伯爵/ベルッチオ

2004_巌窟王,[!],[R18]

巌窟王:伯爵/ベルッチオ

※原典「モンテ・クリスト伯」ネタあり注意

 ひざまずく獅子



 † † † † †
 
 
「あなたが必要なのです」
 見るからに怪しいその男は、笑顔でそう言った。
 
 突然単身で乗り込んできた度胸だけでも大したものだが、無数の銃口を突きつけられても、微動だにしない。
 狂っているのか、世間知らずなのか。あるいは、人知れぬ力を秘めているのか。
 見えるはずもない濃いサングラスの奥をじっと見つめ、男はなおもつづける。
「どうか……あなたの命、私にあずけていただけませんか。ベルッチオさま」
 初対面の、名も知らぬ男から告げられる言葉ではない。
 男の目に狂気が浮かぶ。やはり、と部下たちが銃をかまえなおす。
 だが、ただの狂人には見えなかった。その目には、深い闇と絶望が満ちていたのだ。狂気に見えるのは怒り。そう、怒りは狂気だ。
「あなたは……私と心を共にする同志……ちがいますか?」
 男は一瞬だけ見せた激情を収め、再び麗しい笑みを浮かべた。
 ベルッチオは激しい興味と、それ以上に激しい共感を覚える。
 共感、といっていいのか。心臓をつかまれむりやり彼のほうに引きずり寄せられるような、有無を言わせぬ同調だった。
 警戒心をむき出しにした部下たちを下がらせ、ベルッチオは男と一対一で向かい合う。
「兄貴が好きだったワインなんだ」
 ワイングラスを二つ。
「……命日をともに祈ってくれないか?」
 彼はゆっくりと微笑んだ。
「……ええ」
 この男も、大切な者を失ったことがあるのだ、と感じた。
 だが、それ以上のなにかが、恐れすら感じるほどの同調を生み出している。しかもその同調が、なぜか心地よい。自分の欠けていた部分にピースがはまるような感覚に浸りながら、初対面の男とワインを酌み交わした。
 これほど怪しい男と過ごしているのに、驚くほど穏やかな時間だった。
 
「伯爵」
 貴族を爵位で呼んでやるのは本意ではなかった。だが、この男に対しては自然にその呼びかけができた。いや、他に呼びようがなかったのだ。「モンテ・クリスト伯爵」という空虚なラベル以外に、彼のファーストネームさえ知らないのだから。
「あんた、俺の命を自分にあずけろと言ったな。それで、俺はどんな得をする? あんたに利用されて始末されないって保証は、どこにあるんだ?」
 感情の部分では、この得体の知れない男に強く惹かれているのだが、ファミリーのトップとしての冷静な頭は、こんなばかげた要求をあっさり受け入れるわけにはいかないと理解していた。
 ワイングラスを置き、彼は悠然と顔を上げる。
「なるほど……あなたには『コルシカの獅子』という名と力があるが、私にはなにもない。どれほどあなたとお近づきになりたくとも、信用するに足るカードをなにもお見せできないというわけです」
「当然だな」
 どう見ても発展性のないこの状況から、男がどんなカードを出してくるのか、楽しみですらあった。それしだいによっては、ファミリーを挙げて協力してもいい。
「あなたから信用を得るためには……もっとよく私のことを知っていただく必要がありますね」
 外宇宙から持ち帰った、未知の資源や能力でも見せるつもりか。大金で目をくらませるつもりか。
 だが、男は自らについてなにも語らなかった。
「ではまず、お友だちからはじめるとしましょうか」
「なに……」
 いかにも虚飾的な貴族が言いそうなことだ。場違いという他ない発言だった。愚弄するなと鉛玉のひとつでも打ち込んでやるのはたやすかった。
 だが、実際には笑い出していた。
 芝居がかった貴族風の所作が、ほんとうの芝居に見えたのだ。男は、その芝居を楽しんでいる。貴族のようにふるまいながら、そのふるまいを滑稽に感じ、そう演じている。
 やはりこの男は、貴族などではない。この自分に近い存在だと感じたのは、まちがいではない。
「ああ、いいぜ。お友だちから、な」
 微笑とともに差し出された手を軽い気持ちで握る。
 その信じられない冷たさに、恐れ知らずの獅子は心臓を鷲づかみにされたような錯覚に陥った。


