蒼太/鳥羽

2006_ボウケンジャー,[R18]

轟轟戦隊ボウケンジャー:最上蒼太/鳥羽祐二


ブルーローズ・ラヴァー

 指輪をいじりながら、ぼんやりパソコンの画面を眺めていた。
 画面には、すでに書き上がった報告書。提出も済んでいるから、もうすることはない。それでも、なんとなく腰を上げる気にはなれなかった。
 今回の事件に深く関わった男……鳥羽祐二について記述することは、多少の鈍い痛みを伴った。だれも気にしていないとはわかっていても、自らの過去をさらけ出すのにはまだ抵抗があったし、鳥羽祐二はその核心にいる存在だったからだ。
 今ごろ、彼は……。
 サロンに人が入ってくる。顔を上げるまでもなく、足音からだれかはわかっていた。その男、チーフは迷わずこちらへ歩み寄りながら、意外そうに声をかけてきた。
「帰らないのか」
「……………」
 思いつかない返事の代わりに、黙って相手を見上げて微笑む。
「今日は疲れただろう。早く帰って休め」
「……はい」
 ノートパソコンを閉じて、ゆっくりと立ち上がる。
 彼の横を通りすぎようとしたとき、腕をつかまれてふり向いた。
「なんですか?」
「いや……」
 彼は一瞬目をそらしたが、つかんだ腕を引き寄せて抱きついてきた。少し驚いて、息を止める。
「チーフ?」
 かすれ気味の声で呼びかけると、彼の腕に力が込められた。
「……おまえの過去はおまえのものだ。干渉するつもりはない。それに、俺はおまえを信じている。今のおまえは、俺の仲間だ」
 自身に言い聞かせるような脈絡のない言葉に、そしてどこか戸惑った様子の声音に、知らず胸が躍った。
「もしかして、妬いてくれるんですか? うれしいなあ」
 息を止めたのは、今度は彼のほうだった。
 自分でもそんなことは思っていなかったのだろう。こちらも、それをわかっていながら揶揄するような発言をしたのだから。
 だが、わずかでも彼が動揺するとは予想していなかった。
「……チーフ?」
 すぐ横にある顔を見やった。無表情で、なにを思っているのかわからない。
「早く、帰れ」
 ゆっくり、二人の身体が離れた。

