【SS】ビルド「PAPAs’ Build 3」

新世界のマスターと戦兎の話、つづき。
1>https://pictbland.net/items/detail/605404
2>https://pictbland.net/items/detail/615851

1も2もつづけるつもりなかったんですけど、ずるずると3本目です。
戦兎が守った新世界を否定せずに二人の関係を本編前の状態に戻したくて、いろいろムチャしました。

長いので、この記事よりピクブラでページ分けたの読むほうが楽かも。

3>https://pictbland.net/items/detail/621232

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傘を持っていけと言われたけど、いつ返しに来られるかなんてわからないから断って店を出た。ところが思った以上のどしゃぶりが急に襲ってきて、逃げる間もなくびしょ濡れになった。
親切にも、マスターが傘を持って走ってきてくれる。頭からバケツの水をかぶったみたいになった俺を見て、一瞬足を止めた彼の表情にドキッとした。
忘れもしない……初めて出会った日、空っぽの俺を見下ろしていたあの顔だったから。
「傘……もう遅いか」
強ばった顔をすぐ笑みに変え、彼は苦笑しながら俺の上に傘をかたむけてくれた。
あの日もそうだったな、なんて今さら思い出してしまう。
「風邪ひくぜ? うちで雨宿りしていきなよ」
濡れた肩を抱き寄せてくれた彼の体温があのときと同じようにはっとするほどあたたかくて、断ることなんてできなかった。

