黒/11

2008_DARKERTHANBLACK,[R18]

DARKER THAN BLACK -黒の契約者-:黒/ノーベンバー11


闇夜にのべられた凍る手は…

その青年は、部屋の入り口あたりで拳を固めたまま立ちつくしていた。
くたびれたジーンズによれたシャツ、安物のパーカーという姿は、どうしてもこの豪奢な部屋にはそぐわない。本人もそれをいやというほどに感じているようだ。
「楽にしていいんだよ、瞬生(シェンシュン)」
ジャケットを脱いでハンガーに掛けながら、彼を安心させるべく笑顔を向けた。
だが彼は驚いたように目を大きく見開く。
「どうしたんだい?」
まさか、名前を呼びまちがえたのだろうか。しかし先ほど、彼はたしかに「李瞬生」と名乗った。
理由を問うと、青年は決まり悪そうなようすで肩をすくめた。
「あ、あの、あまりファーストネームで呼ばれたことがないので……なんだかへんな感じがして……」
「そうかい? いい響きなのになあ」
そういえば、あの女刑事も名前で呼ばれるのをいやがったと思い至る。彼は彼女とちがって日本人ではないようだが、アジア人とはそういうものなのだろうか。
「あの、サイモンさん……」
「ジャックでいいよ。ね、瞬生?」
「はあ……」
念押しするように名前を呼ぶと、いよいよ恐縮して上目がちになる。ずいぶんとナイーヴな性格のようだ。心を開いてもらうには、少し手間取るかもしれない。
「それで、なんだい?」
「さっきも言いましたが……ぼく、まだお客さんの相手をしたことがないんです……だから、その……」
怖がっているのだろうか。最初に金をちらつかせたのは自分だが、食いついてきたのは彼のほうだ。ここにきてようやく、その意味に気づいたとでもいうのか。
たしかに、夜の仕事には向いていないようだ。
「無理強いする気はないんだよ。私はただ、話をしたいだけなんだ。もちろん、そのついでにきみと親しくなれたらいいとは思っているがね」
可能なかぎり優しい声で、友好的な態度をアピールしてみる。それを彼はどう受け取ったのか、あわてて両手をぶんぶんと振った。
「いえ、イヤなわけじゃないんです! ぼくでよければ、お相手したいんですけど……でも、どうしたら楽しんでもらえるのかわからなくて……」
客相手のノウハウは教わっていない、という不安を抱えているらしい。ずいぶんとまじめな青年だ。思わず笑い出しそうになった。
「安心したまえ。悪いようにはしないから」
ハンガーを片手に手を差し出すと、青年はおどおどしながらパーカーを脱ぎ、はにかんだ笑みを浮かべて歩み寄ってきた。


指定された場所へ行くと、見慣れた車が止まっていた。
「今度のターゲットは、MI6のエージェントだ」
小柄な中年男が車に寄りかかり、競馬新聞を眺めながら独り言のようにぼそぼそと呟いた。
ただ立ち止まって、その「独り言」に耳をかたむける。
「情報を奪ってから、消せ。それだけだ」
ただ「消す」だけなら、仕事が自分へ回ってくることはない。契約者ながら対価を払わない自分の任務は、一般社会への接触があるときに限られている。
「……潜入先は?」
いつもどおりの質問をしたつもりが、男は苦笑とも嘲笑ともつかない笑いを洩らした。
「野郎相手のホストクラブみたいな店だ。やつはそこの常連なんだとよ。けっ、イギリス人とは仕事したくねえな。で、色仕掛けでもなんでもいいから、そのホモ野郎に接触しろってことさ」
「なに……?」
声を上げたのは、ボンネットの上で眠っているように見えた黒猫だった。耳をぴくりと動かし、中年男を見上げる。男はそんな野良猫を横目で見やると、いかにも嘲る調子で鼻を鳴らした。
「は、仲間の貞操が心配か? 畜生にも思いやりたぁ、涙が出るぜ」
「ホァン!」
しゃべる黒猫は、声を潜めることも忘れて頭を上げる。
「まさかヘイに身売りをさせる気か?」
「そりゃあ本人の力量しだいだろうよ。野郎にカマ掘られるなんざぁ、俺ぁ死んでもごめんだがな。案外、感情のねえ契約者にはうってつけの仕事じゃねえか? 痛みは感じるが精神的ダメージはねえんだろ?」
「……………」
連絡役が向けてくる露骨な侮蔑にも、自分に代わってそれに憤る同類の立場にも、とくに思うところはない。すでに頭はその仕事の手順について考えはじめていて、それ以外のことを思惑に入れるのは、時間の浪費でしかないのだ。
「……ターゲットの名前は?」
猫と言い争っていた男が、ちっと舌打ちして煙草を吐き捨てる。
「コードネームはオーガスト。店ではジョン・スミスって名乗ってる。安直な偽名だな。本名は不詳だ。てめえらと同じだよ」
「……………」
本名など必要ない。敵と味方を区別できる名さえあれば、真実など必要ない。