 自宅のドアを開ける。
 その瞬間、違和感に気づいて反射的に閉めていた。
 侵入者がいる。
「……………」
 この部屋へ入るためには、三つのゲートをくぐり抜けなければならない。マンション外の門、マンション一階の入り口、そしてこの玄関ドア。どれもがオートロックのキー認証で、かんたんには入れないはずだった。とくにこのドアは、自分でつけた第二のロックがかかっている。並みの泥棒レベルではまず侵入不可能だ。
 携帯電話を出して、室内に仕掛けた監視カメラを確認しようとした、そのとき。
「!」
 目の前のドアが無防備に開けられた。
「よっ」
「とっ、鳥羽さん!」
 身がまえたまま、呆然と相手を見つめる。
 今日……日付が変わっているから昨日だが……別れたばかりの男が顔を覗かせていた。
「遅かったな。まあ立ち話もなんだから、入れよ」
 自分の部屋のように手招きをする彼の態度に、思わず苦笑してしまう。
「……ぼくの部屋なんですけど」
 肩をすくめて、携帯電話をポケットに突っ込んだ。
 この部屋には数日帰っていなかったが、それなりに散らかっていたと記憶している。というより、散らかっているのがデフォルトなのだ。
 だが入ってみれば、脱ぎ散らかされた服もなく、汚れた皿やインスタント食品の残骸もない。見ちがえるほどきれいに片づけられた部屋のテーブルに、ただ淹れたてのコーヒーだけが置かれていた。
「おまえ、あいかわらずの生活してるなあ。ある意味安心したよ」
 すっかりこの部屋の主と化した彼は、ソファに身を投げ出してコーヒーに手を伸ばす。
「鳥羽さん、なんでここに……」
 あたりまえの質問をすれば、彼もあたりまえのような顔でこちらを見た。
「身を隠すって言ったろ?」
「まさか……」
 彼が「身を隠す」場所に選んだのは……。
 悠然とコーヒーをすすりながら、彼はにっこりと微笑んだ。
「住人はほとんど帰ってないみたいだし、だれにも迷惑はかからないよな?」
 あまりに堂々とした態度こそが「あいかわらず」で、また苦笑が洩れる。
「もう、いきなりなんだから……」
 あのころにもどったようなくつろいだ気分で上着を脱ぎ捨て、それからふと今の自分について考えをめぐらせた。そうだ、あのころとは決定的にちがう。もうフリーランスではない。
 ふっと息を吐き出して、彼の手からカップをさらった。
「でも、今夜は寝かせてください。上司命令なんです。ゆっくり休めって……勤め人もたいへんなんですよ?」
 一口飲んで、異常な甘さに眉をひそめる。忘れていた。彼が、角砂糖を茶菓子にするほどの甘党だったことを。
 カップを置いて、あらためて自分のコーヒーを淹れようとキッチンへ向かいかけると、彼がため息混じりに呟いた。
「残念だな。せっかく今夜の予定キャンセルしてきたってのに」
「また……女の子泣かせて……」
 こちらの言葉は聞こえなかったように、彼は携帯電話を取り出す。
「まあいいや、別の子に声かけ……」
 大股に歩み寄って、携帯電話を取り上げた。
「……ぼくまで泣かせる気ですか?」
 眉を上げて、おかしそうに口を曲げる。
「おや、いつからジェラシーなんてコマンドが増えたんだ?」
「さあね」
 彼の電話を放り投げ、腕を伸ばす。その抱擁は自然に受け入れられ、二人は毎日顔を合わせている恋人同士のように抱き合った。
 心のどこかに引っかかっているわだかまりも、この関係へのためらいも見せずに。

 ?

 サロンのテーブルに、花瓶が置かれている。
 単なる花が全員の視線を集めているのは、その色のせいだった。
「青い……バラ?」
「きれーい! 初めて見たよ!」
「ニセモノに決まってる。青いバラを作るのは、まだ成功してないはずだ」
 映士と菜月と真墨が、花瓶を囲んで騒いでいる。
「花びらに直接色素を入れ込んでいるそうだ。本物とは言いがたいが、それなりに技術の結晶だぞ?」
 これを持ち込んだチーフが、誇らしげに解説をはじめている。
 曰く、ミュージアムの研究室でディスプレイ用に作ったものらしい。イメージどおりの色にならなかった試作品を、たまたま別の用事でその場に居合わせた彼がいくらかもらってきたのだという。
「ブルーローズといえば、ありえないものの代名詞ですね」
 そう呟いたのはさくらだ。聞こえたのは、すぐ隣にいた自分だけだった。
 青い花を見てはしゃぐメンバーを尻目に、彼女は装備のメンテナンスをしていて、自分はパソコンで資料検索をしていた。美しい花に対する最初のコメントがそれか、と彼女らしさを感じながら、その顔を覗きこむ。
「ありえないもの……チーフのジェラシー、とか?」
 さくらはにこりともせずこちらを一瞥して、また手元に目を落とした。
「蒼太くん、自分で笑えない冗談はどうかと思いますよ」
「……おっしゃるとおりです」
 心どころか日ごろの素行までを見透かされたようで、少しだけ気まずくなって肩をすくめ、画面に視線をもどす。
 先日の彼は、たぶん過去の相棒に嫉妬したわけではない。彼はだれかを羨んだりはしないし、だれかを不当に独占したりもしない。いつもそばにいる部下が離れていたから、ちょっとした不安を覚えただけなのだろう。それ以外は、大人の対応だった。昔なじみと出会って揺れ動いた気持ちまで酌み取って、あえて誘うようなこともしなかった。
 青いバラについて蘊蓄を語っている彼をちらりと見やる。こちらの気持ちなど知りもしない楽しそうな横顔を、しかし憎むことはできなかった。
 自分は、彼の熱い視線を受けている花にさえ、妬いてしまいそうだというのに……。

