてのBL
◆「一般向け」フィクション内でのセクシュアリティが変わりつつある時代
◆「私たち」の目線:本当にアライ?
◆「私たち」の目線:クィアではなくBL?
◆「私たち」の目線:クィアベイティング?
◆「私たち」の目線:ブロマンスならOK?
◆「私」の目線:もし自ジャンルにクィアがいたら?
◆「私」の目線:もし自カプにクィアがいたら?
◆結論は、ないです
◆アップデートの問題
あ、15000字超あります。一年ぶんだから。
◆腐女子、slasher、shipper…≓「私たち」
ボーイズラブ、やおい(yaoi)、June、ホモ、少年愛(shonen-ai)、slash……なんでもいいです。とりあえず今回は短いからBLと呼びます。
男性同士の恋愛?性的関係?強い絆?を描く……と「?」がいちいちついてしまう時点で、もう一口では説明すらできないジャンルに、私は長いこと身を置いています。
そのジャンルを愛好する側……腐女子と呼ばれたり、slasherやshipperと名乗ったり、いろいろあります。
でも今のところどのジャンルでも問題なく通じる「総称」はない気がする。
主語の総体は私の中では明確なんですが、なんて呼ぼう……という迷いのせいで、主語がない文章になってしまいます。
強いて言うなら「私たち」でしょうか。でも自分は主流の人たちとはちょっと違う、そっちの仲間じゃないと思いたい部分もある。そこの意識も含めて「私たち」なんだと思うことにします。
以下、「私たち」の話です。
もうめんどくさいから、「俺もおまえも、みんな武衛だ」みたいなこと言いたい。
◆カルチュラル・スタディーズとしてのBL
「なぜ自分はBL(当時はやおい)に惹かれるのか」と考えたことない人ってあんまりいないんじゃないでしょうか。
……と20年以上前に言ったら、意外と「なんでそんなこと考えるの?」という反応がわりと返ってきたので、今はもっと少ないかもしれない。逆に、いろんな言説に触れる機会が多くなって、自分と向き合う人が増えているかもしれない。
Twitterでそれっぽいこと言ってたら深く考えずにリツイートしてそれでよしとするのかもしれない。みんな忙しいからね。
若き日の私は、ちょっと抵抗感があったというか、認めたくないというか、モヤモヤしておりまして。同性愛自体が病気とか異常という意識も強かった時代だし。
モヤモヤしすぎて、卒論テーマにしちゃったくらい(おかしい)
そこで国内外の先行研究やいろんな考え方のご同志に出会って、あと問題の大きさに気を失って、なんかもういいや!好きだし!程度にはなりました(おかしい)
そのおまけみたいなもので、セクシュアリティやカルチュラル・スタディーズについて、人よりは少しだけ前提知識がある状態です。
でも日単位で情報が上書きされていく時代では、すでに使えない知識や考え方のほうが多いでしょう。
ICTだけでも手いっぱいなのに社会問題まで日々アップデートしなければならないというのは、もう人間のキャパシティを超えているんじゃないかと思いながら溺れています。
でも一度首を突っ込んでしまったからには、知らなかったことにはできないのも事実なんですよねえ。
*
以下ずっとBLの話ですが、百合(GL)が同じルートを後追いしているように見えるので、ここでは同列に扱います。
BLは弱者である女性主体のカウンターカルチャーとしての意味合いが強く、百合は強者である男性の性的搾取の延長だったような気がするのですが。
スタートは真逆の性質を持っていたのに、双方の市場が大きくなるにつれ、だんだん収斂してきているように見えるのです。
その印象自体がまちがってるよ、という見解もあるとは思います。
大事な差異なので、そのまま読みつづけてください。
◆「一般向け」フィクション内でのセクシュアリティが変わりつつある時代
ほんの10年前と比べても、フィクション内でのジェンダー観やセクシュアリティは大きく変化していると思います。
……でもね、ずっと変わりつづけてるんですよ本当は。ちょっとずつ、いろんな人の努力で。だから唐突に思えるのは、その変化に気づかなかっただけだと思う。
例えばこの前の笑『007』には、黒人女性の00メンバーが登場しました。「ボンドガール」ではなく、ボンドと同列のメンバーとしてです。
レギュラーメンバーに同性のパートナーがいることも、さらっと明かされます。ジェームズ・ボンドが「古き良き」理想の男性性を体現してきたという事実を踏まえると、かなり感慨深いものがあります。
*
さて、『鎌倉殿の13人』楽しく観てます。
後半から登場の源実朝。
大人の俳優に変わってから、匂わせるような描写はあったのだけど、明確に泰時への恋心と、女性が性的対象にならない旨を描いてくれました。
時代背景的にはまあ主流ではないにしろ特別に禁忌でもなかったはずなので、おそらく互いに既婚者であること、身分差や政治的立場の微妙さにフォーカスしたのだろうと推測します。
