速水/草壁

▽相棒,2012_相棒10,[R18]

相棒10:速水智也/草壁彰浩


恋情

「店じまいか」
夕闇の中で看板を片づけていると、背後から声をかけられた。
客の顔を覚えるのは苦手ではなかったから、それが先週桜の話をした客だとすぐに気づく。
「……すいません」
曖昧な笑みを浮かべて頭を下げる速水に、男は気さくな調子で手を振った。
「俺が遅かっただけだ」
閉店直後に声をかけられるのも、屋台では珍しくない。謝りながらも速水は片づけの手を止めなかった。そうしていれば、相手はすぐに立ち去ってくれる。
だが、男は別の言葉をかけてきた。
「このあと、予定は?」
「え?」
驚きの視線を正面から受けた彼は、照れくさそうに目を伏せて首をさする。
「よかったらメシでもどうかと思ったんだ。いつも一人で食ってると、たまにはだれかとしゃべりながら食いたくなる」
速水は口を開けたまま相手を眺めた。
冴えない独身中年、というには端正な見てくれだが、外見だけでどうにかなるほど世の中そんなに甘くないのだろう。見たところ、稼ぎの少ない肉体労働者といった風情だ。「こっち側」の人間なんだなと勝手に親近感を覚え、つい頬をゆるめていた。
「俺も、毎日一人ですよ」
親しい友人などいない。頼れるという意味では親類縁者もほぼ皆無に等しい。必要も感じないからそのまま生きてきたけれど、他人と親しく語り合いたい日がないわけではない。
恋人は煩わしいが、性欲以上のなにかを満たしたいと思うこともある。
この男の気持ちはなんとなく理解できた。

彼はうれしそうに桜の話をした。
海外生活が長かったせいかと思いながら聞いていたが、もっと古くさい思想に基づいているらしかった。共感や反発を覚えるほど知識がなかったおかげで、適当な相づちを打つのも苦にはならなかった。
「桜なら、俺の部屋からも見えますよ。一本だけですけど。満開になるとけっこうすごいです」
ふとそんなことを口にしたのも、話の流れからで深い意味はない。だから彼が羨ましそうに目を細めたのには素直に驚いた。
「うち……来ますか?」
そう言ったときには、すでに下心があったかもしれない。
「いいのか」
彼のほうも、そこまでして桜が見たかったわけではないだろう。今の季節、どこへいっても見られる。ただ、だれかと話したくて。だれかと過ごしたくて。共通点などない二人の男は、桜という単語だけで離れがたくつながっていた。