「おかえり」
「……ただいま」
 もういないかと思っていたが、「元」相棒はいた。部屋はあいかわらずきれいだ。
「鳥羽さん、プレゼント」
 淡い空色の薄紙で包まれた一輪の花を見て、彼は目を丸くする。
「青いバラ……本物か?」
「さあね」
 それを彼に押しつけながら、ついでに唇を重ねた。軽く触れてすぐに離れる。
「鳥羽さん、いい匂いしますね」
 自分のでも、彼のでもない。おそらくは女性用の香水だろう。この様子では、身を隠しているとは言っても退屈はしていないようだ。それでも、貴重な遊び時間であろう今の時刻に、なにもせず家にいるというのは驚きだった。
「今夜は約束ないんですか?」
「これから探そうと思ってたとこだよ」
 余白を持たせた言い方と表情。おまえしだいだ、と言外に匂わせながら、どういう展開になってもお互い不快にならないよう予防線を張っている。もちろん、こちらがそれに合わせてくるという確信の下で。
「ぼく、晩ごはんまだなんです」
「俺もだ」
「久しぶりに鳥羽さんの手料理、食べたいなあ」
「……ヒナが口開けてるんじゃあ、出かけるわけにはいかないか」
 バラの花を手にしたままキッチンへ向かう彼の背中を追う。手料理が食べたいというのは本気だった。
 野菜炒めすらあやしい自分とちがって、彼はそこそこ以上の味を生み出すことができる。彼の能力や性格のほとんどをコピーしてきた自分だが、料理と家事に関してはどうしても興味が持てなかった。その結果が、あらゆる生活用品の散乱するリビングであり、使われていないキッチンなのだ。
 まともな食事をして、シャワーだけではない入浴をして、出てくればリビングもベッドルームもホテルのように片づけられている。こんな人間的な生活は、ここに越してきてから初めてかもしれない、と思った。
 それでも、互いに礼を言ったり言われたりすることはない。彼の家事は趣味と同じで、好きでやっているだけだと知っているから。
 礼を言う代わりに、ソファでテレビを見ている彼の横へ寄り添うように座る。相手も自然に肩を抱いてくるから、そのままもたれかかった。ずっと前から、この部屋に二人で暮らしていたかのように。
 半身、とでもいえばいいのだろうか。だが、相手がいなければ生きていけないわけではない。どちらかといえば、空気。いや、羊水か。彼とともにある心地よさは、どうにも的確な表現が見つからなかった。
 いなければ生きていけない……今の自分にとって、それほど大きな存在といえば……。
 こぼれかけた吐息を飲み込んで、彼の肩に濡れた髪を寄せる。
「鳥羽さん……長居するなら、家賃徴収しますよ」
「もちろん。言い値で払うさ」
 後輩の傲慢な要求にも動じることなく、むしろ愉快そうにテレビ画面を眺めている。だから、こちらも昔のようにいくらでもわがままが言えた。
「じゃあ、カラダで」
 笑顔で見上げると、すぐに同じくらいの笑顔が返ってくる。
「もちろん。……ここで? ベッドに行く?」
「うーん、ベッドかな……」
 あいまいな返事をしたわりに、テレビを消してすぐ彼をベッドルームへ追い立てた。それがほんとうに純粋な欲求なのかは疑わしかったが、自分も彼もごまかしつつ、ベッドに押し倒して唇を重ねる。
 今度は、すぐに唇を離すようなことはしなかった。互いにこじ開けた唇のあいだで舌を絡め、濡れた音を立てながら何度も口づけ合う。なぜか止まらなくなって、彼が宥めるようにそっと押しやってくれるまで、ひたすらに貪ろうとしていた。
 荒く息をつくこちらの顔を覗きこんで、彼は微笑む。
「なに、どうしたの? フラレた?」
「似たようなもんですよ」
 笑いを交えながらも、服を引き剥がす手は休めない。こちらは風呂上がりで腰のタオル一枚だけだったから、相手も同じような状態にしてやりたかった。人の肌に直接触れたかった。
「……っ、蒼太……?」
 抵抗というほどではないが、戸惑ったように押し返されるのを、強引に押さえつける。
「……らしくないな」
 しかしその呟きに、一瞬手が止まった。詰られたわけではない。純粋な感想だったのだろうが、我に返るには充分すぎた。
「最近、禁欲してたから……お行儀よくなんて、ムリですよ」
 我に返ったことをなしにして、せいいっぱいの笑顔でさらに荒々しく挑みかかる。彼はわずかにふしぎそうな顔をしただけで、あとはこちらの勢いにすべてを任せてくれた。
「おまえ……本気の相手がいるのか」
 彼に言わせれば「らしくない」行為のあと、力尽きてベッドに倒れ込んだ自分に、彼が囁きかけてきた。
 枕にうずめた顔を少しだけ上げて、相手を見やる。
「ぼくはいつだって本気ですよ。鳥羽さんと同じくらいにね」
 彼は笑い出した。
 携帯電話のアドレス帳に詰め込まれた人脈は、国籍も性別も年齢も問わず、ただ一時の快楽を満たすためだけに保存されている。その場ではもちろん、本気で口説き、本気で身を捧げ、本気で楽しむ。性的な接触、恋愛感情……そこには永続的な「本気」などという発想自体がナンセンスなのだ。
 かつては自分もそうだった。あの人に出会うまでは。
「何人も相手にしてるのに、ぜんぶ本気ってありえないですよね……」
 享楽的という点では同じはずなのに、理解の範疇を超えていた。だからこそ理解しようとして近づき、そして……。
「俺なら発狂するね。相手にもしたくない」
「ぼくもです」
 実際、かなりおかしくなっていると思う。一人の人間に固執して他への興味が薄れるなど、そのこと自体に罪悪感を覚えるほどだ。
 よけいなことを考えたくなくて、身体が動くままに汗ばんだ肌へと指を這わせる。
「ん……」
 彼が小さく呻いて喉を反らせた。その反応に気をよくして、悪戯同然の愛撫をつづける。くすぐったそうな笑みが洩れた。
「蒼太……ぁ」
「ねえ、もう一回……」
 気負いのないセックスは久しぶりだな、と思う。いつのまにか、あのチーフ以外との接触を求めなくなっていたからだ。
 たしかに、異常事態だった。