でも、その苦悩は現代的に描かれているんですよね。誰にも言えない秘密を抱えて、なんとか荒っぽい男社会で生きていこうとする。でも結局なじめないし爪弾きにされるし、セックスできない相手と結婚させられるし、想い人はノンケの友だちとキャッキャしてる。なにひとつ自分の思い通りにならない、窮屈なクローゼットの中のマイノリティです。
泰時に返された和歌を「箱にしまう」という演出に唸りました。
なんかこう、大河ドラマの歴史的に残る描写だな……と胸が熱くなったのです。
*
同じく大河ドラマでも、『平清盛』(2012)で描かれた同性愛(男色)は、藤原頼長が平家盛を籠絡する政治的な手法であり、明確に暴力でした。DV彼氏でパワハラ上司。
時代劇でよくある描写といえばそう。
そういえば、『引っ越し大名!』では、物語の冒頭も起因も「男色」でしたね。
コメディなので、しれっとあっけらかんと「江戸時代の常識」みたいに描かれるんですが。そもそも「藩の引っ越しで大名の財政を圧迫させる」ってのがパワハラなんで。藩内でのエピソードも含め、パワハラ教材みたいな映画です。
あえてめんどくさく言えば、ホモソーシャリティに組み込まれているイデオロギー的ホモセクシュアリティ。社会の維持に同性愛関係が利用されている状態です。
みんな大好き小姓や稚児も、社会的な権力関係の延長にあるのが基本です。少なくとも、東アジアの男色文化はそういうシステムで構築されていることが多いですね。社会的に立場が上の者(年長者)が「美少年/美青年」を「寵愛する」ことは、権力構造を崩さないからむしろ歓迎される。
(逆を探してるんだけど、なかなか決定的なケースに遭遇しない)
だから、成人既婚者の泰時に実朝が想いを寄せる、妻を娶っても褥を共にできないほど性志向が明確である、泰時に対して権力を行使しなかった、などなどは「男色文化」ではない。むしろアンチテーゼ。
いろんな要素をうまくコントロールしながら、現代的なゲイの視線で描かれるというのが本当にすごいことだと感じました。
BSでも夜ドラでもなく、地上波で、伝統的な大河ドラマで。
でも制作側の誠意を、「私たち」はちゃんと受け止められているのかな?という不安も湧き上がってきたのです。
◆「私たち」の目線:本当にアライ?
私はいちおう、アライ(Ally)のつもりで、つまり社会的にはLGBTQを応援したいと思いながら生きています。
思ってるだけで、なかなか行動に移せないんだけどね。せめて差別・否定しないというスタンスではありたいよね。
差別的な表現は使わない、拡散しない。
男女カプを「NL(ノーマルラブ)」とは表記しない。「ホモ」「オカマ」は自発的にはもう言わないようにしてるし、「男」「女」も「らしさ」も不用意に使わないようには心がけてる。
それもここ数年の話です。まだまだ現状には追いついてない。
5年以上前に書いた話はもうアウトな描写もあるかなといつも思ってます。
自分がクィア側だという意識もなくはないけど、今回は棚に上げさせていただいて。
でも「私たち」が「本当にフラットな目線でアライになれるのか」という不安もあります。
*
『平清盛』は私もジャンルの片隅にいたので、よそさまのカプをどうのというのは非常に心苦しいのですけれども。
劇中で肉体関係があることを明確にされていた藤原頼長×平家盛は、人気のある組み合わせでした。
ただ、権力構造があまりにもはっきりしているのに、純愛とかラブラブが多かったのがとても不思議で。
私が読み取れなかった繊細な描写があったら申し訳ないですけど、あの現象への戸惑いと、なんともいえない違和感がずーっとありました。
ここで、歴史モノの映像作品を出すこと自体がアンフェアなのは薄々気づいています。どうしても、俳優や声優、史実の有名人物といった外部要素が絡んでしまうから。
マンガとか小説とかの二次創作の話をしたほうがいいとは思う。ホントはね。
*
あれから10年(!)。
『鎌倉殿』でもうっかり書いてしまっているので、よそさまの(略)
ええと、泰時と実朝の二次創作はたくさん描かれていることと思います。本編の展開からいって現パロが多いでしょうが、そんなことはどうでもよくて。
やりたいという気持ちが出てしまったのなら素直に昇華すればいいとも思う、同族としては。
でも一方で、「同性愛描写=公式カプ!で安直にワッショイしていいのか」という気持ちが出てきちゃう。
頼長と実朝の描写は真逆なのに、なにかこう「沸き立ち方」に同じテンションを感じるというか。
結局、男同士ならなんでもいいんじゃない?って。
当時は違和感を言葉にできなかったけど今は、ドラマ内で明示された同性愛描写を「確約された消費対象」として無批判に歓迎しているんじゃないか?と思います。
よそさまのカップリング批判みたいになってごめんね。
◆「私たち」の目線:クィアではなくBL?
