速水/草壁
相棒10:速水智也/草壁彰浩
道化の素顔
警視庁の入り口にはまだ正月飾りがかまえている。
特命係が、というよりは杉下右京が念入りにセッティングしたのはつい数日前だったが、年末の大事件を乗りきった人間には一月以上前のことのように感じられた。
年が明けても窓際は窓際。
コップに入れてデスクに置いてある南天を眺めながら、暇を持てあました神戸尊の思考はどうしても先日の事件に向かう。
「速水智也は未だに、遊ぶ金ほしさにやったと主張しているそうですね」
唐突な呟きにも、隣で優雅に朝のティータイムを楽しんでいる上司は驚かない。
「ぼくの推理は、あくまで推理です。最終的には個人の気持ちの問題ですからねえ。速水智也が本気でそう思っているのなら、我々はそう受け止めるしかない」
右京の答えが、自分の言葉に納得しかねるといった口調だったこともあって、神戸はしばらくこの話をつづけることにする。
「でも、押収されたPCからはたしかに、公園の競売に関する書類が出てきたそうじゃないですか」
米沢から聞いた話はどれも、右京の推理を裏づけるものばかりだった。入札のために架空の法人まで用意されていた。その真意まではわからないけれど、神戸は右京が正しいと思っている。速水智也は罪を犯してでも、あの公園を手に入れたかったにちがいない。……しかし。
「本気で、あの公園が買えると思ってたのかな……」
「はい?」
ここ数日、ずっと抱えていた疑問だった。
「あれだけセンセーショナルに強奪した金ですよ? 慈善団体を騙るにしても、すぐに足がつくでしょう。マネーロンダリングだってそんなにすぐにはできない。彼くらい頭がよければ、気づきそうなものなのに……」
冷徹な軍人であり思想家でもある草壁を陥れるだけの頭脳を持ち、裏の裏をかいて警察をも利用し欺いた。仲間にさえ、真意は明かさなかった。そんな彼の目的としては、ずいぶん誇大妄想的に思えなくもない。
そして、神戸の心に引っかかるもうひとつの謎。
「気になってることがあるんです」
「なんでしょう」
右京は立ち上がり、紅茶をカップに注いだ。神戸もペットボトルのキャップを開ける。
「速水が草壁を殺したときのことなんですが」
「毒殺でしたね。速水がコーヒーに毒を混ぜたと」
神戸はその一部始終を見ていた。裏切りにあった草壁の驚愕と、憤る間もなく死んでいったあっけなさを。そして、速水がその本性を現すのを。頭は犯人グループの仲間割れを利用して脱出できないかと必死に考えていたが、目だけはすべてを観察していた。
「速水は草壁が死んだあと、彼の目を閉じてやったんです」
「ほう……」
ティーポットを戻そうとした手が止まる。右京にとっては興味深い新事実だったのだろう。
「自分が殺した人間の目を閉じるなんて、わざわざするでしょうか。とくに彼らは人殺しを手段としてやってのける連中です。草壁に従順なように見えたのも演技でしょうし……そのまま、じゃまにならないところに転がしておくのが普通でしょう」
実際にそうされたら、死体の苦手な自分が子供たちの前で醜態を晒さないでいられた自信はないが、冷静に考えてそちらの可能性のほうが高かった。本物の死体を見せることで、人質への脅迫にもなったはずだ。
「草壁の遺体は、速水自身が抱き上げて運んでいきました。たしかに速水はあのなかでいちばん大柄で力も強い。でも彼が司令塔なんだから、他の二人にやらせることだってできたはずです」
自分ならそうする、と神戸は心の中でつけ加えた。神戸ほどでなくても、軽い傷害程度しか前科を持たない男が、率先して死体に触れたがるとも思えない。
「ああそれと、ライターも……」
「はい?」
右京の相づちはすでにほとんど気にならなくなっていた。神戸は自分の思考だけをなぞっていた。
「逮捕されたとき、速水はタバコを吸おうとしましたよね」
「ええ、覚えています」
