戦兎/石動
【early afternoon】
美空を浄化装置に押し込み……もといボトルを託して、店に出てくる。
あいかわらず客の来ない喫茶店で、マスターが自分たちの昼食の皿を洗っていた。
地下から出てきた戦兎に一瞥と笑みを向け、彼は鼻歌のリズムに合わせて皿の水を切る。その鼻歌に合わせて自分もふんふん言いながら、戦兎はふらふらとカウンターの中を歩き、彼の後ろを通り過ぎようとして……そのまま広い背中にもたれかかった。
「なんだよ」
そんなことをしても今さら石動は驚かない。戦兎は中断した鼻歌を継いで歌いながら、彼の腰に腕を回し、シャツの背中に頬を押しつけた。
季節柄、あまり生地の厚くないシャツ越しに、均整のとれた筋肉を感じることができる。大して運動もしていなさそうな中年の体型としては異常値といっていい。以前「なんかスポーツやってた?」と訊いたが、「若いころはいろいろな」と雑な返事をされて追求する気がなくなった。
「……くすぐったいんだけど」
ため息まじりのクレームも、背中に頭を押し当てている戦兎には声というより音、振動として感じられる。つまり発言内容には意味がない。筋肉の形を確かめるために脇腹から肩甲骨に向かって撫で上げた。
「おいっ」
半笑いなのはくすぐったかったからか。そんなことを考えながら、腕の下を通って胸のほうへ手を這わせる。思わずため息が洩れた。
手のひらを押し返してくる弾力がたまらない。これ以上筋肉がついていたら固すぎて抱き心地が悪いだろうし、年相応の脂肪がついていたらたぶん気色悪いだけだ。自分の細すぎる体に対するコンプレックスも相まって、やつあたり同然にシャツの上からまさぐる。
「あー……」
なにか感想を口にしようと思ったが、感覚に意識がいって言葉にならなかった。代わりに、肩甲骨の上へ頬をすり寄せる。手は、締まった腹のほうへ。背中を横切るエプロンの紐を鬱陶しく感じながら。
「ちょっと、戦兎くん? お皿洗い終わりましたよ?」
少しだけ前傾だった上体がまっすぐ起き上がる。それでも戦兎は離れなかった。離れる理由がなかった。
「……エプロンじゃま」
「他に言うことあるだろ」
今のところはとくにない。エプロンの内側に手を突っ込んで、さらにシャツの裾をまくり上げる。
「待て待て戦兎……」
やっと素肌に手が触れたところで、手首を掴まれた。
肩越しに「なに?」という問いかけを込めて彼の顔を横から覗き込むと、後ろへ首を逸らした石動が苦笑しながら目を合わせてきた。
「あのね、ここ店の中だし。まだ営業中だから」
「客なんか来ねえじゃん」
絶対的な事実を突きつけてやると、店主はぐっと詰まった。それでも戦兎の腕は掴んだままだ。
「ねえ、マスター」
自分でも笑い出したくなるくらいに甘ったるい口調で、広い肩に頬をすりつけながら乞うてみる。なにをしたいと言わずとも、彼にはもう伝わっているはずだ。
今度は迷惑そうな表情と再び目が合い、それからひたいを指先で弾かれる。
「いって!」
「嘘つけ」
石動は肩をすくめて笑い、戦兎の無遠慮な手に自分の手を重ねた。
「おまえがくっついてくるから、俺まで妙な気分になっちまうだろうが」
それはつまり、承諾の意味にとっていいということだ。戦兎はうれしくなって後ろから彼を抱きしめる。
「わー、エロオヤジー」
「昼間っからサカってるおまえが言うな」
なにを言われようとも、戦兎はすでにエプロンからシャツの裾を引っぱり出し、ボトムのベルトにも手をかけていた。
「待てって」
自分でエプロンを外し、不自由そうにもがいて戦兎のほうへ向きなおってくれる。今度は遠慮なく正面から抱きついて、相手の顔を見上げた。
優しい唇がくれる口づけに酔いながら、外しかけていたバックルにもう一度、手探りで挑む。中に手を入れ、まずは下着越しにかたちを確かめていく。