あの日も、彼は俺をこのカフェに連れ帰って、そして自分の服を着替えとして与えてくれた。
「悪いね、俺のスタイルがよすぎるばっかりに」
そう、初対面とは思えないほど軽い冗談を飛ばして。
あのときの彼は俺の記憶を奪った張本人で、「親切で陽気なマスター」を演じていたのだけれど、エボルトでない彼も、同じ状況では同じような冗談を口にするのだ、と思ったら、全身の力が抜けるほど安心した。
たとえ全てがエボルトの演技だったにしても、エボルトが彼の性格をそのままなぞっていたのだとはっきり確信できたのがうれしかった。俺がなにも知らず、知ろうともせずただ過ごしていた一年間、彼とともに過ごした時間が全て偽りだったという事実に変わりはない。だがこの軽妙さが石動惣一由来であることもまた嘘ではないのだと思う。
濡れたコートをハンガーに掛けていたマスターが、このブランドは高いとかなんとか言っている。
そういえば、値段なんか気にしたことなかった。
コートも、腕時計も、ただ与えられたものを身につけていただけ。当然のように、俺はすべてを享受していた。礼なんかほとんど言った記憶がなくて、彼も求めなかった。
「買ってもらったんだ」
彼と同じ顔をした男が、俺を凝視した。
「俺、なんも持ってなくて……でも、その人が全部くれた。服も、時計も、食事も、家も……生きる意味も。人間として必要なもの全部……」
「……そっか」
困ったような声で彼は相槌を打つ。あたりまえだ。今の彼にとっての俺は、お気に入りのバンドマンによく似た新しい常連、というだけの存在でしかない。
「でも、全部嘘だったんだって、あとからわかって……」
涙を見せたくなくて、タオルを顔に押しつける。
「今でもわからなくなるんだ……俺が信じたのは……俺が好きだった『あの人』は、いったいだれなんだろうって……」
全く関係のない彼にこんな話をして、困らせているのは自覚している。なのに止められない。だれにも言えずくすぶっていた言葉が、よりによって彼の前であふれてしまっていた。
「いや、元凶は他にいてさ。そいつに利用されて、望まないことさせられてた『その人』も苦しかったと思うんだよ。それを知らなかった時点で俺もそいつと同罪なんじゃないかって考えたら、けっこう惨めでさ……
俺、その人のことなんも知らなくて、傷つけるばっかだったんじゃないかって……答えなんてもうわかんないのに、今でもその人の顔見ると、申し訳ない気持ちになるときがあって。でもなんでかなあ、様子見に来ちゃうの」
そして、幸せに穏やかに暮らしているのを見て安心する。
娘と漫才みたいな掛け合いをして、くだらない冗談を言いながら、最高にわざとらしく決めたポーズで最高にかっこいいウインクを飛ばして、大きな声で明るく笑って……俺が知っているのと全く変わらない姿で、そこに生きていることを確認する。何度でも。
「きみは、それでいいのかい」
ずっと黙って聞いていた彼が、労るような口調で尋ねた。本心からの素朴な気遣いなのだろうと思ったら、涙をこらえるのが難しくて顔も上げられない。
「今その人は俺と無関係の世界で、幸せに暮らしてるから。マスター知らないだろ、この世界がただ存在してるって、すごいことなんだぜ」
それでいいのかって? それでいいんだ。あなたが、みんなが平和に生きていられるこの世界こそを俺たちは望んだんだから。
なのにどうして、なにも知らない「石動惣一」に、「世界」の話なんかしてしまったのだろう。これ以上、彼を戸惑わせても自分が店に来づらくなるだけなのに……
大きく息を吐き出すのが聞こえる。ため息ついちゃうほどに呆れたかな、引いたかな。
「……知ってるよ、戦兎」
静かに告げられた言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「え……」
適当に話を合わせた、わけではない。彼ははっきりと俺の名を呼んだ。この世界に存在しない人間の名前、彼が知るはずのない名前を。
顔を上げると、眉根を寄せて俺を見つめているマスターがいた。
彼はゆっくり言葉をつづける。
「自意識過剰でナルシストの、自称天才物理学者が救ったこの世界のことも」
そんなはずはない。
平行世界は決して交わらない。途中まで同じ人生を辿ってきても分岐以降は別の存在だ。ここにいる石動惣一と、エボルトに支配されていた石動惣一は同一人物だが互いの人生を知ることはできない。
この彼が、俺を知っているなんてこと……
「桐生戦兎が愛した相手のことも……おまえよりよく知ってるさ」
愛。
旧い世界で俺がつかの間、偽りの蜜月に浸らされ、そして否定されたものだ。それこそこの世界には存在しえない。いや、最初からどこにもなかったはずだ。
だが目の前の石動惣一は、力強く告げた。
「きっかけはどうあれ……俺は本気で、おまえを愛したよ」
「……っ!」
ずっと、腑に落ちなかったことがある。
認めたくなかっただけかもしれない。だが、エボルトの残忍さと、俺を育ててくれたマスターの誠実さには大きなギャップがあった。彼はまっすぐな目で正義を語り、正しい愛と平和の意味を俺に教えてくれた。正体を明かした後でさえ、俺を嘲笑ってもいい場面で、なぜか苦しげな表情を見せることもあった。
いくら人知を越えた存在とはいえ、ただの演技でそんなことができるのだろうか。何もかもが明らかになったあとも、どこか引っかかっていた。
そして今、演技ではない言葉が俺に一言一言はっきりと向けられる。
「俺たちのつながりは、嘘なんかじゃない」
それは、あの裏切りの日からずっと、俺が求めてやまなかった言葉だった。
でも待て、と理性が引き止める。
俺を知っているマスターが今ここにいるはずがない。いるとしたら、それはエボルトでしかありえない。
見た目は……いや話していても、俺にはエボルトと石動惣一の区別がつかない。そもそも俺は本物の石動惣一を知らない。
今も、表情を隠すように帽子を下げた彼の仕草が、ただ見慣れたものにしか見えなくて。
「ごめんな……おまえにとっちゃ、宇宙で一番信用できない顔だろうけど……」
理屈じゃない。
この人はまちがいなく、俺の「マスター」なんだと思わずにはいられなかった。

 