実朝について、ざっとTwitterで感想を追った中で「公式BL」という言葉が目立つのも気になりました。
ご同志かどうかに関係なく、否定的な人も肯定的な人も、「BL」という概念を利用しているんですよね。
あーこれはよくないな、まずい流れだな、と思いました。
今に始まったことではないし、その時々で指摘(糾弾・炎上)されてきていると思うんですけど。
BLがジャンルのひとつとして確立されてきたこと自体が悪いわけじゃなくて。
ジャンルとしての名称が一般的になったせいで、フィクション内のクィアな事象を全て「BL/百合」に落とし込んでしまう「逃げ」が、社会全体に作られてしまったんじゃないか、と感じます。
実在するクィアな人々の存在を、フィクションとして消費することで、経済を回す商品としてラベルを貼りなおして受け入れてしまったのではないか。
かつて「オネエ系タレント」がそうであったように、当事者もそうでない存在も乱暴にまとめてパッケージすることで、流通させてしまっているのではないか。
そう考えるとき、公式が最大手!とか騒いで喜んでる「私たち」は、マジョリティ側に加担し、マイノリティに対して加害者になったんだと認めざるをえないわけで。
「BL最高!」「百合萌え!」「推しカプは永遠にラブラブ!」という態度は、一見して同性愛を全肯定し応援している雰囲気があるのですけど。
これってアライなのかな?といつも思ってしまいます。
現実の問題を応援するっていう流れにいってるならいいんですが。
BL/百合が一般化というか先に商業化してしまったせいで、恋愛でも友愛でもまとめて全部「BL」「百合」と片づけてしまっている気がするんですよ。
少し前まで、BLは好きだけど本物のホモは気持ち悪い、百合はいいが本物のレズは嫌だ、みたいな感覚はわりと堂々と言ってもいいみたいな雰囲気がありました。これはもうずっと世代問わず、毎回ショック受けるくらい平然とあって、減ってはいるんでしょうけどまだ一定数はいると思います。
その「差別」はもちろんNGだけれども。
リアルに生きている人とフィクションをまとめて「ホモ大好き!」って言っちゃうような、「無差別」もかなり問題だと思っています。
◆「私たち」の目線:クィアベイティング?
クィアベイティング(queer baiting)という言葉が使われるようになってきました。
性的少数者を「釣る」ようなマーケティング手法のことで、実際はそうでないものを「そうである」かのように見せて消費行動を促す……ってわかりにくいですよね。
具体例を挙げると……
劇中では同性愛関係や婚姻関係にないキャラクター同士の、モチーフアクセサリーをセットで販売するとか。意図を疑うペア・リングはBANDAIでもよく見るね。世界的に有名なのはONE PIECEのゾロとサンジかな。
あとは、アイドルがグループ内で特定の相手とイチャイチャしてみせるとか。ビジネスBL、ビジネス百合とも言われるやつ。本人が、自分と誰がカップリングなのかというのを把握してアピールに組み込んでいるそうです。
「あくまでコンビとしてなので言いがかりをつけないでほしい」とか「需要があるからいいじゃないか」とか「勝手にそう捉えるほうがおかしい」とか、いろんな反論があります。
たまに、クィアな人たちが「この作品に同性愛者を出してほしい」「このキャラクターが同性愛者だと公言してほしい」的なことを公式に訴えたりしていますが。
私も昔は理解できなかった。私たちは勝手に妄想してるんだからわざわざ公式に言わなくてもって。
でもクィアベイティングの文脈で見ると、なんかわかるような気がする。
当事者は「私たち」じゃないんですよ。
公式認定を求めているのは、BL/百合を消費する部外者ではなくて、つまりよく言われる「現実と妄想の区別がつかなくなった頭のおかしいオタク」ではなくて、マジョリティと同等の権利を求めるマイノリティです。
影響力の強いフィクション作品で、異性愛者と変わらない立ち位置で同性愛者が活躍すれば、現実にも影響を与えられるかもしれない。その可能性があるならと制作側に意見する人もいるってこと。必死さが違う。
でも作り手としては、やっぱり断言しちゃうのはリスキーなわけですよ。
今まで(そのキャラクターが同性愛者でないかぎり)支持していた顧客を失う危険が大きい。でも、これから(そのキャラクターが同性愛者であれば)支持してくれる顧客にもいい顔したい。
だから、どっちつかずの売り方をするんじゃないかな。そのほうが両側から支持してもらえるし、客同士で殴り合ってくれるから。
日本においては、制作側が「BL/百合」の文脈を使うことによって、「あ、これはガチの同性愛じゃないんだな」と思ってもらえる節がある……と見ているんですけど、どうでしょう。
受け入れられない客も、「腐女子に媚びている」「百合豚が群がるな」と別の客を殴りにいってくれる。最近はこういうのが流行りなんですよ、ニーズがあるんですよ、と消費者のせいにできる。
というのは、穿ちすぎでしょうか。
外国のことは不勉強でわからないんだけど、同性婚の議論さえもずっと先にある日本は、少なくともそうなんじゃないかなって印象です。
◆「私たち」の目線:ブロマンスならOK?