「ホントにやめちゃうの?」
「ええ……急に本国に帰らないとならなくなっちゃって……ほんとうにすみません」
「うーん、李くんはお店の子にもお客さんにも人気があったんだけどねえ。本格的にお店に出る前にっていうのは残念だなあ」
「すみません……ぼくも、ずっとここで働いていたかったんですけど……」
自分がいた痕跡をすべて消し、店を後にする。いつもどおりに、仕事は終わった、かのように見えた。
表へ出ると、猫の鳴き声が聞こえた。見上げるまでもなく、塀の上に青い目の黒猫が立っているのがわかった。
「……なんだ? 本気で俺の貞操を守ってくれてたのか?」
歩きながら声をかけてやれば、塀の上から見下ろしながら、並んでついてくる。
「監視だよ。おまえの悪癖が出ないようにな」
思わず足を止めた。ようやく、その野良猫と目を合わせる。
「……オーガストは消した。おまえが心配するようなことは起きなかった。それでいいだろう」
「フン……」
相手はまだなにか言いたげだったが、結局なにもしゃべらず鳴きもせず、こちらの足下へひらりと飛び降りただけだった。
「とにかく、任務は完了……」
釘を刺すつもりでそう言いかけたとき、身なりのいい外国人とすれちがう。
ふり向くと、たった今自分が出てきた店へと入っていくところだった。入り口のところで店員となにかを話している。
「……ええ、ジョン・スミスという名前です」
流暢な日本語が聞こえ、猫ともども身を硬くした。
「ヘイ……」
「黙ってろ」
二分もしないうちに、男は渋い表情で店を出てくる。
「!」
サングラスをかけていても、その端正な顔は見まちがえようもない。自分が消した男の仲間、そして以前に仕留めそこねた氷の契約者だ。
「待ってください!」
反対側へ行こうとした男を追って、声をかけた。
「ヘイ!」
黒猫が低い声で名を呼んだが、気にしている場合ではない。
「スミスさんのお知り合いですか!?」
「きみは……?」
怪訝そうな顔をする男に、むりなく接触する方法を考える。リスクはこの際、二の次だ。
「スミスさん、新人のぼくにとても優しくしてくれて……でも、いきなり来なくなってしまったんです。スミスさんがどうかしたんですか?」
サングラスがはずされ、澄んだ碧眼がこちらへ向けられた。
「きみ、あの店の子?」
「はい……あ、いえ……もう辞めちゃったんですけど……」
男はしばらくこちらを見つめていたが、やがて優しげな笑みを浮かべた。あの店の男たちが浮かべるのと同じ種類の微笑みだ。
「今夜一晩、私とつき合わないかい? スミスの話も聞きたいし」
うまくいけば、偽の情報を流して攪乱させることもできる。あとは怪しまれないように相手からアクションを起こさせればいい。
「でもぼくずっと下っ端で、お客さんの相手をしたことはないんですけど……」
「チップは弾むよ?」
「……行きます」
ゴミバケツの影で、黒猫が鳴いた。
なにかを警告するような低い声だった。