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動揺した俺が落ちつくまで待ってくれた彼は、乾いた服に着替えた俺を自分の部屋に連れていった。
そこは、俺が知っている「彼の部屋」ではなかった。まず部屋の位置が違う。
「あの……」
問いを口にするまでもなく、彼は俺の疑問をすくい上げる。
「ああ、二階の? 美空の部屋になってるよ」
なるほど、追われていないんだから地下に隠れる必要はないわけだ、と単純に納得しかけたのだが。
「あの部屋はいちばん日当たりがいいからな」
「……………」
桐生戦兎のことだけじゃない。閉ざされた地下室で、朝昼も夏冬もわからない生活をしていた娘の姿を知っているのだ、この石動惣一は。
俺は言葉もなく、促されるままその部屋に入る。まるで見たことのない部屋だった。
「座ってろ、今なんかあったまるもん持ってきてやるから。あと美空に適当な言い訳してこないと……」
賑やかにまくしたてられたあと背後でドアが閉まり、見知らぬ部屋に取り残される。
俺が知っている彼の部屋は、チェストとクローゼットと大きなベッドがあって、ほとんど寝室だった。少しだけタバコの匂いがして、それを消すための香水の香りも。
でもここにはベッドなんかない。代わりにソファがあって、壁に作りつけられた本棚には本がぎっしり詰まっていて、机の上にも何冊か。よく見ればチェストなんかは見覚えがあったけれど、それ以外は完全に書斎といった雰囲気だった。
奥にドアがあって、きっとその向こうが寝室なのだろうと思う。
やはりここは別の世界なのだと思う一方で、桐生戦兎を知る石動惣一の謎はいくら考えても糸口さえ見えない。
本棚の背表紙を追っていると、マスターがトレイを持って戻ってきた。
「そろそろ腹がへるころかと思って、スープにしたけどよかったよな」
「……うん」
あの日も……彼に拾われた日も、不味いコーヒーを避けたのか温かいスープだったことを思い出す。
でも今は感傷とは別のほうに意識が向かっていた。書架に詰まっている本だ。
「マスター……専門は量子力学だったの?」
もちろん宇宙関連の本も多いけど、本棚にあるタイトルから総合して考えるとそうなる。旧い世界では、本や論文どころかそんな知識があるそぶりさえ見せてはくれなかった。
「まあな……昔の話だよ。今の専門はコーヒーだからな」
そう言って、彼は机の上に置いてある一冊を手にとってみせた。たしかに、そこに積んであるのはコーヒー栽培や焙煎に関する本ばかりだ。
「アカデミックなほうはもうさっぱりだな。読みたい本があったらどれでも借りてっていいぞ」
正直、手を伸ばしたいタイトルは何冊かある。ただその前に、横にあるCDに目が留まってしまった。クラシックやジャズに混じって、例のインディーズバンドのアルバムがある。
「……そんなに魅力的なバンドとは思えないんだけど」
「そう言うなよ、おまえとおんなじ顔なんだから」
「同じだからダメージくらうんだよ……って、まさかボーカルの顔が理由じゃないだろ!?」
彼は声を上げて笑った。それから、センスの欠片もないジャケットを俺に向けてみせる。
「この顔の男が歌っていられるってのはさ、この世界が正常で平和な証拠なんだよ。そう思ったら、応援しないわけにはいかないじゃない」
佐藤太郎……名前から外見から私生活まで、なにもかも締まりのないふざけた男で、自分で言うのもなんだけど品行方正な葛城巧とは永遠に交わらない、まさにパラレルな存在だ。そんな、世界の破滅にも戦いにも無関係な彼が、おそらく無関係という理由だけで命を奪われた。
彼が生きているという事実は、たしかにそれだけで平和の象徴なのかもしれない。
「まあ、歌ってる内容は徹底的に頭悪いし、ギターなんかいつまでたっても上手くならないけどな。そこも含めての平和だよ」
愉快そうに眉を上げ、彼はCDを棚に戻す。
「BGMにかけてもいいぞ」
「やめて」
俺は肩をすくめて、勧められたソファに腰を下ろした。手にしたスープのカップが泣けるほどあたたかい。
彼はコーヒーを机の上に置き、自分は椅子に座ってこちらに向きなおる。
「さて、どこから話そうか。遡ること10年前、と言ってしまえたらよかったんだけどな……」
そう切り出した彼が、めずらしく慎重に言葉を選ぶようにして訥々と語った、長い長い孤独な戦いの遍歴。おそらく、他人に語るために言語化したことは一度もなかったのだろう。
俺の父……葛城忍までも巻き込んだその「事故」は、石動惣一を苛みつづけた。止められない侵略と破滅、くり返される失敗、死して逃げることすら許されない時間の檻……想像を絶するなどという言葉だけでは片づけられない。