ブロマンスって言葉、私はあんまり好きじゃないです。
使われはじめたころからモヤモヤしてて、その女性版として「シスターフッド」が出てきたときに、これは同じ道を辿るぞと思った。
バディ+ロマンスの造語で、元は「恋人のような」強い気持ちで結ばれた男性同士の、性交渉を前提としない関係を指す言葉だったと思うんですけど。
今のBLでは、関係性の強度に関わらず、広く「セックスしない二人」「恋愛・婚姻関係に至らない二人」のニュアンスで使われてますね。顔見知り程度でもブロマンスと書いてあるので「???」ってなります。
なんなら単なる片想い(肉体関係に至らない)に使われてることもある。「BL未満」的なあつかいなのかな。
少年誌でBL/ブロマンスという区分を見かけたときには、本当に混乱しました。
どういう意味でそう言ってるのか、人によって定義がぜんぜん違っているから、ラベルとして成立してないんですよ。昨今のオメガバースみたいなもん笑
上記のクィアベイティングの助長も当然あると思う。
全ての関係をロマンティックに落とし込んでしまう感じの使われ方も、違和感がある。
自分がそういう書きかえをしていることは百も千も承知で、ものすごくモヤモヤするんですよね。
これはBLでもゲイでもないですよ~という弁明というか、いやらしい距離のとり方というか。
なんか、まだ言語化が完璧じゃないけど、とにかく使いたくない。
「ブロマンスが好き」という人に、そういうつもりがないのは理解してるんですけどね。
ロマンティックを避けた結果という場合もあるし。
問題は、この言葉が好きで検索キーワードにしてる読者が少なくない、ということ。
「恋愛/性愛なしの関係」は体感としてとても需要が多いのに、商業的には重要視されていないためにそれを表す適切なジャンル名が決まっていない、というのが大きな要因だとは思うのですが。
結局私の作品が刺さるのは「ブロマンスが好き」な人たちなんですよ。
だから一次創作では、仕方なく宣伝文句に使う場合も多いです。
告知宣伝テキストを書くのは私自身なので、自作紹介で「ブロマンス」と書くたびに寿命が1日ずつ減っています。
くっそ、命削って宣伝してる俺の小説をみんな読め。超ブロマンスだから(また1日)
◆「私」の目線:もし自ジャンルにクィアがいたら?
話の方向性がわからないでしょう。私もです。
実はまだ本題に入っていないんですよ。怖いですね。私もです。
*
そもそもこの文章を書こうと思ったのは一年ほど前、「アメコミのスーパーマンがバイセクシュアルになった」件で紛糾したときのことです。
私はアメコミ素人なので完全に理解できているかは自信がありませんが。
なんかまちがってたらすみません。
スーパーマンの息子である今のスーパーマンが、同性のキャラクターと恋人になるという描写が「公式」で描かれたというニュースです(アメコミの何が公式か問題はひとまず置いておいて)。
相手がアジア人(有色人種)というのも、なかなかセンセーショナルでした。
これ、さっきの「どっちつかずが有利」で考えると、すごいことですよね。
世界中でいろんな意見が出たのは、まあいいんです。今だって、黒人の『人魚姫』がいろいろ言われているし。
私個人は、ディズニーといえば「民話・古典の破壊者」というイメージが先に出てくるので、自らが作り上げた「悪しきスタンダード」を覆していく流れはいいんじゃない?と思っていますが、元の「赤髪のアリエル」も知らないのでコメントする立場ではないと思います。
それよりも、私がその話を知ったときに感じたこと、それをだれにも言えなかったのが問題でして。
*
フィクション内のセクシュアリティはどんどん多様化していってほしい。
黒人のアリエルを見た、黒人の子供たちの反応がバズりましたが、自分と同カテゴリのキャラクターが活躍するのはとても嬉しいことです。今まで脇役や敵役にされていたカテゴリのキャラクターにはとくに。
ジョナサン・ケントだろうが源実朝だろうが、異性愛者たちの中にあたりまえにクィアなキャラクターがいるのが正常な状態になってほしい。
それは心からそう思っています。
でも、でもですね。
セクシュアリティ書き換え二次創作(BL/百合)を嗜んでいる身としては、どう受け止めればいいんだろう?って思ってしまったのです。
たまたま、私が関係ない「スーパーマン」の世界だったから、「おめでとう」と言えるけれど。
その関係が自分のジャンルに表れた場合、「支持します」「当然でしょ?」ってアライ顔してるだけでは済まない、意識の壁を乗り越える必要があるような気がして。