着慣れないバスローブの胸元を押さえ、シャワールームから出てきた青年は、怯えているようにしか見えない。
「おいで、瞬生」
「はい……」
差し伸べられた手を取ったあとも、抱き寄せられるがままになっている。
「だいじょうぶ? こんなに震えて……」
「すみません……こっ、こんな豪華な部屋で、あなたみたいな、その……すてきな人といっしょに過ごすなんて、初めてで、緊張してしまって……」
「……まいったな」
お世辞が言えるほどの器用なタイプとは思えないし、誘っているにしてはぎこちなさすぎる。今までにないパターンだ、と内心昂揚するのを自覚しながら、彼の肩からバスローブを落とした。まだしっとりと濡れている、日に焼けていない肌が現れる。
「きれいだ……」
「え……」
はっとするほどに均整のとれた肉体は、服の上から見るよりもずっと鍛え上げられた筋肉を備えていた。指をすべらせると僅かに震えるが、なめらかながらも硬い肌がそこにあった。
「なにか、スポーツでもしてるのかな?」
「いえ……毎日、いろんなバイトばかりで……」
肉体労働つづきの生活が、これほどむだのない身体を作ったという。奇妙な違和感を頭の隅に残しながら、彼を広いベッドへといざなった。
「サイモンさ……」
上目遣いに見上げてくる彼の、薄い唇に指を当てる。
「ジャックだ。いい子だね、瞬生」
暗に復唱を要求すると、青年は恥ずかしげに目を伏せて呟いた。
「ジャック……」
「なんだい?」
「あまり……見ないで、くれますか」
薄いながらも硬い胸を静かに上下させ、彼は期待と緊張で身を硬くしている。経験がないわけではなさそうだが、慣れていないというのもまた事実らしい。
「それは難しい注文だな」
彼の緊張をほぐすため、頬に唇を寄せた。彼はくすぐったそうに身をすくめ、それでもおそるおそる腕を伸ばして抱きついてきた。なにもかもがぎこちなくて、処女を相手にしているようだと思う。
頬から耳へ、あごへ、首筋へと口づけるたびに、笑い声のような息が洩れる。それはやがて小さな喘ぎへと変わり、笑い声は消えていった。
「は、ぁ……っ!」
胸の先端を吸われて思わず甘い声を上げた青年は、次の瞬間はっと自分の口を手で覆う。
「どうして、口をふさぐんだい?」
「……………」
耳まで赤くなって、顔を覗き込んでも目を合わせようとしない。まったく、強情な処女だ。なだめるように黒髪を指で梳き、耳元へと囁く。
「もっと素直になっていいんだよ……ほら、ここが感じるんだろう? 快感をストレートに受け入れるんだ……」
指先でその飾りを撫でて弄ぶと、彼は縋るように抱きつきしがみついてくる。
「やっ……やめてくださ……なんだかへんな気分に……」
腰に当たる中心はすでに固さを持ちはじめていて、それが緊張のせいにしても快感のせいにしても、身体のほうはすでにその気になっていることを顕示していた。
「いい気分、のまちがいだろう?」
下腹へと手をすべらせ、そこを握り込む。軽く揉んで、濡れた先端を擦ってやるだけで、若い雄はたやすく熱を帯びるのだ。それなのに本人のほうはそれを恥じて身をよじっている。
「さて……今はどんな気分かな? 不愉快? それとも……」
彼は両目を固くつぶり、頬を紅潮させて快感と羞恥に耐えていた。ただ返事だけはしなくてはいけないと思っているのか、消え入りそうな声で律儀に答えてくれる。
「き、気持ちいい、です……だから、早く……」
早く解放を、と訴えるのを流し、焦らしては懇願させる遊びをくり返した。
彼は無防備に乱れ求めてくる。こんな隙だらけの人間が、なにかの意図を持って近づいてくるはずもない。そう思うことにした。
「怖がらないで、脚を開いて……」
自分は、行きずりの客でしかない。彼にもそう思わせておかなければならない。彼がそう信じ込んでいるかぎり、この関係が危機をもたらすことはない。
「ひ……っ」
充分に慣らした後ろへ雄をねじ込まれたときには、彼はもう恥じらうことも忘れ、嬌声を上げて縋りついてきた。ここまでくれば、こちらの思い通りに話も行為も進められる。
「ジョンにも……そんな声を聞かせたのかな?」
「い、いえ……お店以外で会ったことは……ぁっ」
「ジョンは、最後になにか言っていた?」
「あ……べつに……でも、お仕事が、終わりそうって……お給料、たくさん、出るから……ごはんを、おごってくれるって……やっ、そんな、ダメです……っ」
答えているという自覚もなさそうな、切れ切れで脈絡のない返事を、喘ぎのあいだからよこしてくる。彼が持っていると思われる情報をすべて引き出してしまうのに、そう時間はかからなかった。
「あ……ぁあっ!!」
青年はこちらの首に縋りついて身を震わせ、細腰を反らせて果てた。
「……瞬生?」
自らの精で腹を汚したまま、彼は潤んだ目でこちらを見上げる。濡れた唇は半開きで、言葉もすぐには出ないようだ。
「後ろだけでこんなになってしまうなんて……いけない子だね」
軽くからかってやると、本気で恐縮している。
「す、すみません! でも……こんなになったの、初めてなんです……」
そう言われれば、男として悪い気はしない。
「いいんだよ……次は、ぼくを気持ちよくさせてくれるかな?」
ひざを持ち上げて奥まで突き上げると、小さく悲鳴が上がる。挿出をくり返すごとに、若い彼自身が再び熱を持ちはじめる。
彼本人の意志とは裏腹に、彼の身体はこの快楽を求めつづけているようだった。