相槌すら打てず、とっくに空になったカップを両手で握りしめていた。
俺は……桐生戦兎は、石動惣一と葛城忍が無数の失敗と犠牲の上に完成させた、最後の希望だったと彼は言う。
気の遠くなるほどの回数、エボルトと対峙しつづけた「石動惣一」は、この世界でやっと平穏な生活を手に入れた。俺が思っていた以上に、それは奇跡的なことだったんだ。
まだ情報の整理がつかなくて、単純な疑問を口にする。
「……エボルトがいない世界なら、宇宙飛行士をつづけてもよかったんじゃないの?」
火星から帰ってきたときにはまだまだ働き盛りで、宇宙開発チームもリーダー的な存在である彼を必要としていたはずだ。今だって楽隠居にはまだまだ早すぎる。書架の本だって、あきらかにここ数年の新刊が混じっていた。この部屋に入って、彼がただの喫茶店主で終わってしまうのはもったいないと思った。
「そうだな……よく言われるよ」
彼は自分のカップといっしょに持ってきた別のカップにポットからコーヒーを注ぎ、俺のところへ持ってきてくれた。そのまま、俺の隣に座り込む。
「一人娘が普通の子供時代を送って、反抗期だの思春期だのもちゃんとつき合えて、今は月並みに将来の心配をしてやれる……そんなのは、どの世界でも経験したことがなくてね。それだけで充分、ってのも事実さ」
優しい父親の横顔を見せた彼は、しかし俺を見てふっと笑った。
どこか自嘲を含んだ、昏い笑みだった。
「この宇宙にエボルトはいない、パンドラボックスも存在しない。頭ではわかってる。
でもまた別の場所でパンドラボックスを見つけたらと思うと、怖くてもう飛び立てなくなっちまってな。美空のためになんて言っちゃいるが、美空にしがみついてたのは俺のほうだったんだよ」
妻を亡くしてたった一人の家族となった美空を、彼は一度ならず守れなかった。それどころか自ら苦痛を与え、手にかけたことさえあった。
それを全て記憶しているのだとしたら、「怖い」という言葉も大げさではない。
美空だけではなく、俺が知るだけでも多くの人間を陥れ、踏みつけ、平気で命を奪った。自分の顔で、自分の声で、そして自分自身の手で他人を傷つける恐怖がどれほどのものか。
俺も一度だけエボルトに憑依されたことがあるが、自分の意識がある状態がいちばん苦しい。死んだほうがマシだと思う瞬間さえあった。
それをこの人は、10年間も続けてきたのだ。ついさっきまではそう思っていた。でもそうじゃない。10年どころか、彼自身の体感にしたら百年でもきかないかもしれない。
そんな過酷な状況をだれにも知られず、苦しみ抜いて戦いつづけた。俺はなにも知らないで、ただ彼に甘えていただけだった。
「マスター……」
あんなに近くにいたのに、今もすぐ隣にいるのに、俺は……
手を伸ばし、彼の顔に影を落としている帽子を取る。
「ん?」
ひたいに落ちてきた前髪を払おうとした彼の手を掴み、ソファの上にひざ立ちになって、その頭を抱き寄せた。
「お……」
壊れ物をあつかうようにそっと、彼を抱きしめる。
孤独なヒーローは、だれからの労りも慰めも、感謝さえ必要としてはいないだろうけれど。
少しくせのある髪を、できるだけ丁寧に撫でた。ときどき彼がしてくれたように。
「たった一人で、よく……がんばったね……」
彼は息を止めて黙り込む。
「どこまで上から目線なんだよ……」
笑みを含んだ声は途中で震えて途切れた。
彼は、声を殺してすすり泣いていた。
驚いたけれど、そのまま頭を撫でつづける。
「……っ」
トレードマークのサングラスをむしり取って、広い手で自分の顔を覆って、彼は肩を震わせた。
石動惣一という男は、どんなときでも余裕で洒脱で、敵にまわってさえ俺たち全員より上手の「大人」だった。彼の感情表出は常に、他人を動かすための手段だった。
その彼が、演技でなく俺を安心させるためでも不安や怒りを煽るためでもなく、自分の感情を抑え切れずにただ泣いている。
その心が全部理解できるなんて思わない。なにをしたって、返り血にまみれた記憶が消えるわけじゃない。でも、縋りついて泣ける腕くらいは、俺にだって提供できる。
「マスターにとっては、つらい記憶のひとつかもしれないけど……俺は、あんたと過ごした時間、すごく楽しくて幸せだったよ。空っぽの俺に、あんたが全部をくれた。あの時間が嘘じゃなかったってわかって、今ホントにうれしいんだ……」
「戦兎……」
初めて見る不安そうな泣き顔が見上げてくる。
「つらいことしかなかったが……エボルトさえいなけりゃ、おまえとはもう一度楽しくやりたかったよ……」
「……今なら、できるんじゃない?」
真上から覗き込んでその頬に触れると、彼は涙を拭いもせず微笑んで、目を閉じた。
触れた唇は、苦すぎないコーヒーの味がした。