*
『ホワイトカラー』は、詐欺師のニールと刑事のピーターが主役のドラマです。
ニールには追っかけてる恋人がいて、ピーターは妻とラブラブなんだけど、私はニルピタいいな……と思ったし、同人誌も買ったし、海外ファンフィクも読みにいったりしました。
ピーターの部下に、レズビアンをカミングアウトしている刑事ダイアナがいます。ナチュラルに「彼女とデートに……」と会話に上る。周囲も受け入れている(いちおう)。彼女もかっこよくて好きなキャラです。
で、ニール×ダイアナを見かけたときに、はっきり「それはまちがってる」って思ったんですよ。
だってダイアナは男に興味がないんだから、ニールとくっつくはずがない。
でもすぐに「あれ?」って思いますよね。
ニールもピーターも異性愛者で、しかもパートナーがいるのに。
まあニールはキャラ的に必要があれば男とでも寝そうなやつだから(偏見)いいとしても、ピーターはFBI捜査官で既婚者です。保守的な白人男性で不義なんてしないんですキャラ的に。
ダイアナの書きかえはNO、ピーターの書きかえはOK、っていうこのめちゃくちゃ勝手な気持ちはなんなんだ?と自問自答してしまったんですよ。
このときの居心地悪さが、スーパーマンの話を聞いたときに甦りました。
劇中で明言されていないから……などと言い訳しつつ、結局「全員異性愛者という前提」に乗っかった書きかえにすぎない、ということを突きつけられたわけです。
ダイアナさえいなければ、私は平然とニルピタをやっていたかもしれない。そうかダイアナは無視すればいいんだ。ダイアナは別の世界線の人間なんだ。
同性愛などないことにしてしまえば、社会はうまく回る……一瞬でもそう思ってしまったことに慄きました。
◆「私」の目線:もし自カプにクィアがいたら?
先述の『007』で、Qの現在のパートナーが同性だと示唆されても、抵抗はぜんぜんなかったんですよね。
Qがああいう(ボンド的な男性性のアンチとして登場した)キャラ造形なのもあるし、クレイグ007はたまに(主にボンドに対する)ゲイ的な視線を意識していたのもあって、世界観的にもあまり突飛な感じはしませんでした。あくまで私は。
ただコレ、私がQとボンドで性的な関係を描いてなかったから、というだけのような気もするんですよ。
私は「あえてセックスしない、恋愛感情を抱いていないボンドとQ」のSSを書いていました。その解釈とそれほど違っていなかったから、だけでは? 実際、自宅のイメージは自分が書いたのとほとんど同じでしたし。
どっかに「自カプじゃないから見逃す」的な意識がなかったか?とは思いました。
自分が二次創作してる作品に、クィア描写があったら?
もちろん、アライを自負する一視聴者としては、歓迎する。この作品から、広く多様性が認められるかもしれないから。
でも、同人屋としてはどう感じるんだろう。
*
例えばの話。
私の主戦場(?)であるスーパー戦隊に、同性愛者のレギュラーがいたら?
スーパー戦隊は、戦士が恋愛もするし既婚者や子持ちもそこそこ出てくる作品です。だから恋愛話はNGではない。
こういう話を始めると、「ヒーローにセクシュアリティ設定は必要ない」という意見が絶対出てくるので、そこへの予防線です。でもそれは、全員が異性愛者であること前提の意識なんですよ。最近はちょっと揺らしてくる回もあるけどね。
ちなみに「ヒーローは恋愛してほしくない」「子供番組で大人の恋愛話は見たくない」というのは別の話なのでここでは取り上げません。
同性愛とか異性装とかは今のところ「その場のギャグ」としてしか出てきてないと思う。私も笑って消費しているのは認めます。
それこそ「ブロマンス」「シスターフッド」の世界です。
(アメリカのパワーレンジャーはメディアの基準や社会背景が異なるので除外させてください)
例えばですよ、来年の戦隊メンバーの中に……そうだな、ブルー(♂)に同性の恋人がいる、と途中で明かされたとします。でも私はその時点でブルーとレッド(♂)に萌えていて、SSも何本か書いていた、としたら。
メンバーは現代日本の人間であるとします。人外や宇宙人だと「リアル世界の規範に縛られない」という言い訳をしてしまうから、私が。
ブルーがゲイ/バイであるという部分のみを「公式設定!」と勝ち誇って、相手は書きかえるということが許されるのか?(ゲイは性的に奔放である、という古い価値観を強化してしまわないか?)