夜風に当たりたくて、バルコニーへ出た。
目の端で動く影にはっとふり向くと、手すりにカラスがとまっている。カラスはこちらを一瞥するものの、飛び去るようすはない。東京に棲む動物は図太いのだと聞いていたが、事実のようだ。
驚いた自分に苦笑しかけ、闇夜に鳥が動いている事実に気づく。こんな高階でたった一羽、あさる餌もないのに……
「契約者か……!」
手すりが夜露で濡れているのは無意識のうちに確かめていたから、そのまま氷を走らせた。
足を捉えられる寸前で、黒い鳥は手すりから離れ舞い上がる。
間髪を入れずに氷の刃を飛ばしたが、僅かな夜露ではカミソリ程度にしかならない。それでも刃のひとつが羽根に当たり、カラスは体勢を崩す。
刹那、目が赤く光ったが、黒く小さな身体はそのままビルの谷へと吸い込まれていった。
「どこの組織……いや、なんのために……?」
目もくらむような高さから地上を見下ろし、呟く。
だが考えるのはあとだ。
部屋に入ると、ベッドに横たわっていた青年がおずおずと枕から頭を上げた。
「サイモンさん?」
「なんでもないよ。これを取りに来ただけだ」
煙草の箱とライターをつかんで、急かされるように再びバルコニーへと出る。
震える手で一本取り出し、火をつけた。
「……ごほ……っ」
不快な煙を自ら吸い込み、そして思いきり咽せる。夜の風が火照った肌を冷ましていくが、それすらも気にならない。吸っては咳き込み、咽せてはまた吸い込む。なんと忌まわしい、苛立たしい「対価」だろう。
かたり、と音がしてふり向く。
相変わらず様にならないバスローブ姿の彼が立っていた。
「……みっともないところを見られたな」
冗談めかして口にした言葉さえ、痛めた喉がかすれて情けない声になる。
彼はひどく困惑した表情で、煙草とこちらの顔を見比べた。
「……軽いのにしたらどうですか?」
「そうもいかないんだ」
彼の推測は単純でもっともだが、それで済むならこんな苦労はしていない。
「どうして……」
「話せば長くなるんでね……げほっ」
説明のしようもないし、一般人には契約者の存在の片鱗すら知らせてはいけない。だから、彼の問いにはなににも答えられない。
だが……彼が一般人でなかったとしたら?
なぜ窓の外に契約者がいたのか。あの青年はなぜ自分に声をかけてきたのか、そもそもなぜオーガストと……
結局、彼への答えも己の問いも口にせず、代わりにせいいっぱいの笑顔を作った。
「中に入りなさい、瞬生。身体を冷やすよ。副流煙も肺によくない……」
吐き出す煙を彼に向けまいと、身体ごと彼に背く。だが、青年は言うとおりにはしなかった。
「!」
後ろから抱きつかれる。腰にまわされた腕に力が込められた。
「こうしていれば、二人とも寒くないですよ」
その声も腕も、あまりに優しくあたたかくて。
「瞬生……」
背中から伝わる熱に、この心をあずけてしまえたら、どんなにか心地よいだろう。
だがそれは叶わないことだ。彼に疑念を抱いている今ならば殊更に。
ならばせめて、身体だけでも……


