神は細部に宿るか

先日、ふと身につまされたことがあったので自戒を込めてメモ。
二次も一次も媒体も関係なく、創作をする上でこれは念頭に置いておかなきゃ!と思った。
いや単に性格的なものだから、部外者から見たらくだらないことなんだけど。当てはまらない人は笑いながら読んでください。


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今月初のことなんですけど、いけてつの「GOWEST」を見てまいりました。
素直におもしろかったよ! 歌ありダンスありアクションありで2時間超でも飽きなかった。
いけてつ脚本演出っていうからもっとエキセントリックで生っぽい感じを予想していったんですが、すごく堅実というか外さない、人によっては退屈かもしれない安定感のハートフルコメディって感じでした。アドリブも少なくて、ものすごくきっちり作られてる感じがした。
テレビで見てると変な役ばっかりやってるけど(笑)たぶんホントはとても几帳面な人で、要求された役柄に対して忠実に応えるっていうタイプなんだろうなと思いました。
西部劇と銘打ってるわりに、南北戦争後のアメリカ史にちゃんと即したストーリー展開で、とくに「インディアン」っていう単語を意識的に回避してたのが印象的でした。自主規制とか外からNGがっていうんじゃなく脚本家の意志を感じた。まずそこでマジメだなって思ったんだけど。
全体的にはお笑いとシリアスのメリハリがしっかりしてるお芝居だったんだけど、ひとつ笑うとこなのかどうなのか迷う微妙なシーンがあってね。
きまじめキャラの神父が、一人でステージの真ん中で神父服を脱いで下着姿になってから別の服に着替えるハメになるっていう、たぶんすごくおもしろいシーン。でも実際に脱いだらちゃんと当時の下着(ステテコみたいなやつ)を履いてて、あれ、ここは笑うとこじゃなく普通に流すとこなのかな?ってちょっと笑いも微妙だったんだよね。
たまたま終演後にトークショーがありまして。そこでいけてつが突っ込まれて答えたところによると、せっかくイケメンの佐藤くん(元仮面ライダーガタックですね)がいるんだからサービスシーン入れようと思って着替えさせたらしい。でも「ブリーフ一枚だったらおもしろいなって思ったんだけど、あの時代にはないから、なんだか微妙なことになっちゃったよね」っていうことらしいです。
アルカリと見てて二人同時にうわあってなりました。
よくやるんですよね、コレ。
時代考証とか「正しい」ことにとらわれて失敗する/踏み出せないパターン。オリジナルではほぼ毎回やってるし、二次創作でもかなりやってる。
人のふり見てとは言いますが、そうかーこういう感じかーってわかりやすいかたちで目の前に突き付けられた気分でした。
本筋に関係ない時代考証と、客席からの大きな笑いや歓声、生の舞台芝居にとってどっちが重要かはもう考えるまでもないわけですよ。いいじゃんブリーフ。なんなら星条旗柄のトランクスとかだったら最高に笑えたよ。でも「この時代にはまだ星条旗ないから」って言っちゃうんだろうな、いけてつは。
「インディアンという単語を使わない」のと同じきまじめさで「あの時代の下着はこうだから」「この時代にこんなこと言わない」ってアドリブや遊びを退けてる感覚が、痛いほど共感できるから余計に「そこじゃないんだよ」って思ってしまいます。
時代考証は代表格ですね。
大河同人とかで「無視していいよね~」とか口先では言うけど、実は書く段階で内心めっちゃ気にしてる(笑)。もちろん、大河ジャンルの人は歴史に詳しい猛者が多いだろうからそういう人たちに突っ込まれたらツライっていうのもあるだろうけど、それ以上に自分自身への強迫観念みたいなものがあるんだよね。
実際ドラマそのものがそこまで徹底してないわけだから、ていうか数人しか見ないかもしれない妄想SSなんだから、それ以外の部分は無視してもいいんですよ。
でも絶対に妥協できない人種が存在します。いけてつ然り、ニッカリ然り。
考えすぎて自分でルートをどんどんつぶしていって、結局SS一本イラスト一枚さえ出来上がらないこともあります。できあがったものにも、端から見たら理解できない部分に熱意や言い訳が割かれてたりする。