「あのとき速水が持っていたのは、草壁のジッポでした。少なくともぼくが見たときには、草壁がいじっていました。他のメンバーは全員普通の百円ライターだったと思います」
そのうちのひとつは、神戸がこっそり手に入れた。仮にあれが速水のライターだとして、速水はなくなったライターの代わりに草壁からあれを奪ったと考えられなくもないけれど。
「もともと速水智也のものだったという可能性もあります。でも草壁は、他人の持ち物を手慰みにいじるようなタイプじゃなかった。同様に、速水も死体からライターを掠めとるような男じゃない……」
神戸は言葉を切る。実際言葉にしてみて、的外れかもしれないと思ったためだった。だが右京にはその思考過程ごと見抜かれたらしい。
「形見だったかもしれないと思っているのですか?」
「今は、それがいちばん納得できるかなと……」
自分が殺した人間から形見分けなど、一般に理解できる範疇ではない。しかし速水の行動を終始見つめ、その目的を知った今となっては、ありえない話ではない気がするのだ。
「速水は自分が殺した男を、死者として扱っていた……悼んですらいたということですね」
右京は立ったまま宙を見つめている。神戸が思っていたより、右京の琴線に触れる話だったらしい。
ミネラルウォーターを喉に流し込むあいだ、神戸は言葉と思考を整理する。
「……結局、速水は草壁しか殺していない。しかも元々死ぬ気だった人間をです。いえ、もちろん殺人は許されることじゃありません。でも彼は最初から、草壁以外のだれも殺すつもりはなかったような気がします」
人質の命を脅かす発言をして、威嚇とはいえ神戸に発砲して、爆弾まで仕掛けて……だが、実際には彼は草壁以外のだれも死なずに済むようすべてを仕組んでいた。
爆弾を仕掛けようと提案したのは彼ではない。芹沢を撃ったのも彼ではない。クリスマスに警官を殺したのも……すべては彼が知りえないところで起きた、あるいはもしかしたら彼が止められなかった「不慮の事態」だったのかもしれない。
速水智也はたしかに犯罪者だ。だが、被害者の一人であるはずの神戸は今、彼を安直に憎むことができなかった。
「ニセモノの青空と白い雲……」
右京が独り言のように呟く。
速水が撮った写真に添えられていた言葉。
すべてが明らかになった今は、歯がゆさと悔しさと、揺らがない使命感を隠しているようにも思える。
「方法こそちがいましたが、彼はどこかで、草壁に共感していたのかもしれませんね」
「共感ですか……」
しかし、速水がそれを認めることは決してないのだろう。
草壁に対する従順な顔、知的で冷酷な殺人者の顔、死者を悼む神妙な顔。愉快犯の狂気に満ちた顔、そして右京にすべてを暴かれたときの、子供のように泣き出しそうな顔。今また、思想も理想も持たない小悪党を演じている。
わからなくもない。一度マスクを被ると、素顔では人前に出られなくなる。それが道化という人種であることを、神戸はよく知っていた。速水には神戸とちがって、マスクを引き剥がしてくれる相手がいなかったのだ。
終始神戸を睨みつけていた、あの鋭い目を思い出す。
仲間も人質も計画を動かすための駒としてしか見ていなかった彼にとって、神戸という予定外の要素は、ひどく忌々しい存在だったにちがいない。草壁がいなくなってからは、速水の感情は神戸だけに向けられていた。義悪的なマスクは被っていたけれど、それでもそのまっすぐな戸惑いの表情こそが速水智也の素顔なのだと、神戸は確信していた。
「難儀だね、お互い」
右京にも聞き取れない声で呟き、南天のコップを指先で弾く。
ほんとうは草壁のことをどう思っていたのだろう。
直接尋ねたかったが、捜査にはとくに関係がありそうにも思えない。一課に怒られるだけだな、と肩をすくめた。
夏の名残というには強すぎる、夕暮れどきの日差しの中。
小さな扇風機がよこしてくるぬるい風を受けながら、速水はそびえ立つビル群を見上げていた。
