戦兎/石動
【ギブアンドテイク】
帰宅してまず地下室を覗くと、愛娘がベッドで熟睡していた。
ごく稀に、戦兎が先に寝ているところへ睡魔に負けた美空がもぐり込んでいて、男親としては心臓に悪い場面に遭遇することもあるのだが、今回は美空がベッドを勝ち取ったらしい。そんなときの戦兎は椅子や床で眠りこけていることも少なくないけれど、今はどこにも見当たらなかった。
ということは、と考えながら自分の寝室へ向かう。
地下にあるよりは大きいベッドに、布団もかけず倒れ込んだままの態勢で動かない青年がいた。
「人のベッドをなんだと……」
埒もないことを口の中で呟いて、傍らの椅子に腰を下ろす。
横から覗き込んでみたが、うつ伏せの戦兎はわずかにも動かない。
「寝てりゃあ、かわいいのに」
長い睫毛に、今は閉じられていて見えない大きな瞳。通った鼻筋、薄い身体。
一度目を開ければ、手に負えない少年よろしく好奇心の向く先を追求しはじめ、口を開けばかわいげのない軽口と無遠慮な要求。器用に機械をいじる一方で、とっさの事態に隙なく身がまえる警戒心も忘れない。
たった一年で、ここまで育つとは……いや、まだここまでしか育っていないというべきか。
妙な感慨を抱えて、石動は青年の寝顔を見つめた。
初めてこの部屋に連れてきたとき、濡れそぼった青年は寒さと不安で震えていた。
着ていた服を含んだ水分ごと引き剥がし、着古したシャツを与えたのが最初だったなと思い返す。あの日以来、生きるための多くを彼に与えてきた。
痩身に石動の服は大きすぎたようだが、それでも冷え切った体にはありがたかったらしい。長すぎる袖をまくりもせず、襟元に顔をうずめてうずくまる姿は、儚すぎて現実に存在しているか不安になるほどだった。
「待ってろ、あとであったかい飲み物でも持ってきてやるから」
彼を助けた際に不可抗力で濡れてしまったジャケットやらシャツやらを脱ぎ捨て、自分も乾いた服に着替えようとする。ところが、不意に腕をつかまれ阻まれた。
「なんだよ……」
青年は口を開いたがなにも言わず、ただ眉を寄せてこちらを見上げただけだった。
声が出ないわけではない、言葉がわからないわけではない。だが言いたいことが見つからないのか、困った顔で唇だけを動かしている。
縋りつく表情に、悪寒とも衝動ともつかない感覚に襲われた。
思わず、自分の熱を分けるように彼の肩をかき抱いていた。まだ乾ききっていない髪は冷たくて、白い肌もまだ温度を取り戻していない。
見下ろした表情がなぜか蠱惑的に見えてしまい、そう感じている自分に戸惑いながらも、震える唇をそっとなぞる。そしてすぐに後悔した。
「きみが女の子だったら、俺も役得だったんだけどね」
冗談で済ませようと明るく言ってみたが、彼は笑うどころか指に口づけ、軽く歯を立てさえした。大きな目で、上目遣いにじっとこちらを見つめたまま。
腕に食い込む指の力が妙に強いことに、その時点で気づくべきだった。だがそれよりも、こちらを見上げる濡れた目に気をとられていた。
「そりゃあ、がんばれなくもないけどさ……」
女性的というには精悍すぎる気もするが、線の細さが愛らしく見えないこともない……かもしれない。自分を騙すにはちょうどいいと思おうか。
下心ならはじめからある。親切心だけでこの青年を拾ってきたわけではない。利用価値があると判断したからで、男としての罪状がもうひとつ増えるくらいなんだというのか。
そう考えた石動が彼を自分の胸に抱きなおした瞬間、眩暈を起こしたかと錯覚するくらい体が大きく揺れた。
「あれ……」
気づけば横にあった自分のベッドに転がされていて、あいかわらずの縋る目がこちらを見つめている。だがその細い腕は、自分よりも頑丈そうな肩をベッドに押さえつけていて、逃れようとしてもびくともしない。
有無を言わさぬ力、熱を帯びた瞳。媚びる雌の気配など微塵もない。若さで片づけるにはあまりにぎらついた、雄の顔が見下ろしている。
「そういうことか……」
とんだ勘違いをしてしまったものだ。なんだかおかしくなって、そんな状況ではないのについ笑ってしまった。
その笑顔を承諾ととったのか、青年の口元にも安堵したような微笑が浮かぶ。なにもかもがちぐはぐで、笑いつづけるしかなかった。
「ん……」
戦兎がもぞりと動いたので起きたかと思ったが、寝返りを打っただけらしい。悩みのなさそうな寝顔が石動を脱力させる。
「おまえなあ……」
平穏をしみじみと噛みしめてしまうのはこんなときだ。
はじめのころは記憶が混乱したり断片的な記憶に追いつめられたり、そばにいるほうも穏やかではいられなかった。警戒心の強い美空はしばらく戦兎自体を敬遠していたこともある。今では考えられないが。
彼が最も青ざめたのは、一夜を共にした男に娘がいると知ったときだ。
「最低だ俺……」