本来の意味での「拘り」なんです。どうでもいいことに執着するっていう意味の。
仮に映像だったら、いけてつの拘りはまちがってなかったと思う。でも舞台だから。ジャンル的にもコメディだから。本筋から外れた部分では空気を抜くことだって許されてる領域だと、私は思うんだけどなあ。
そのまま自分にもブーメランが突き刺さるわけで、これBLだから!二次創作だから!って周りの人は叫んでるけど、本人は気づいてないんですよね。
神は細部に宿る、一見本筋に関係ない部分にまで力を入れた作品はすばらしいとか言うけどさ。それって結果論だと最近思うのです。
ていうか、たぶんそのへんの取捨選択がちゃんとできてる作品がおもしろいんじゃないか。全て完璧に正しいことではなくて、いろんなリアリティを破綻なくまとめる手腕がすごいのじゃないか。「ここは適当でいいよね」って手を抜くんじゃなくて、「よくわかんないからスルーしよう」でもなくて、わかった上で逸らすとか外すとかいうのがかっこいいんじゃないのか。
全体のバランスを考えずにとにかく全部正しく!リアリティを!って追い求めても、作り手の自己満足や無用な薀蓄が鼻につくだけで終わる危険性もあるわけで。
先住民の歴史的立ち位置が重要な意味を持つ物語の中で、西部劇にも関わらずインディアンという言葉を使わなかった「拘り」は適切なものだと思います。そういうポイントは外しちゃいけない。でも息詰まるシリアス展開のあいだで、予定調和のギャグだけじゃなくちょっとガス抜きくらいはしてもいいんじゃないの、とも思います。
アドリブとかの遊びがないのは、劇作家いけてつのポリシーのような気もするけどね。
そんでついでに思ったこと。
作り手が縛られてるうちはもちろんいいモノなんか作れないけど、受け手がこの呪縛に囚われてるせいで、作品の良しあしに関わらず損するときもありますよね。
いや、どうしても譲れないポイントがあって、そこを尊重しない作品はそもそも正当な評価に値しないっていう人もいるだろうし、それはそれで価値基準の一つだとは思うけど、でも今それ言うの?っていう野暮な揚げ足取りにもなりかねない。
元からまともに評価する気もなくただ意地悪なことを言いたいだけならともかく、自分の知識で自分にフィルターかけちゃってる状態はすごく残念だと思います。
っていうか私がそういうとこを何度も何度も通ってきてるから、もう頭痛い(笑)。
SSを書きはじめたころ、とにかく正しい日本語を使わなきゃって思ってた時期がありまして。ドラマとか見てても言葉づかいがまず気になっちゃって、「これはよくないな」とか勝手に思ってた。でもそれ以外の部分は正しいかどうかなんて気にもしてなかったんだから、頭隠して尻隠さずみたいな感じだったんですけど。
あるとき、すごく好きな作品のいちばん感動的なシーンで、真っ先に「今の日本語はおかしい」って思っちゃって。実際、一般的な用法としてはぜんぜんおかしくないんですよ。大正生まれの師範あたりが嘆くレベルの、まあどうでもいい部分です。
すごくどうでもいい拘りのせいで感動のタイミングを逃したってバカみたいですよね。そのあたりから「正しさ」ってものは実は「正しくない場合もある」んじゃないかって思いはじめた気がします。
とりあえず今は、あら探しはしないように気をつけよう、と思ってる。正誤じゃなく、好き嫌いで判断したい。
まあ性格もあるからついやっちゃうんですけどね(笑)。単なる受け手に甘んじるのが嫌だから制作側に対して優越感を持っていたいっていうつまんない見栄があるのかもしれない。ホントに譲れないポイントっていうのはまた別の感覚だから、そこの見極めをまちがえないようにしないと、とは思ってるんですけどね。難しいですよね。
もちろん作り手としてもまだまだです。今も、秋の新刊に向けてすごくどうでもいいBL関係ないとこで何度もつまずいてはキレてます。オリジナルはホントに必要なのか蛇足なのか判断基準がないから余計に迷う。
これから、自分たちの創作活動の中で本筋に関係ないポイントで足を取られて動けなくなったときには「いけてつ」と囁いてくれたまえ、とホームズのようなことを言い合って、ニッカリズムはひとつ大人になっ……てたらいいなあ(笑)。

日記

Posted by nickel