零/ジャック
戦闘妖精雪風:深井零/ジェイムズ・ブッカー
Hi,Jack
ある日フォスが、いつもよりはフランクな調子で切り出してきた。
「ねえ、これは私の個人的な興味だから、答える義務はないのだけれど……」
「じゃあ答えない」
言い終わる前に返事をした患者に、担当医は治療中は見せない呆れた表情を向けた。
「ちょっと、たまには世間話につき合ってよ。それがコミュニケーションというものよ」
零は黙って肩をすくめた。
「どうしてブッカー少佐を『ジャック』と呼ぶの? ミドルネーム?」
ジェイムズ・ジャック・ブッカー。くどい名前だ、と零は噴き出しそうになり、その代わりに口角を上げる。
「ジェイコブよりは、しっくりくるだろ?」
そのイギリス人の少佐は、早い段階から部下をファーストネームで呼んでいた。
任務の前後や食堂で会ったときなど、労いの笑顔とともに名前で呼びかけられる。
「深井少尉」ではなく「零」。ただそれだけなのになぜか、任務によって硬く強ばった心を解きほぐしてくれるような気がした。
よく注意して見ていれば、他のメンバーも少佐の呼びかけに多少なり安堵の表情を浮かべることに気づいただろう。だが、互いの存在に興味のない特殊戦では、だれもが一対一で少佐と対峙していた。
「零」
零自身は、ファーストネームで呼ばれることに抵抗はない。外国人にも発音しやすいその名前は、名字よりは好まれたからだ。しかしこの部隊ではファミリーネームを呼ばれることすら少なかった。
だから、余計に特異に思えた。少佐をファーストネームで呼ぶ人間がいなかったから、なおさらのことだったかもしれない。
仕事帰りに寄ったリカーショップで、見知った男を見つけた。
いつもなら無視してレジへ直行するのだが、なぜか今日は彼に歩み寄っていた。今日は一日デスクに向かっていて、彼と顔を合わせなかったからかもしれない。一日上官と会わなかったくらいでどう思うこともないはずなのだが。
「少佐」と声をかけようとして、ふと思いつく。彼ならばこんなとき、ファーストネームで呼びかけるだろう。
べつに少佐がそうするからといって、零が真似をする理由はどこにもない。していいのかもわからない。
そもそもブッカーのファーストネームを、零は思い出せなかった。
「…………」
なんだったか。たしか、Jがついたはずだ……ジェイコブとか、そういう……
ああ、面倒くさい。
だが零はそこで普段どおりの「少佐」という呼びかけを選ばなかった。
「Hi, Jack」
ブッカーは顔を上げて声の主を確認すると、笑顔になって片手を上げた。
「お手柔らかに頼むよ」
あいさつの意味がよくわからなかったものの、少佐流のジョークなのだろうと思って気にせず歩み寄る。とりあえずありそうな線でいってみたが、ジャックでよかったらしい。
「これから食事か?」
「そのつもりだ」
零はうなずいたが、手にしていたのは缶ビールとツナの缶詰。カゴすら持っていない部下に、少佐は哀れむような笑みを向ける。
「うちに来るか? 缶詰よりは美味いものを食わせてやるぞ」
それはとてもありきたりの、日常的な言葉だったが、異空間のフェアリィでは初めて聞く……少なくとも初めて自分へ向けられた、ひどく生々しくて温度のある言葉だった。
「それはいい考えだ、ジャック」
声をかけてよかった、と空腹の零は思った。だから、ブッカーのわずかな表情の変化には気づかなかった。
初めてブッカー少佐の部屋に招かれた数日後。
修正を求められた報告書を眺めていたとき、ふと彼のサインが目に止まった。
ジェームズ、ブッカー。
おや、と零は眉を上げる。
ジャックではなかったようだ。ジェイコブでもなかった。
恥ずかしいとかきまりが悪いなどといった感情は、零の中にはなかった。ただ、ジャックではなかった、と思っただけだった。
だが、ブッカーは訂正しなかった。それならばジャックで問題ないのだろう。深井少尉はそう結論づけ、意識を報告書の修正にもどした。スペルや文法、指摘された箇所は山ほどある。
出来の悪い高校生並みの報告書を再提出に向かった零は、手前の角を少佐が曲がっていくのを見かける。ちょうどいい、オフィスに出頭する手間が省けた。
「ジャック!」
大きな声に、本人含め数人がふり返る。零はかまわず長い脚で上司に追いつき、報告書を押しつけることに成功した。
「それじゃあ、俺はこれで……」
「待てよ。オフィスでコーヒーでも飲んでいけ」
「なんでわざわざ……」
用事は済んだのに、と不満げな顔をする零の背中を、ブッカーは慰めるように叩いた。
「形式的なものさ。出頭したっていう事実は必要だ」
「……了解した」
長い廊下を歩きながら、彼はのんびりと尋ねてくる。
「生まれはフランスか?」
「いや、日本だ」
質問の意図がわからない。英語が不得意だと思われたのだろうか。たしかに読み書きは不得手だが、会話に問題はないはずだ。鼻の頭に皺を寄せる零にかまわず、少佐は言葉をつづける。
「じゃあ、じいさんかばあさんがフランス系、とか」
「生粋の日本人だよ。なぜ?」
そこで、ようやく彼がこちらを向いた。
「じゃあ聞くが……なぜ俺がジャックなんだ?」
ジェームズなのに。
「あんたこそ、なぜ訂正しなかった?」
「ハイジャックにかけたジョークだと思ったのさ。パイロットだけにな。ほんとうにおれの名前を知らないのか?」
ついさっきまではほとんど知らなかったようなものだが、知ってる、とだけ答えた。
「ジェームズ……」
その名を舌の上に乗せてみて、自分で首をかしげる。
「ジャックのほうがいいな」
「……ジェームズって名前に恨みでも?」
べつに、と言いかけて、先ほど目にしたサインを思い出す。
「……JAMが入ってる。気にくわない」
ブッカーはただ目を丸くし、それから小さく笑った。
「ジェイミーもベンジャミンもおまえの敵か? おもしろいやつだ」
くすくすと笑いながら、彼はようやく辿りついたオフィスに足を踏み入れる。
「まあ、好きに呼べ」
「そうする」
彼の背を追って小走りに駆け込んだ零の後ろで、ドアが閉まる。無機質な職場だが、廊下とちがって自分と彼だけの空間だ。コーヒーメーカーの前に立っているブッカーに目をやれば、なんだか彼の部屋にいるような気分になる。
零は手近にあった椅子を引き寄せて座り、リラックスして足を組んだ。
「ジャック、この前のフライが食いたい」
ふり向いた少佐の表情が、驚き、呆れ、諦め、と順番に色を変えていく。ブッカーは零のところまで歩いてきてコーヒーのカップをわたし、自分のデスクにもどる。
「ああ。おまえの報告書を処理したあとでな」
零はカップに口をつけ、無言で微笑んだ。
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