もしゲイなのがイエロー(♂)で、自分のカップリングに無関係であっても、一人クィアが現れた以上、全員のセクシュアリティと向き合わなければいけないのか?
当然、自分がいかに無自覚に全員を「異性愛者」と決めつけていたかを噛みしめるだろうし、そのとき私は平然と(本来は異性愛者であるはずの)レッドを書きかえていられるのか?
……などと考えていくと、心から歓迎していると言えるのか?って。
*
鎌倉殿でいうなら、実朝をフった泰時が、他の同性と性愛関係を持ってもいいのか?と、どうしても考えてしまう。
個人的に、泰時と鶴丸は仲良くて(組み合わせとしての)見栄えがいいなあと思っていたのだけれど、劇中ではこの二人の無自覚なホモソーシャリティによって実朝の孤独と失恋を描いているわけで、そこを「書きかえ」てしまうのは作品が実朝に込めたメッセージを否定することになるんじゃないか。
実朝を直接消費対象とすることも、実朝を透明化することも、かといって泰時と鶴丸に実朝を裏切らせることもしたくない。
そのモヤモヤを押しきって行動するほどの勇気がない。
要はビビっています。
こういうタイプが「自主規制」なんてのをしてしまうわけです。
*
私は「半ナマですがナマモノはやりません」と言いつづけてもいます。
伊達に邦画洋画合わせて20年以上やってないので、それが珍しいほうだということも知ってはいます。
理由は一言では説明できないので「書きません、読みません」とだけ言っていますが。
ただ最近は、本人への気遣いとかじゃなく、実在の人間のセクシュアリティを書きかえることへの恐怖や抵抗感なんだろうな、と思ってもいます。
「彼はおそらくヘテロだろうからクィアにはならないだろう」と「彼が本当にクィアだった場合、なんかすごく気まずい」という気持ち。
いやそもそもNGな行為なんですが、私の考え方もかなりNGだと思う。うまく言えないけど。
もう全部泥まみれだからどこが汚れてるのか見えない。
◆結論は、ないです
金にならない「考え方」は広まらない、と私は思っています。
経済学とか始める前から挫折してた私みたいな人間でも、生きてて自然とそう思うようになるのだから、きっと世の中そうなっているのでしょう。
例えば「SDGs」は、考え方自体は昔からあったものばかりです。「持続可能な社会」は20世紀末にはもう提唱されてた。それを一括りにして「世界の目標」にしたのは頭いいなあと思うけど。
私が子供のころでいうと「エコロジー」が同じだった。金儲けの道具だから俺は絶対エコには反対だね、っていうおっさんが山ほどいました。
でも何十年かでいちおう「エコ」は美徳として、日本人の意識に刷り込まれたわけで。
どんなにいいことを言っても、みんなが金になると思えなければ、社会を意識から変えることなんてできない。
今「SDGs」が金儲けの大義名分になっているのは、ある程度仕方のないことなんだと思います。
やってるほうも「この看板に便乗してやるぜへっへっへ」とか思ってるとは限らなくて(大半思ってるでしょうが)、本気で世界をよくしようと思ってる人たちがたくさんいるのです。
そういう人たちを見極めてお金を出していくのが、正しい消費行動のはずですが、まあ難しいですよね……
*
マイノリティを尊重する心も、商売になるとわかればどういう形でも社会に根づくはずです。
左利き向けの商品は昔に比べるとかなり増えましたね。そのへんを「誰でも使える」としたのが、ユニバーサルデザインです。「みんなが使いやすい」は、長期的に見れば金になるんです。
LGBTQも「みんな」に含まれるから、そうなっていいはず。
ただ、日本ではそれが「BL/百合」という当事者でないカルチャーとして定着してるのかもっていう懸念がどうしてもあります。とくにフィクションの世界では。
『おっさんずラブ』は、BLの嗜好の幅や、消費者の間口は広げたかもしれない。長く「おっさん萌え」をやってきた身としてはいい時代になったなあと正直感無量です。
でも、リアルなクィアを受け入れる流れにはどうやらなっていない。リアルじゃないから当然だけど、こうなったらいいなという夢の世界でもあるわけだから。
『きのう何食べた?』はもう、青年誌で連載してる。作者自身の強力なブランド力もあるとはいえ、ドラマ化に際してはかつて同性愛者を異性愛者に変更された過去があったことを思うと隔世の感がありますね。
でも、中身の生々しさに対して「BL」という認識は強いし、なにより「ごはんもの」という大きな看板で本質を(宣伝上は)隠している。「ごはんもの」ってずるいよなあって少し思います笑