計画は順調だ。あの男は今でも速水が自分の信奉者だと思い込んでいる。この計画さえ、速水が彼をそそのかして始めたということにも気づかずに。
あとは手足として使えそうな人間を探すだけだが、それも苦労せず済みそうだった。金で動く連中は話が早い。速水の計画を実行できる理解力さえあれば、それ以上の頭はいらない。気をつける必要があるのはタイミングだけだ。タイミングさえまちがえなければ、確実に成功する。
「ふぅ……」
軽く息をつき、汗ばんだ手を拭く。
屋台が日よけになるとはいえ、炎天下の屋外で一日立ち仕事というのは楽ではない。それでも疑問すら持たず、何年もここで汗だくになりながら立っていた。ふとふり返ってみると、なんだかふしぎな気分になる。
それも今年が最後だ。来年の夏、ここに立っているのは自分以外のだれかのはず。そう、だれかが速水の代わりにこの場所に立っていられることこそが、速水の目的だといってよかった。
そのためには……
不意に、客が現れた。
「ブレンド」
初秋とはいえ太陽が照りつけているのに、店ではなく屋台でホットコーヒーを頼む男。
速水はわずかに目を見開いたが、すぐに営業用の笑顔を作る。
「暑いですね」
コーヒーを淹れるため客に背を向けながら、それでも話しかけた。客のほうも世間話に抵抗はないらしい。
「暑いな。でもアイスコーヒーは飲みたくないんだ」
「アイスラテとか、アイスティーもありますよ」
言いながらも、彼がそんなものを飲まないであろうことはよくわかっている。彼はいつでもホットコーヒーを頼むのだ。速水の部屋でも。
カップを取る手が、わずかに震える。なぜ草壁がここにいるのか。
「同志」となってから、草壁は速水の部屋には来なくなった。当局の監視から逃れるために仕事も辞め、今は速水も知らないところに潜伏している。連絡はメールのみ。込み入った話があるときだけ、互いの住処ではない場所で落ち合うことになっていた。
草壁の計画はまだ準備段階で、緊急に動かなければならない用件はなにもない。なにか不都合が生じたのか。まさかこちらの真意に気づかれてしまったのか。
緊張のあまり汗ばむ手を、こっそりエプロンで拭う。
カップを渡しながら、速水は接客用の笑顔を崩さず小声で尋ねた。
「なにかトラブルですか」
「いいや」
草壁はカップを受け取り、速水の目をまっすぐ見つめる。
「顔が見たかっただけだ」
日に焼けた顔がくしゃりと笑った。
「……!」
言葉を返せないでいるうちに彼はさっさと背を向け、熱いコーヒーを片手に立ち去っていく。
潜伏中の彼が、人の集まる公園で他人と接触することは、少なからず危険を伴うはずだった。それなのに……
さっきとは違う理由で汗がにじむ掌をエプロンで何度も拭って、数回深呼吸をする。
疑うことを知らない愚かな男と笑い飛ばし、蔑んでしまえばいい。この時代に、ゆきずりの若者から無条件の愛を受けられると本気で信じている、時代遅れの旧世代だと。
だが現実に舞い上がっているのは速水のほうで、騒ぐ鼓動を抑えられないでいる。許されるなら、彼の背中を追いかけて引き留めたいと思ってしまう。
「ずるいな……」
隙のない計画が揺らぎかけるのはこんなときだ。自分にも他人にも社会にさえ厳粛な男が、この自分にだけ見せる優しい顔。それこそが、唯一最大の障害だった。
だがどんなに考えても、他の手は見つからない。
速水が成功しようが失敗しようが、どちらにしてもあの男は死ぬ。「せめて」などという期待はわずかも存在しない。完璧な計画のために、速水は彼を含んだすべてを手放す覚悟をしたのだから。あらゆる心を仮面の下に隠して。
どれほど強く望んでも、その願いだけは叶わない。
「いっしょには生きられないんだ……あんたとは」
残暑の熱気でゆらめく彼の背中を遠くに見ながら、道化は小さく呟いた。
今年最後の、真夏日だった。
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