「ん……」
慣れた舌先で戦兎を翻弄していた石動が、大きく息をついた。それでもまだ余裕は消えない。こっちはもうかなりその気になっているのに、相手には気配も見えないのが悔しい。
下着を引き下ろし、今度は直に握り込んでやる。
「く……っ」
降参を訴えるかのように石動が口を離した。だが戦兎は彼の頭を抱きかかえ、なおも口づけを要求する。
目を閉じて、彼の熱い息を感じ、唾液が混じる水音を聞きながら、手の中で少しずつ熱くなっていくそれを弄ぶ。 ここがどこだとか今何時だとか、そんな些事がどんどん頭から抜けていく。
「んぅっ……」
腰に彼の手が回るのを感じた。長い裾をもどかしげにたくし上げ、さっきの戦兎よりは手早くジーンズの前を開けて、すでに熱を帯びている戦兎自身には触れずに外気へ解放する。それを待っていた戦兎は、自分の手の中にある雄へ擦り上げるように腰を押しつけた。
「ぅあっ」
「はっ……」
二人は同時に息をのんだ。離れた唇から唾液の糸が引いて落ちたが、かまってはいられない。
「ぁっ、あ……」
喘ぎながら腰を揺らすのは戦兎のほうで、石動はこらえるように戦兎の肩を抱きしめている。それでも、押し返してくる硬さは戦兎が求めていたものだ。いくら大人でもこの生理だけはどうしようもない、と意味のない優越感に浸る。
逃げられないように手は離さないまま、多少乱暴に揺すり上げた。ただ重ね合わせているだけなのに、動きは彼の奥を犯しているときと変わらなくて、その感覚に昂奮していっそう激しく彼を責め立てる。
「っ……」
声は抑えているが、頭のすぐ横で押し殺した呻きと荒い呼吸を感じられる……のがよくなかった。もどかしさに煽られて、戦兎は勝手に自分を追いつめていく。
「ぅ……」
限界が近い。自分の肩に乗っている頭を引き剥がし、半開きの唇に噛みついた。このタイミングだから相手も即応じてくれるわけではなく、こちらが一方的に口をふさいで彼の舌を追う、ひどく稚拙な接吻だった。
「……っ!」
互いの声を飲み込んで、極まった欲望を勢いよく迸らせる。こんな他愛のない、としか言いようのない接触でも、眩暈を起こしそうな絶頂だった。
「……………」
二人は肩で息をしながら、ゆっくりと離れる。それでも戦兎は未練がましく彼のシャツを掴んでいたが、石動のやたら情けない言葉と口調で我に返った。
「なんてことしてくれてんの……」
戦兎が自分の手で二人ぶんの体液を受け止めたあと、彼の衣服になすりつけたことを詰っているらしい。ほとんど無意識の動作だった、と心の中で言い訳しながら、なおも相手のシャツの裾で手を拭う。
「もうちょっと……手軽に済ませられるだろうに」
「……自分だけスマートになんてさせねえよ」
こっちは身も心も加減できないのだから、相手だけ涼しい顔などフェアではない。
さっさと自分の着衣を直した戦兎は、さっきの鼻歌を鳴らない口笛で吹こうとしながらカウンターの外へ向かう。
しかし大きな手にがっしりと肩を掴まれてしまった。
「着替えてくるから、ちょっと店番してろ」
「えー……」
「だれのせいだと思ってんだ」
そう言われるとさすがに返す言葉がない。
カウンター前のスツールに腰かけ、だれもいない店内をぐるりと見わたす。店番と言ったって、とくにすることなどない。
「客なんか、来ねえじゃん……」
正面に視線を戻せば、淹れてしばらく経ったコーヒーが置いてある。もう湯気も立っていない。
冷たくなったカップを手にとり、黒い液体を喉へ流し込む。
淹れたてでもまともな味がしないコーヒーは、冷めた後も壊滅的に不味かった。
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