 ?

 冷凍庫を開けると、先日持ち帰った青バラが横たわっていた。
「なんで冷凍庫に入ってるんですか」
 ごていねいに冷風出力は最大になっている。カチカチになったそれをつまみ上げて、彼の鼻先に突きつけた。
「せっかくのレアモノだから、とっとこうかと思って」
 悪びれずにそう言い放った犯人は、器用にフライパンをあおって料理中だった。
「保存したいなら、逆さに吊しておけば勝手にドライフラワーになりますよ」
 ため息をつきながら再び冷凍庫に放り込む。
「逆さ吊りにしてミイラになるのを待つなんてシュミはないんだよ。花も女も、みずみずしいのがいちばんだろ?」
「冷凍庫に突っ込んで凍らせるのも相当なシュミだと思いますけど」
「そうか?」
 家に帰ることが多くなった、気がする。
 数日に渡る任務は少なくなかったし、サロンで仕事をしながら一夜を明かすことも日常茶飯事で、帰宅といえば睡眠か着替えが目的だった。持ち込めるものは大概職場に持ち込んでいたから、この部屋で「生活」などしていなかったのだと、今になって気づく。
 それでも、ふしぎと現実感がなかった。
 かつて仕事でつながっていた相棒が、その仕事を捨てた自分の傍らにいる。それだけでも奇妙なのに、本人も仕事をせず、ただ日々を無為に過ごしているのだ。自分がいないときは、さまざまな相手と「知り合って」いるようだが、その余韻さえ、せいぜいがコロンの香りくらい。まるで、昔の後輩を世話するのが自分の役目だとでも言わんばかりに、この部屋で家事をこなしている。
 なんのために、だれのためにここにいるのだろう……。そんなことを思わないでもなかった。
 バスタブに湯を張ってその中に沈み込みながら、あえて意識をそらし、例の青バラの行方について考える。
「ブルーローズか……」
 彼が持ってきたときには、両腕で抱えるほどの花束だった。全開の笑顔と「ブルーだから蒼太に似合うな!」という意味不明な言葉とともに、その花束を押しつけられたときには、一瞬息が止まった。それが芳香のせいなのか、彼のせいなのかは今でも判断がつかないけれど。
 この花を持ち帰ったのは、自分だけではない。試作品というだけあってさまざまな濃淡の花たちは、サロンと研究室に飾られた他にも、ほとんど押しつけられるように全員に配られていた。
 さくらの部屋では、まだきれいに咲いているだろうか。真墨と菜月のところではもう枯れているかもしれない。映士は意外に世話をしていそうだから……。
 さまよう思考を断ち切るように、勢いよく湯船から立ち上がる。
 あのバラが青だったのがいけないのだ。いやでも自分のコードネームと結びつけてしまうし、さくらが言った「ありえないもの」を連想してしまう。それが彼への想いと重なって、憂鬱……まさにブルーな気分を生み出すのだ。
 自嘲の笑みを浮かべて、シャワーのコックをひねる。熱い湯は、しかし憂鬱までは流してくれなかった。

 明日の予定を聞こうと、ソファにもたれる彼の前に立ったとき。
 観察か値踏みでもするようなまなざしでまじまじと見つめられて、本来の用事を忘れた。
「蒼太……おまえの腕は落ちてないと思ってたんだけどな」
「え?」
 なんですかと尋ねようと口を開きかけたところだったが、予想もしなかった言葉に、口を開けたまま止まってしまった。