気の毒なほどにうろたえて、動揺のままに隠れ家を出ていこうとさえした。もちろん彼を手放すわけにはいかない。この男は切り札だ。他のだれにも渡せない。石動は名前もない青年を必死に引き止めた。
「最低っていうなら俺だ。おまえはなにも悪くない」
「でも、あいつ母親がいるんだろ!? それってあんたの……」
記憶はなくてもそんなことには気が回るらしく、怒鳴り散らしては石動から逃れようとする。軽率だったことは認めるが、完全な悪手だとは思っていない。だからこそ自分が彼を苦しめてはいけない。
「待てよおまえ……ああもう、名前がないと不便だな」
「名前とか今どうでもいいじゃねえか!」
気が立っている改造体ほど手のかかるものはない。錯乱する彼を抱きしめて、動きを封じるしかなかった。
「ああどうでもいいさ、あとで適当なのつけてやる。おまえが誰でも、俺はおまえにいてほしいんだ!」
「……!」
今度は彼が勘違いをする番で、そしておそらくその誤解が解けることはない。
縋りついてくる青年を抱き返しながら、何度も言い聞かせる。
俺にはおまえが必要だ。おまえのためなら、なんでもしてやると。
今、彼が震える姿などほとんど見ない。
気の向くままになにやら難解な計算を始めたかと思うと、不思議な機械を組み上げてしまう。そのあいだは話しかけても返事すらしない。
普段の態度は大きくなるばかりで、完全にここを自分の実家だと思っている節がある。美空とは歳の近い兄妹といった様子で、石動に対しても実の親のように遠慮がない。自立していない息子とはこういう雰囲気なのかと所帯じみたことを考えながら、一方で彼を息子あつかいできない現状がある。
恋愛感情でないことはたしかなのだが、かといって家族愛ともちがう。むりにカテゴライズしようとしても、落ちつく場所は見つからない。
それに、戦兎のほうがどう考えているかもわからない。改めてそんな話をすることもないし、聞いたところで納得のいく回答である保証もなかった。
だから、ただ彼が求めるままに関係をつづける。それはもちろん石動自身が求めていることでもあるのだけれど。
あのころとちがって、今の彼は自分の頭脳だけではなく外見にもそこそこの自信を持っているようで、計算高いあざとさを見せたりもする。こっちもそんなのには今さら引っかからない。
厄介なのは、彼が無自覚な「素顔」を見せるときだ。
「これ見て、ベルトを改造したんだ! ボトルを差し込むと……」
子供そのものの表情で、自分の発明を披露する姿は単純に微笑ましい。一方で石動を信じきって、頼りきっているさまは危うくさえある。
あまりの無防備さに危惧を覚えながら、揺れる心を押さえつけて彼の目線を「正しいほうへ」誘導していく。
無私。自己犠牲。そんな言葉は使わなかったけれど、その能力は自分自身のために使うものではないとわからせたかった。
「スマッシュの目撃情報だ」
「わかった!」
脇目も振らず、一片の迷いもなく、戦兎は飛び出していく。そこには疑問を差し挟む余地などない。戦兎にとって「ビルド」とはそういう存在だから。
「ただいまぁ」
彼がいちばんうれしそうなのは、人助けをしたときだ。時に気味悪がられ、悲鳴を上げて逃げられ、通報されそうになっても、だれかが助かったのならと笑顔で帰ってくる。なんの計算も打算もなく、ただ自分自身への報酬のようにくしゃっと相好を崩す、その顔を見るのが好きだ。
だがそれを口にしたことはない。どんな些細なことでも、見返りのために正義を行使するきっかけになりかねないから。その点で石動は戦兎を完全に信頼はしていない。
石動の望む「ビルド」を完成させるためには、まだ時間が必要だった。
仰向けに転がった顔を見下ろし、小さくため息をつく。
「俺は……おまえに求めすぎてるのかね」
ひたいにかかっている細い髪をかき上げた。
「……マスター?」
うっすらと目を開けて相手を確認した戦兎は、当然のように腕を伸ばして石動の頭を抱き寄せようとする。
角度も完璧だった帽子は無情にもベッドの向こうに放り投げられ、かるく引っかかれながら奪われたサングラスはなんの気遣いもなく握り込まれて、つるが歪まなければいいがと頭の片隅で思った。
「遅ぇよ……」
不機嫌そうに呻いた言葉の意味は、つまりここで帰りを待っていて眠ってしまったということなのだろう。それならもうちょっと言いようもやりようもあると思うのだが、説教しても仕方がない。このふるまいを許してしまったのは自分だ。
あきらめて彼の抱擁に身をまかせる。
「……ま、お互いさまってことだな」
「なにが……」
今はまだこれでいい。「桐生戦兎」ができてからもうすぐ一年経つ。そろそろ次の段階に入るべき時期だとは思うが、少なくとも今夜くらいはいつもどおり、好きにさせてやろう。
乗りかかってくる体重を心地よく感じながら、頬に口づける。
「待っててくれて、ありがとな」
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