 

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携帯端末が無遠慮に鳴りはじめた。
俺に電話をかけてくるのは、この宇宙でたった一人。壁の時計を見るまでもなく、待ち合わせの時間を過ぎていることはわかっていたが……
「あの野郎……」
「出てやんなよ、万丈からだろ?」
鼻声ながら愉快そうに促され、しぶしぶ電話に出る。
「……あのさ、バカには理解しようもないだろうけど、俺的に今すごい大事な局面なの、空気読みなさいよバカ……うるさいよ雨なら俺も当たったし! だいじょうぶだよバカは風邪ひかないんだから……バカにバカって言って何が悪いんだよこのプロテインバカ! ……はいはいわかりました、すぐ行きます行けばいいんでしょ! 迷子になるんじゃないよ!?」
いつものノリで怒鳴り合って電話を切り、思わず天井を仰ぐ。横ではすっかり通常運転に戻ったマスターが、帽子をかぶりなおしながら肩を揺らして笑っていた。
「あいかわらず、仲よさそうでなによりだ」
後ろ髪を引かれる思いで、生乾きのコートに袖を通して同じく湿ったスニーカーを履く。
「ごめんねマスター。あいつ、俺がいないとダメなんだよ。夜なんか一人じゃ怖くて眠れなーいって泣いてうるさくて……」
ふざけて言ってみせるが、きっと彼はお見通しなんだろう。俺も万丈なしでは成り立たないことを。俺たちはこのスニーカーのように、色違いでも一対だから。俺たちをそう「創った」一人が、石動惣一なのだから。
「また来てくれるんだろ?」
「もちろん。美味いコーヒー飲みに……」
ちがうちがう、と彼は手を振り、それから少し気まずそうに鼻の頭を掻いた。
「営業時間外に、この部屋へ、ってことだよ」
「あ……」
心臓が跳ね上がった。
ナシタではなく石動惣一の元へ、客としてではなく桐生戦兎として訪れる……その意味するところと先にある具体的な展開が一気に脳内を駆けめぐり、顔に血が上る。
万丈をどう丸め込むかまで考えたところで、ふと別の現実的な問題に気づいた。
「でも……美空になんて言ったら……」
旧世界で彼と結託して彼女を欺いていた自分に言えた義理でもないが、全てを知ってしまった今となっては、多少なりとも後ろめたさのようなものがなくはないわけで。かといって俺を知らない美空相手に「娘さん、お父さんをぼくにください」と冗談を言える度胸は正直言ってない。ひとつまちがえたら刻まれそうだし。
ところが父親のほうはそれほど気にしてはいないようだった。
「どうとでもなるさ、遊びにくる口実なんて。たとえば……」
言いながら、背後にある書架をちらりと見やる。
「在野の物理学者が、そのへんの図書館には置いてない専門書を読みにくる、とかな」
悔しいが、なるほどと手を打ちそうになった。
たしかにそれならあまり不自然ではないかもしれない、けれど……
「マスターって、わりと元から悪い大人だよね」
「人を愛する覚悟があれば、悪知恵もはたらくもんさ」
悪びれずに肩をすくめるのは、ただの気さくで陽気な中年ではない。一筋縄ではいかないのが彼本人だということを、俺は知りつつあった。宇宙最凶の悪魔じみた存在に選ばれ、しかも屈せず渡り合ってきただけのことはある。
「それに、嘘と言い逃れは『昔から』慣れてるんでね」
彼は悪魔と同じ顔で、ぺろりと舌を出してみせた。

 

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でも戦兎は実際来たらガチで読みふけってしまうと思います。

ということで新世界でも戦マス/マス戦できるように考えましたのでここまでをフリー素材としまして、あとはご同志の皆さまがこの流れでラブラブな二人を書いてくれたらいいなあと思っております。