 なにかミスを晒しただろうか。いや、先日の対決では彼も認めてくれたし、そもそも今は仕事の話もしていないはずだ。他人の仕事に口を出すほど無粋な男ではない。
 彼は無表情にこちらを見上げて言った。
「ポーカーフェイス……ヘタになった?」
「……………」
 あまりに重い言葉で、しばらく声が出なかった。
「ポーカー、ずいぶんやってないんで……」
 ようやくひねり出した返事も、かすれ声と引きつり笑いでは説得力がない。
 彼は優しく微笑んで、手を伸ばす。
「おいで、蒼太」
 彼の声はいつも優しい。なだめるような、慰めるような、安心させてくれる口調で語りかけてくれる。あたりまえに享受していたその声の優しさに、今さらながら気づいた。気づいてしまった。
「鳥羽さん……」
 笑顔の仮面が剥がれ落ちる。もうポーカーなんてできない。
 ひざまずき、くしゃくしゃにゆがめた顔を彼の胸に押しつけ、背中にまわした腕は爪を立ててすがりついていた。
「あいかわらず甘えッ子だなあ……って言いたいとこだけど」
 頭を撫でてくる彼の優しい声が、密着した身体を通じて直接響いてくる。
「甘えるのもヘタになった?」
「……ここんとこ、甘やかすほうなんです……」
 笑おうとしたつもりがみごとに失敗し、また彼のシャツに顔をうずめる羽目になった。笑いたいのに笑えない。最悪だ。
「そりゃたいへんだな」
 そっと肩をつかまれ、上向かされる。ついばむような口づけを受けて、笑わなくては、という強迫観念も溶けていくのを感じた。
「思い出せよ。おまえはスパイとしても甘えっ子としても超一流だったんだぞ?」
「……………」
 誘われるままに彼のひざによじのぼり、再び唇を重ねた。二人の生活がはじまってから、それは日常茶飯事でくり返されてきた接触のはずなのに、止まらない。
「鳥羽さん、鳥羽さん……」
「蒼……」
 こちらの勢いがつきすぎたのか、彼はバランスを崩してソファから落ちかける。
「たっぷり甘やかしてやるから、ベッドに行こうな?」
 苦笑する彼の目を見て、ようやく口の端を上げることができた。
「はい……」
 言葉どおり、彼はあのころのように……あのころよりも優しく、甘やかしてくれた。彼の好きな角砂糖並みに甘く、なにも考えられないほどに。
 気怠げな気分のままで、二人はベッドに横たわって寄り添っていた。それはとても心地よい時間だったが、なにか奇妙な感覚がずっと引っかかって仕方がない。いつもに増して現実感がない、以上のなにかが……。
「ん……」
 髪を撫でる手を受け入れながらも、頭の片隅で違和感の理由を探している。
「この……甘えっ子め……」
 眠そうな声で気づいた。
 以前いっしょにいたときは、こんなふうに事後の余韻を楽しむことなどなかった。終わればさっさと身体を離して眠りにつくか、そうでなければシャワーを浴びたり服を着たりで、早々にベッドから出ていた。それは相手を問わず、二人にとっては暗黙の了解になっていたのだ。
 彼は、自分を甘やかしてくれている。それもかなり意図的に。
「鳥羽さぁん……」
 わざと鼻にかかった声を出して、裸の胸に頬をすりつける。
 彼は黙って髪を撫でてくれていた。