コンビニで日本酒とビールを買って、古いアパートの一室に帰る。大家以外の人間がここへ足を踏み入れたことはない。自分だけの殻ともいえるこの空間に、なぜ初対面に等しい人間を連れ込む気になったのかもわからない。
ただ、初めての客に、速水は自分で思っているよりずっと昂揚していた。
「夜桜か」
男は部屋を見わたすより先に、窓の外の桜を目にとめて微笑む。窓を覆うように伸びた枝は、その向こうの街灯を透かして薄紅色のカーテンを作りだしていた。今は七分咲きといったところか。
「思ったより、咲いてませんでしたね」
苦笑しながら速水は窓際に座る。そうすれば、自然に彼が向き合ってくれるから。
見れば見るほど、端整な顔立ちだと思う。若いころはさぞ……いや、今でも振り向く女性は少なくないだろう。ジャケットを脱いだ身体も、彼がわずかに語った前歴に違わない肉付きで、シャツを引きはがしてみたい衝動に駆られる。
彼はこちらを向いていたが、速水にはほとんど注意を払っていなかった。せっかくの夜桜なのだからと、部屋の明かりを消していたのも速水にとっては都合がよかった。憚ることなく存分に、彼を鑑賞していられた。
最後に残ったビールを一気に飲み干そうとして缶をあおった彼は、明かりがなかったせいか、それとも酔いに口元がゆるくなっていたのか、飲み込みきれずにビールをこぼした。
「っと、すまない……」
わずかだが絨毯にこぼしたことを謝られた、それ自体に興味はなかった。速水は思わず身を乗り出し、手を伸ばして指先で彼の濡れたあごを拭っていた。
男の目が見開かれる。
そのまま、ゆっくりと薄い唇をなぞる。その柔らかさと指先に当たる息の熱さが、速水の身体を疼かせた。
「きみは、もしかして……」
呆然と、しかし視線を外すことなく、男は呟く。
答える代わりに、速水は微笑んでみせた。この男に嫌われたところで後腐れはなにもない。常連になったかもしれない客が一人減るだけだ。そう考えていたから、なんの気負いもなく笑うことができた。
今夜ほしかったのは、一人きりではない食事。営業用ではない会話。そして、だれかに触れて得られる、その熱。
ひげがまばらに生えた顔の輪郭をなぞりながら、彼のレスポンスを待つ。殴られるかもしれないが、この感触はその代償に値する。
男の腕が上がり、速水は反射的に身がまえた。だが、彼の手は優しく速水の肩に置かれただけだった。
「……いいよ。おいで」
「え……」
自分の頬に当てられた速水の手を包み込むようにして手を置き、男は真顔で答える。
「慣れてるわけじゃないが、経験がないこともない。きみなら、いいよ」
「なんで……」
「きみがそれを訊くのか」
男は目を細め、優しく笑った。戸惑いも理性も打算も、すべてを吹き飛ばす笑みだった。
文字どおり前のめりで、速水は彼を床に押し倒す。
闇に慣れた目は、こちらを見上げる彼の表情を捉えていた。酔いの色はほとんどない。揶揄も軽蔑も感じられない。真剣に、速水を受け止めようとしている。ただの酔っぱらいのヘンタイ相手に、まるで恋人のような真摯さで……
自分の中にわき上がった感情、というよりは感覚が、理解できなかった。憤りに近い激情。いや、怒ってなどいない。この男が欲しいのに、なにかが懸命にブレーキをかけようとしている。
名前がつけられない心の揺れを持てあまし、とっさに身を起こそうとした青年を、男は遠慮がちに両腕で抱き寄せた。
「……!」
鼻先が触れそうなほど、顔が近づく。
しかし、先ほど指で触れた唇をあらためて犯そうという気にはなぜかなれなかった。欲しいのに奪うことができない。こんな感情は知らない。
口づけをためらったあげく、筋張った細い首筋に噛みつく。うめき声の代わりに、深い吐息が洩れた。シャツをまくり上げて固い筋肉をまさぐったときも同じ。
自分の呼吸だけが荒くなっていくことに焦りを覚えながら、速水は彼を抱きしめる。熱くなった身体の変化が、彼にも伝わったにちがいない。
「……俺を、抱くのか?」
かすれた声で囁かれた問いに、ようやく取り戻した笑みを向けて首を振る。
「そうしたいけど、ゴムないんで……」
言いながらベルトを外す速水を見て、相手も苦笑しながら自分の前を開けた。
速水とはちがって落ちつき払っている彼の中心に、煽るつもりで自分自身を押しつける。
「ん……っ!」
突き抜ける快感に息が止まりかけた。一人きりで事務的に慰める行為とは比べものにならない。
自分の性癖が少数派に属することを理解していた速水は、めったに他人を求めなかった。だからこそ、自覚していなかった欲望は貪欲に渇きを癒そうとする。
「っ、……っ」
なにも考えず、ただ猛る性器を相手にぶつける。相手がそれほど本気になっていないことに苛立ち、焦り、脚を絡めてさらに密着させた。その呼吸も動きも本番と同じ勢いで、自身と相手を責め立てる。
「は……っ」
一気に絶頂まで駆け上った速水の下で、再び深い吐息が聞こえた。
見下ろすと、青年の白濁にまみれながらも未だ開放されていない熱が、訴えるように脈打っている。
先ほどのブレーキが、速水を押しとどめようとする。これ以上、この男を汚してはならないと。だが速水はその制止を必死に振り切った。引き返すには遅すぎる。
肩で息をしながら、速水はもう一度、彼に押しつけた腰を揺らしはじめた。今度は相手の顔を見つめたまま。
暗がりの中で快楽に耐える表情を、睫毛の先まで観察していると、ふと彼が目を上げた。声もなく喘ぎつつ、彼は微笑んでみせようとする。その顔が終わりに追いやられて歪んだ瞬間、速水は耐えきれずに彼の唇を吸っていた。
どちらが先に口を開けたのか、舌を差し出したのかはわからない。おそらく同時だったのだろう。速水は触れ合った舌先の感触に身震いし、舌の根まで絡め取ろうと躍起になった。
「ん、はっ…んく……っ」
息継ぎというにはあまりに乱れた呼吸と、唾液にまみれた唇や舌が立てる水音が、暗い部屋に満ちていく。
男の手が、二人の汚れた下腹部へ伸ばされたかと思うと、速水の性器をゆっくりさすりはじめる。速水も相手のものに触れ、衝動のままにしごき上げた。熱が腰に集まっていき、息苦しくて眩暈がする。それでも、絡み合う舌を離す気にはなれない。
「んぅ……んっ!」
夜桜が覗き込む部屋で、二人の男は単純な愛撫と接吻のくり返しに没頭した。