悪癖、とマオは言った。
たしかにそうなのかもしれない。その欲求はひどく非合理的で、だが抗いがたく、まるで「対価」だ。
「指が冷たいですよ……」
「外にいたからね」
氷の能力を使ったせいなのか、それともあの「対価」のせいなのか。顔色も悪く、さっきまでの伊達男っぷりはその威力を半減させている。
「……………」
顔を近づけると、強い煙草の香りがした。
この行為にはじゃまな香りだと思ったが、意識から追い出してその口腔を貪る。濡れた音と、苦しそうに洩れる喘ぎに酔い、執拗に男の舌を追いつづけた。
「ん……」
ぼやけた碧眼とこちらの視線が、数センチの距離で何度もぶつかる。それでも、互いに目を閉じようとはしない。なにかを探られているような気になったが、だからこそ目を閉じるわけにはいかなかった。
揺らぐ瞳を覗き込んで、そっと囁く。
「今度はぼくに……させてください」
「おやおや、積極的だね」
笑って黒髪をかき上げようとする手を、やわらかいベッドに押しつけた。
「ぅ……」
肩口に噛みついて痕を残す。
先ほどこの男は、こちらの身体を見てなんらかの疑念を抱いたようだが、そういう本人もなかなかの体つきだ。軟派な外見からは予想もつかない、ディスプレイ用ではなく本物の実用的な筋肉がそこにある。
冷えた指先とは無関係に、厚い身体は充分な熱を蓄えていて。なぜだか離れがたい思いを生む。
「寒いのかい……?」
痙攣にも近いこの身の震えを、男はそっと抱き寄せることで止めようとする。おかしなものだ。一度ならず殺し合った敵同士が、震えながら抱き合っているなど。
「はい、少し……でも、あなたがいるから平気です」
寒さなど感じてはいない。体内では渇きにも似た焦燥感が暴れ狂っていて、それを眼前の男にぶつけてしまいたくてたまらない。
だが、今すぐにはできない。相手に苦痛の悲鳴を上げさせては、この行為の意味がない。手を抜けば料理は不味くなる。この行為は味気ないものになる。食う意味は薄れる。
互いの身体にまとわりつくじゃまなローブを押しのけて、ただ相手の肉体を愛撫しつづけた。男が、快感に喘ぎはじめるまで。
後ろから指を引き抜いたとき、相手がうめきながら微笑んだ。
「つけてあげるよ……瞬生」
一瞬、なんのことかわからず男の瞳を覗き込むと、指先でひらりとコンドームを振ってみせる。そういえば、先ほども彼はそれを使っていた。この手の任務は慣れているようだから、余計なリスクを回避するため、といったところか。
荒くなる息を押さえながら、パッケージを開ける指を凝視する。
「さすが日本製……上質のゴムを使ってる……」
「!」
他愛もない冗談に、笑いを作ろうとしたが失敗した。それは以前、自分がこの男を殺そうとしたとき耳にしたのと同じ言葉だった。
「瞬生?」
甘い声で囁かれ、ようやく微笑む。だが、この碧眼にこれ以上見つめられたくなかった。腕をつかみ、焦っているふりをして乱暴に相手の身体をひっくり返す。
「瞬……」
自分とは人種のちがう、白い背中を見下ろして、背後から貫いた。
「く……ぁあっ、あぅっ!!」
枕にしがみつく男は、身をよじって声を上げる。
この男も契約者だ、と思った。羞恥に耐えて楽しみを半減させたりはしない。楽しむときですら合理的なのだ。この行為自体が非合理で非論理で非効率だというのに……
内壁へ自身をこすりつけるように、激しく突き上げる。それでも直接触れてはいない。彼曰く「上質な日本製」に隔てられているのだ。
電気を通さないものは嫌いだ。それは、この自分自身の拒絶にも等しい。
もどかしくて、なおも責め立てた。男は金の髪を振り乱し、意味のない英単語を口走り、それといっしょに何度もこの自分の名を呼んだ。……まるで助けを求めているような必死さだ、と冷静な頭が思ったが、すぐに迫る絶頂の兆しに打ち消される。
「……ぅうっ!!」
白い背中にしがみついて、相手の中へ熱をそそぎ込んだ、はずだった。もちろんそれは叶わないのだけれど。
彼もすぐに上擦った声とともに達する。中から刺激されて、というよりは、乱暴な動きでシーツに擦られていたからだろう。
「……………」
起き上がるのも億劫で、しばらく彼の背中に頬を押しつけていた。しだいに静まっていく鼓動のリズムと、汗ばんだ肌の温度が、心地よかった。
「……ワイルドなきみも、すてきだね」
ひたいに張りつく髪をかきあげた彼が、そのまま仰向けになろうとする。こちらものそりと身を起こし、その場に座り込んだ。
「ごめんなさい……我慢ができなくて、ぼく……」
シーツの上についていた手に、男の手が重ねられる。その手は、部屋にもどったときよりもずっとあたたかい。
「ジャック……?」
覚えた名を口にすると、彼は物憂げにこちらを見上げて微笑んだ。
「瞬生……きみは……」
だがその言葉をつづけることなく、彼は満足げに目を閉じる。重ねた手を、ただ愛おしげに撫でながら。
「ジャック……」
離れることもできず、かといって今さらその傍らへ潜り込むタイミングもつかめず、心底困惑して彼の瞼を眺めた。
あまりにも無防備なこの喉を切り裂き、身体ごと焦がし燃やし尽くしてしまうことはたやすいが、しかし……
相手は気づいているのか。ならばなぜ、仕掛けてこない。どんな策略があるというのか……その顔を睨みつけたところで、建設的な提案など浮かぶはずもないのに。
暫しその寝顔を見つめていたが、どうするかを思案していたわけではなかった。
ただ、記憶へ刻み込むように、彼の顔を見ていただけだった。