 ?

 これは裏切り行為なのかな……と考え、すぐに打ち消す。
 今の彼はなんの活動もしていないし、どこにも所属していない。たしかにいくつかの組織からは追われているだろうが、それはこの自分も同じことだ。友人を家に泊めている、ただそれだけならば、プライベートな領域で責められるいわれはないだろう。
 それでも。
 仲間の……とくにチーフの前で、時折感じる後ろめたさはどうしようもなかった。その感情の正体を、おそらく頭のどこかでは理解しているのだろうが、深く追求するのが怖くて、サージェスという組織への罪悪感にすり替えていた。
 いつものように遅くまで仕事をして、そろそろ帰ろうかと更衣室に向かう。だれもいないと思っていたその空間には、チーフがいた。
 今まさにTシャツを脱いで上半身裸になっていた彼は、「まだいたのか」と白い歯を見せてくれる。
「おつかれさまです」
 笑顔で返しながら、心拍数が上がるのを感じていた。
 彼と二人きり……大所帯になった今、そんな機会はほとんどなくて、オフに誘い出すのさえあれこれ画策しなくてはならないくらいだ。だからこのシチュエーションは願ってもない僥倖のはずだった。
 逞しい裸の背中をうっとりと見つめる。動かない自分を怪訝そうに見やった彼と目が合い、そのまま視線が絡み合う。行為をはじめるにはそれだけでよかった。今までは。
 互いの手が自然に伸ばされ、指が絡んで互いの身体を引き寄せる。言葉など必要ない、とても安易な……一見インスタントな関係。
「……………」
 もしかしたら、それは「一見」ではなくて。最初からインスタントで、刹那的だったのではないか。
 唇を重ねようと寄せられた顔から、わずかだが自分の顔をそむけていた。
「蒼太?」
 一瞬のためらいを、彼は見逃さない。あわてて目を合わせたときには、目の前の笑みは消えて戸惑いの表情に変わっていた。
「最近、沈んでいるようだったが……」
 抱きしめる腕の力が緩む。その身体まで離れていってしまう気がして、自分を押しつけるように強く相手を抱きしめた。勢いに押されたのか、彼がよろめいてロッカーの扉に背中をぶつける。
 壁際に追いつめられたかっこうの彼は、困惑を隠さず、しかしまっすぐこちらの顔を覗きこんでくる。
「……原因は、俺か?」
 普段なら、あたりまえじゃないですか、と言って笑っていただろう。だができない。彼の目を見ることさえできない。ほんとうに、ポーカーフェイスのテクニックは失われてしまったのか。
「ぼくは……笑いたいだけなんです」
 言葉どおりに、笑顔を作ろうとした。
「ずっと、あなたのそばで……」
 最後まで言い終わらないうちに、どういうわけか突然涙があふれ出した。どんなにつらくても落ち込んでいても、泣くことなどなかったのに。よりによって彼の前で……。
 泣き顔を見られたくない、という反射的な思いから、彼の首にすがりつく。
 相手は呆然としている風情だったが、やがて力の抜けた腕が、息が止まるほどに強く身体を締めつけてきた。
「……俺もそれを望んでいる。ずっとそばにいてほしい。……それじゃだめなのか? 笑えないのか?」
 その問いには答えられなかった。自分にもよくわからないし、口にしたところで彼が理解できるとも思わない。
 言うべき言葉も見つからず、裸の肩にあごを乗せたままぐすぐすと泣きつづける。
 こんな惨めな姿を晒して、彼の欲求にも応えられなくて。嫌われたらどうしよう、などという小学生並みの発想で頭がいっぱいで、それでも決壊した涙腺はどうにもならない。
「……ごめんなさ……チーフ……」
 しゃくり上げながら、やっとそれだけ言うと、笑みを含んだ優しい声が返ってくる。
「いくらでも泣け。今夜はおまえの好きにしていい。朝までつき合ってやるから……」
 その夜、更衣室の明かりは消えなかった。

