神戸/大河内
相棒9:神戸尊/大河内春樹
現状維持
小気味良い竹刀の音が響く。打ち込まれた相手は、虚を突かれたようにわずかだが動きを止めた。
皮肉なものだ、と思う。
彼への澱んだ想いを振り切るために、彼自身を呼び出して鍛錬とは。
純粋に、実力を評価していたつもりだった。
ノンキャリアながらその実力で出世コースに乗った彼が、焦って上へ行こうとしたときには、上司権限を行使してまで止めた。もうしばらく自分の下で力をつけさせたかったのだが、彼はそんな上司の親心など知りもしないで、階段を上りつづけた。
先を急ぐあまり転がり落ちていった連中はいくらでも知っている。敵でも味方でも。彼もそこまでの男だったということだ。ほとんどあきらめ忘れかけていたが、彼は再び大河内の前に現れた。理由不明の二階級降格というみやげを抱えて、しかもあの特命係へ。
一度やられた彼は、躍起になって挑んでくる。負けず嫌いの性分はやられっぱなしを許さない。
壁際まで押されたあげく、最後には竹刀を弾き飛ばされた。
面の奥に見える、闘争心剥き出しの顔。こちらの視線に気づくと、照れたような勝ち誇ったような笑みを浮かべて、荒々しい感情を一瞬で隠してしまう。心を許した友人であっても、なかなか本心を見せない。
そんな彼を前に、再び竹刀を握りしめる。全てを見せてほしいなどとは思わなかった。そんなことを望める立場ではない。資格もない。
取っつきにくい友人……ただそれだけでよかったのに。
そこそこの野心があって世渡りもうまく、平気な顔で嘘をつきとおせる。そのくせ妙なところで意地っぱりで、清濁合わせ飲むには未熟な部分もあった……それが大河内の知っている、神戸尊という男だった。
しかしよほどの失態を起こさなければ、「あの」特命係になど追いやられるわけがない。
警察庁のスパイではないかと疑い、慣れない飲みに誘ったりもしたが、彼はのらりくらりとかわしつづけた。きっちりと飲むだけは飲んで、ときには支払いをすべて大河内に押しつけて、さっさと帰っていく。
その背中を見送る歯がゆさの積み重ねが、そもそもの発端だったのかもしれない。
「なにか、イヤなことでもありました?」
「なに?」
汗を拭いながら、それでも表情だけは涼しいままで、神戸は切れ長の目を向けてくる。
「やけに打撃が重かったから……でも、大河内さんの剣道って、いつもストレス発散ですもんね。訊くだけ野暮ってやつですか」
「じゃあ訊くな」
妙なところで勘が鋭いのは、彼の長所でも短所でもあった。その上、特命係に居座ってからはあの上司に似てきた気もする。
「でもストレス解消なら、柔道のほうがいいんじゃないですか? 直接こう、ぽーんと投げ飛ばして……」
「投げ飛ばされてくれるのかおまえは」
「え、そこもぼくなんですかー?」
「おまえ以外にだれがつき合うっていうんだ」
たしかに、と呟いて、神戸は朗らかに笑った。
「交友関係狭すぎなんですよ、大河内さんは」
利害の絡まない友人など彼以外にはいない。いないからこそ大河内はいつのまにか、彼に依存していた。心配をしているつもりで、面倒を見ているつもりで。
「人のことが言えた義理か」
「ははっ……反論できませんね」
神戸は気分を害した様子もなく、肩をすくめている。
「庁内のつき合いなんて、利権あってのものですから。出世コースから外れた人間に損得抜きで目をかけてくれるのなんて、あなたくらいしかいませんよ」
「私に下心があったらどうする」
「え?」
神戸は戸惑った表情で少しだけ考え、すぐに笑い出す。
「いくら大河内さんでも、ぼくを監察室に引き抜くなんてできないでしょう」
至極真っ当な、だが的はずれな発想だった。
「でも大河内さんに『おまえがほしい』なんて言われたら、ムリだとわかってても心が揺れちゃうかも」
くすくすと笑う彼の言葉に裏などない。裏がないからこそ、たちが悪い。
その言葉が、仕草が、大河内の心をこんなにもかき乱していることを、知りもしないのだから。
彼は確かにスパイで、しかし彼自身も上層部の思惑に振り回されているだけの駒に過ぎなかった。それに気づいたとき、彼は全てを捨てて自らの正義感を取った。
一度は上層部のキャリア組にまで認められた才能が、大河内には惜しくてならなかった。その能力を活かせる場はいくらでもある。よりによって特命係に埋もれることはない。杉下右京の実力はわかっているが、神戸は彼の相棒だった亀山薫とはちがう。神戸の居場所は他にある。
それなのに。
同僚も、後輩も、上司も。島流しに遭った彼からはさっさと離れていった。遠巻きに人気があった女性職員たちからも陰口を叩かれるようになった。
ただ一人残った「友人」に寄りかかるようになったのは、大河内だけではない。神戸もまた、自覚があるのかないのか、気安く大河内に近づいてくるようになった。
大河内が距離を置けば置こうとするほど、軽やかにこちらのバリケードを飛び越えて、そのくせ自分の本心だけは見せずに。
着替えを終えて、一分の隙もない監察官に戻った大河内は、同じく……とは言いがたいが普段どおりのしゃれたスーツに着替えて髪まで直している神戸に、声をかける。
「杉下警部に、よろしく伝えてくれ」
「え? ええ」
突然のことでなにを言われているのかわからないながらも、彼はとりあえずうなずいた。
「あなたが頼りです、と」
それを聞いて初めて、すっと頬を引き締める。
「たしかに、伝えますよ」
神戸は自分で思っているよりも、あの偏屈な上司を敬愛している。ときに意見を異にしながらも、警察庁へ返り咲ける機会を蹴って特命係を選んだことが、全てを物語っていた。そして大河内が他の幹部のように杉下右京に反感を持っていないことも知っている。
そういった彼なりの理解があっての返事だった。
しかし杉下右京は、本来の意味を受けとるだろう。
大河内が神戸自身を通じて伝えた「神戸をよろしく頼む」という言葉を。彼ならば、その先にある大河内の感情をも見抜くかもしれない。
そのほうがいいのではとさえ思う。二度と同じ過ちは犯すまいと決意した大河内の心を、今はただ一人知っている男だ。
「あ、大河内さん」
「なんだ……」
神戸が足早に近寄ってきたかと思うと、一気に間合いを詰められる。
思わず息を止めた大河内に神戸は手を伸ばし、その胸元を軽く払って、胸ポケットのスカーフを軽く引っぱった。
「スーツに糸くずが……それと、スカーフの形が気になったもので」
身を引いてわざわざ確認までして、満足げにうなずいているのが腹立たしい。
「……細かい男だな」
「ええ、ぼくの悪いクセ。……それじゃあ、お疲れさまです」
上司の真似をして指を立て、一人でくすくすと笑いながら更衣室を出ていく。これから急な事件さえなければ、定時までぼんやりと暇な時間を過ごすのだろう。優秀な頭脳が二つ、世間話のためだけに使われるのだ。
「……………」
なにも言い返せずにその後ろ姿を見送ってから、大河内はそっとスカーフに触れる。
胸を刺すその甘美な痛みの正体は、考えなくてもわかっていた。
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