非常階段を下り、夜明け前の暗い通りへと出る。まだ始発も動いていない街には、だれもいない。黒猫一匹さえも。
闇にとけ込む色の髪をかき上げた瞬間、煙草の香りがふわりと鼻先をかすめたような気がした。

いつもの場所、いつもの相手。
「よう、ケツの具合はどうだ」
連絡係の男はにこりともせずにそう言い放った。当然、答えてやる義理はない。
「……………」
「ま、任務完了したんなら言うこたぁねえよ。帰って養生しな」
最低限の報告を受け取り、無礼な男は去っていく。ベンチから立ち上がるより先に、入れ替わりで木の上から低い声が話しかけてきた。
「ヘイ」
見慣れた黒猫が尻尾を揺らしながらこちらを見下ろしている。
「生きてたのか」
「二度も身体を失うようなまねはしないさ。それより……」
猫の尻尾がぴたりと止まった。
「……あの男、食ったな」
内容はさっき浴びた不躾な言葉と同じに聞こえるが、その口調には苦々しいものが含まれていた。
「覗いてたんなら知ってるだろ」
黒い身体が首をすくめるように縮み上がり、幹を伝って軽やかに駆け下りてくる。そして、うんざりした口調で呻った。
「おまえの濡れ場なんぞ頼まれたって覗くもんか」
観測霊ならいざ知らず、ただの契約者がベランダから覗き込んだところで、遮光カーテンに閉ざされた室内など窺い知ることはできない。だから自分が「ちがう」と言えば、それはなかったことになる。事実、あの夜のことは報告には含まれていない。
「根拠なしか」
答える代わりに、マオはひらりとこちらのひざの上に乗ってきた。シャツに触れるほど顔を近づけてきたから、ひざから追い払おうと手を挙げたとき。
濡れた鼻先が裸の胸に押しつけられ、その冷たさにびくりと身を震わせていた。
「!」
「ボタンは面倒がらずに全部閉めろよ」
「……………」
彼が鼻でつついて示したその場所には、薄くなってはいるが鬱血して色づいた痕があった。気づかないわけでもなかったが、シャツに隠れて見えないからと、ほとんど気にとめていなかった。
無言で、シャツのボタンを一つ閉める。これで木の上から人を見下ろす者がいても、不快なものを目にすることはないだろう。
「なりゆきだ」
「嘘つけ。最初からそのつもりだったんだろ」
「……MI6に誤った情報を流す、そのための手段にすぎない」
自分で言ったその「理由」が、まったくの弁解であることには気づいていた。
情報操作に関する指令は出ていない。むしろ命令違反にも問われかねない。だから報告しなかったのだ。
マオは小さな肩を落としてため息をついてみせた。
「ホァンも、具合を聞く相手がちがうってことに気づくのはいつだろうな……」
「そんなに気になるなら、教えてやればいい。俺は困らない」
「意味がないだろう。ホァンの契約者嫌いがひどくなるだけだ」
あの男に嫌われようが憎まれようが、それほど大したことではない。だが、わざわざ嫌悪される要因をこちらから増やすこともない。
「そうだな。合理的な行動じゃない……」
独り言のように呟いてから、ふとあの契約者のことを思い出した。
彼が見知らぬ青年をホテルへと誘ったのは、怪しまれずに情報を引き出したかったからだ。それこそ、単なる手段にすぎない。
だが……
「まさか、な」
こちらの正体に気づいていたのなら、あの場で殺しにかかるはずだ。互いに無防備で隙だらけで、機会なら何度でもあった。その絶好の機会を逃すなど、契約者にはあるまじきことだ。
「合理的じゃない……」
もう一度呟き、ベンチから立ち上がる。
あの男についてこれ以上思考を巡らすのは意味がない。
自分自身のことを考えるようなものだから。

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