「そーぉたっ」
 パソコンの前で、ひざを抱えて椅子に座っていたところを後ろから抱きしめられた。肩越しに見やると、すかさずちゅっと唇を重ねられる。
「鳥羽さん?」
 向きなおりたくても、椅子ごと抱えられているので動けない。おまけに耳を甘く噛んでくるのがくすぐったくて、自然と笑い出していた。
「うん、いい笑顔だ」
 ここ数日、よく聞く言葉だった。確認するようにあれこれと接触してきては、満足げに呟く。こちらとしても不快ではなかったから、彼の望むまま、そして自分の欲求のままに笑った。
 いつまでもこの時間がつづくような気さえしていた。二人がこれほど長くいっしょにいたことは今までなかったのに。いや、なかったからこそ、この時間は過去の再現ではなく、今だと感じていたのだ。
 その日……三日ぶりに帰った夜、部屋は真っ暗で静かだった。
「ただいまぁ」
 いちおう声はかけたけれど、彼がいないことはわかっていた。玄関に靴がなかったし、ハンガーにジャケットも掛かっていない。
 今夜はだれかと約束して出かけたのだろう、と思いながら、ふとテーブルの上に目を留める。
 青いバラが一輪、そこにあった。半分ひからびて、色も黒ずんでいる。
「鳥羽さん?」
 部屋を見渡しながら、答えを求めるようにその名を口にしたときには、もう悟っていた。
 彼が、この部屋を去ったことを。
 枯れたバラを拾い上げ、あらためてぐるっと部屋を見まわす。広いとも狭いとも思わなかったが、今ばかりは妙に広く見える。手にした花も、解凍されたのはずいぶん前のはずなのに、なんとなくまだ冷たい気がした。
「ブルーローズ、か……」
 チーフがこの自分に執着している、という錯覚も。
 元相棒との、つかの間の蜜月も。
 楽しさと紙一重だった憂鬱な日々も。
 すべては青いバラと同じ、存在しえないものだった。ありえない幻に泣いて、すがって、慰められて、振りまわされて。過去を生きているのか、今を楽しんでいるのかさえわからなくなって。
 でも、もうすべて終わったのだ。また荒唐無稽な現実の日々がはじまる。昔の自分を知る彼が、笑うことを思い出させてくれたから。今の仲間の元で、笑うことができる。
「……おつかれ」
 笑顔で、枯れた花をゴミ箱に放り込む。
 それから、どこか晴れ晴れとした気分で部屋を出た。
 空っぽの冷蔵庫と腹を満たすために。

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