タバコをくわえてライターを探す。あいにくポケットの中には見つからない。
机の上かと立ち上がろうとすると、暗闇にオレンジの光が灯った。
速水は浮かしかけた腰を床に下ろし、男がつけてくれたジッポの火に顔を寄せる。
煙が吐き出される音は、最中の吐息とはまったくちがう響きで部屋に広がっていった。
「なんで……」
始める前と同じ問いを口にすると、小さな笑いが返ってきた。
「だれだって人肌恋しいときはある。いっしょにメシを食うようなもんだ」
そうだろうか、と反論したがる頭と、そうかもしれない、と納得したがる気持ちの両方で、速水は黙って首をかしげた。答えがわからないときは沈黙が正解だ。
「なあ、速水」
「はい……」
返事をしかけて、違和感に気づく。名乗るタイミングはなかったはず。実際、速水はまだこの男の名を知らない。気になってはいたが、お互いに尋ねるタイミングを逸していた。
怪訝な視線を受けた彼は、「ああ」と肩をすくめてタバコで玄関のほうを指す。
「入るとき表札を見た」
単純な種明かしでほっと息をつく青年に、男も名乗っていないことを思い出したらしい。
「草壁だ。……グラス、ウォール」
別の漢字を想像しかけていた速水は、わかりやすい自己紹介にくすりと笑う。海外でもそんな風に名乗るのだろうか。
「草壁さん」
覚えたばかりの名を唇に載せてみる。名前も知らない男と食事をし、酒を酌み交わし、部屋に連れ込んで身体を重ねた。その事実がおかしくて、そして妙にくすぐったくて、自然と顔がにやけてしまう。
「満開になるのは、来週かな……」
窓の外を眺め、草壁という男は独り言のように呟く。しかしそれが速水への語りかけであることは、先ほど名前を呼ばれたときからわかっていた。
「見ごろになったら、お知らせしますよ」
あっさり「次」を口にした自分にも、それを自然に引き出した彼にも驚く。だが鬱陶しさなどはとくに感じない。
恋人は煩わしいが、性欲以上のなにかを満たしたいと思うこともある。この男もきっとそうなのだろうと思い、速水は抱えたひざに頬を押しつける。行為の最中に襲ってきた、あの嵐のような感情は謎のままだが。たぶん、そう大したことではない。
薄紅色のカーテンが風に揺れ、すぐ隣から満足げに息を吐き出すのが聞こえた。

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