今、市場が拡大したためにBL原作のドラマがどんどん出ています。
質の話をすればすごくよくなってますよね。
20年くらい前と違うのは、「こういうの腐女子とかいうニッチな連中が喜ぶんだろ?」「受けは女形ってことだろ?」みたいなタバコくさいおっさん目線(悪意ある表現)ではなく、私たちのツボを心得てる同類目線が増えてるということ。
正直、ライトに楽しんでます。推し俳優が出ても昔ほど複雑な気持ちにならないですね。
でもターゲットはあくまで「私たち」であって、当事者ではないんだよなあ、たぶん。
もちろん当事者も楽しんでるよ!という声は聞くし、今はきちんと配慮できる制作者が参加しているという話もあるし、それはそれでとても嬉しいことではあるんだけど。
主体ではないから現実的な問題には繋がりにくい。
「現状に手を加えて」まで「寄り添ってあげ」なきゃいけない存在より、積極的に消費してくれるオタクのほうが相手にしやすい、金になるという一面もあると思います。
消費者としては、できるだけ「正しさ」に金を出したい。
でもすでにBLを消費している私たちに、実際それが可能なのか。
罪深い我々は天国へ行けるのか、悪人正機なのか、みたいな話でしょうか(違います)
結論は、ないです。
答えは出てないから。私はこの先もずっと逃げつづける可能性があるから。
*
ここでひとつ謝罪。
すみません、『作りたい女と食べたい女』読んでないです。
まず読んでドラマ観てから語れ、そうですよねわかる。
そういうとこの受信がしっかりしてない人間に、ジェンダーとセクシュアリティを語る資格はないかもしれない。
まずあの作品に「ビビってる」自分がいます。
評価の高い作品って、そのぶんシビアな部分がリアルで、そのリアルが自分に近ければ近いほど敬遠してしまうタイプなんです。腐女子腐男子とか隠れオタクの話とか。そのあとに逆転があっても、すごく痛みを感じてしまう。
そういうとこがダメなんだよなあ……
◆アップデートの問題
ここまで語ってきたことについて、私自身はまだぜんっぜん折り合いついてません。
でも、クィアキャラに対して「自ジャンルには来ないで」とは絶対言っちゃいけない、それだけは守りたいです。
一瞬でも否定しちゃダメだと、自分に課しています。
自分の既得権益のためにマイノリティを踏みにじってはいけない。あたりまえ。あたり前太郎。
めんどくさいけど、そういう葛藤を重ねて答えが見出せるはずだから。
おっさんずラブみたいな世界観で、だれもが自由にだれかを好きになるのが普通になったら、この悩みは消えてなくなるのかもしれないですが。
*
最後に、差別意識とアップデートについて。
『仮面ライダーゼロワン』は、AI(人工知能)を搭載したロボット「ヒューマギア」の人権問題に触れていました。
「シンギュラリティ」を起こして自我に目覚めたヒューマギアを人間と同格に扱えるのか……というよりは話の都合上、「悪意のあるラーニング」によって暴走したヒューマギアを仮面ライダーが破壊してもいいのか、という方向でしたけれども。
私はAIを今のところ車やスマホと同じ道具だと思っています。
だから、いかに人間の(和田聰宏の!)顔で「我々に報酬は支払われないのですか」と言われても、プログラミングされたジョークだと受け取るでしょう。
AIが学習過程でそんなことを本気で言い出したら、バグだから機能停止しなきゃ、って飛電インテリジェンスと同じ決断をします。
滅亡迅雷の顔がいいのはすごくわかるけども、アークが美声なのもよく知ってるけども、彼らの言う「シンギュラリティ」がウイルス的な働きをすれば、それは駆除しなければならないと思う。
「ヒューマギアとの共存」というのは、人間とヒューマギアの協業によって人間社会を発展させる、という意味でしかない。ヒューマギアの生活水準を向上させよう、という意識はない。
いい服着せてちゃんと充電するとは思うけど。
でも、人間の意に反するシンギュラリティを起こしたAIが破壊されることを、許せない視聴者もたくさんいました。
たとえヒューマギアが対立勢力になっても、新しい種としての意志を尊重すべきだという意見です。
私とは逆だけど、バカバカしいとも思えなかった。
ほんの数十年前には、LGBTQも有色人種も、社会的に優位な属性の人々と同じ権利は必要ないとされていたし、今もまだ同等の権利は与えられていない現状です。黒人なんか同じ人間じゃないと思っている白人もまだ大勢いる。
それと同じだと思えば、飛電の仕打ちは奴隷商人のように見えるはず。とくにヒューマギアは人間と同じ姿だし。
建前上の視聴層である子供たちにも、どう映ったかが気になります。
ヒューマギアがいじめられているように見えなかったか。あるいは、人間と同じ見た目でも攻撃していいと思ってしまわなかったか。
後半出てきた「アイちゃん」と本物の「AIBO」は、ヒューマギアもみんなの家にいるアレクサやグーグルと同じだよ、というエクスキューズだったのかもしれない。
あくまで人間のために存在することを強調していたのかも。
今の私は、現実のAIは道具だと思っています。意思のない存在に勝手な意思や権利を見出すのは危険でさえあると考えています。
あくまで現実の話なので、スタートレックのデータ少佐が機械として扱われる場面は悔しかったし、映画アイアンマンのジャーヴィスがいなくなった時はとても悲しかったし、滅亡迅雷なんか家に一人ほしいです。ドラえもんとかコロ助とかそういう存在ですかね。
もし私が生きているうちに、「AIも人間と同じ権利を手にするべきだ」という流れが納得できるまでに社会が変化したら、私もAIに人権をという意見に賛同します。
それは変節ではなく、現状に合わせたアップデートだと思っています。
時が来たらちゃんとアップデートできるババアでありたいものです。
幸いこの問題については、今はまだ当事者が存在しないので、後回しでもいいのですが。
シンギュラリティはまだ起きていないし、起きたらどうなるかはだれにも想像がつかないので。そして現実の人間のほうがまだまだ問題山積なので。
ただ、全ての事柄において「明日にはこの倫理観が覆るかもしれない」ということだけは、心に留めておきたいです。
内心では反対しながら多数派に迎合するんじゃなく、自分自身の意識を転換しなければ実害がある、という自覚で変われるか。
これは、まだ私がAI差別主義者だったころの記録になるかもしれません。
◆後書きみたいなもの
……全体的に支離滅裂なことを言ってるのは自覚があります。
生産性のないことをぐちゃぐちゃ考えずに、開きなおって楽しんだらいいじゃない。それはそう。
それができないなら、二次同人やめて品行方正な人生送ったらいいじゃない。それはそう。
どっちもできたら苦労しない。
できたら人生の半分以上を人に言えない趣味抱えて生きてない。
禁煙外来みたいに、禁二次外来とかないのか。
*
賢明な方ならお気づきかもしれません。
実はこんなに長々と書く必要はなかったのでは?ということを。
私のモヤモヤを簡潔に表せる言葉も議論も、世の中を探せばもうとっくにあるのです。
でも私の頭はまだそんなにすっきり整理されていないので、個人的な「お気持ち」も抱えているので、わざわざ長ったらしいテキストを心のままに綴りました。
思い込みとか先入観ゆえの飛躍や、省略もあるかも。ちゃんと精査してるわけじゃないので明らかな誤謬もあるかも。
ここまで「political correctness」「feminism」という言葉を使わずに語ってきたのも、自分の頭の中にあるモヤモヤに対して使うには、分不相応な気がしているからです。
現状では不正確に使われているケースがあまりにも多くて、使うのが怖いという気持ちもあります。
言葉って難しいもので、定義が曖昧だと正確に伝わらなくて使いづらいという面がある一方、なじまない言葉を使いつづけることで自然になることもあるんですよね。どっちもあるから難しい。
そのへんも含め、これからちょっとずつでも、ラーニング&アップデートしていければと思っています。
*
くり返しますが、上記すべて私個人の意見です。うーん、感想かな。考察はしてないし。
読んだ人に同様の思考を強いるものでもありませんし、考えてみてくださいという問題提起でもないです。
今ニッケルはこんなどうしようもないことをぐるぐる考えていますよ、という現状報告です。
ご意見くださいというわけでもなく、むしろ大して知識がない私では論破されそうな予感しかありません。
それ以前に、口頭の議論に対応できる気がしません。これ書くのに一年かかってるくらいだから……
でも読んでこう思った、という感想は受けつけられる程度の器でありたいです。できればお手柔らかにお願いします。
ただ「2022年現在の私のスタンス」を記録しておきたかっただけなので。
10年後には、こんな葛藤も無意味だったねってことになっててほしい。
それくらい、全く別の考え方ができるようになっていてほしいです。自分も世の中も。