† † † † †
 
 
「よしましょうや、兄貴!」
「てめえから罠にかかりに行くようなもんだ、正気の沙汰じゃねえ」
「どうも信用ならねえんですよあの男は!」
「どうしても行くってんならせめて、腕の立つやつを何人か連れていって……」
 騒ぐ部下たちを一喝して、最後は半ばなだめすかすようなかたちで単身飛び出し、ベルッチオは港まで車を走らせた。
 行き先は、モンテ・クリスト伯爵の船。スパダ号という名の外洋クルーザーは、港に入ってきた瞬間から話題になっていた。なんでも東方宇宙の資源を山ほど積んでいるとか……
 たしかに巨大で高性能の船には見えるが、それでも船は船だ。町の中心部には高級ホテルがよりどりみどりだというのに、宿泊用の港に停泊したまま、主も船員も船の中で過ごしているという。
「ホテルはどうしても他人の家のような気がしてくつろげないのです」
 と、部屋着に身を包んだ彼は言った。
 客を迎えるにはあまりにもくつろぎすぎている、その異国風のガウンは、しかしだらしない印象を与えなかった。そういう民族衣装なのだと言われれば素直に信じるだろう。
「田舎の船乗りには、きらびやかな洋服や部屋など目を刺すだけ。わたしにはこの船さえあればよいのです。自分の船さえあれば、いつでもどこへでも、だれの目も気にすることなく、自由に好きなところへ行けますから」
 大仰に両手を広げ、自由のすばらしさを語った彼は、その言葉とは裏腹に、いかにも高価な調度品に囲まれていた。この船も自由にあちこちの港を出入りできる大きさではない。とんだ茶番だ。
 多少うんざりした気分になりながら、ため息とともに東洋風のソファにどすんと腰を下ろす。
「伯爵。いつまでそうやって気どっているつもりだ?」
 ファミリー総出の制止をふりきってまで彼の招待に応じたのは、彼がどういう人間なのかをもっと知りたかったからだった。本気で彼と手を組むなどとはまだ考えていないが、状況によっては力を貸してやらないこともない。
 それを見極めるには、彼の言うとおり「お友だちから」はじめてみるのもひとつの手だと思ったのだ。
 だが、慇懃な態度というカーテンを下ろされたままでは、真意を探ることなどできそうにもない。
「俺はまわりくどいのが大っきらいなんだ。腹を割って話そうじゃねえか」
「あなたには気どることもない、か……」
 彼は薄く笑って、ソファの背にゆったりと身をあずけた。
「ベルッチオさま……いえ、ベルッチオとお呼びしても?」
 沈黙を肯定の代わりにし、逆に聞き返す。
「あんたの名前は?」
 ファーストネームを聞けば、少なくともどこの者かはわかるだろう。だがそんな期待は、すぐに砕かれた。
「……私に、名はないのです」
 彼は目を伏せ、低い声で呟いた。
「私の名は、モンテ・クリスト伯爵。それ以外の名は、遠い昔に剥ぎ取られました。モンテ・クリスト伯爵以外の私は、もう生きてはおりません。ベルッチオ、あなたに親しみをこめて呼んでもらえる名がないのは残念というほかありませんが……」
 あからさまな偽名でありながら、それ以外の名を持たないという。野次馬根性はあまり持ち合わせていないが、深い事情がありそうだというのはばかでもわかる。それを知ることこそが、彼と親しくなるということなのだろう。
「それじゃあ、伯爵、でいいのか?」
「どうせ金で買った爵位です。私の呼び名としてはふさわしい」
 この話題はここまで、というように、彼は卓上の鈴を鳴らした。
 音もなく現れたのは、彼とは別種の異星人。少なくとも、ベルッチオが今まで見たことがない種族のようだ。その異星人は地球離れした独特な外見とは裏腹に、完璧な所作で手際よくテーブルのセッティングをしていく。
 無遠慮に眺めていると、伯爵が声に笑みを交えて説明をくれた。
「それはアリ。東方宇宙から連れてきた奴隷です。我々のように言葉を使用した意思疎通はできませんが、こちらの言葉はわかりますよ。我が家で不便がありましたら、どうぞアリにお申しつけください」
「他に……使用人は? 執事とか、門番とか。貴族さまにはたくさんの家来が必要なんだろ?」
 アリが目の前でグラスに注いでくれたワインを飲みながら、率直な疑問を口にする。彼は微笑んで首を振った。
「帰る家もないのに、門番や執事が必要でしょうか? 私は船乗りなのです。船乗りはたった一人で宇宙に出ることもある。自分のことは自分ですべてできなければなりません。本来ならば、アリも必要ないくらいなのです。ただ、私は少し病を患っておりまして……多少の不便を感じるときもございます。そんな万一の場合に備えて、アリを置いているのですよ」
 たまたまそういう時間だったのか、見せるためなのか、彼は懐から美麗なケースを出すと、そこから小さなカプセルをつまみ出す。それが薬なのだろう、口に含んでワインで飲み下している。
「しかし、使用人の便利さに慣れてしまうと一人で生きていくのが難しくなります。華やかな都会へ行くときには、もう一人くらいは増やしてもよいかとは思っているのですが……」
 アリが下がると、彼はフルーツの盛り合わせから、葡萄を一房手にした。
 そして、一粒つまんで口に放り込んだ。だがそれほど美味くはないらしく、先ほどの薬のように飲み込んでいる。それからもう一粒取り、今度はこちらの口元に突きつけてきた。
「どうぞ」
 安い娼婦のような行動に驚き、それからわずかに不快な気分になった。なぜこの男は、こんなことをするのか。
「よせ」
 その指先から葡萄を奪い取り、無造作に口に放り込む。みずみずしい果汁と香りが口の中に広がり、これほどの葡萄を食べたことなどないのではないかと思える。美味、という言葉では足りないほどだ。なぜ彼は……
「ベルッチオ」
 今度は房ごと差し出してくるので、素直に受け取った。
「美味しいですか?」
「ああ。あんたは、美味くないのか?」
「このテーブルには、私の舌に訴えかける食べ物などないのです」
 つまり、どれも美味くないということだ。先ほど言った病気と関係があるのだろうか。単に口に合わないというだけの意味かもしれない。
「そうか。……じゃあ今度、ベルッチオ家特製のブイヤベースを食わせてやるぜ。マルセイユ生まれの親父直伝だ、不味いとは言わせねえ」
 彼の表情が、わずかに変わった気がした。どの単語に反応したのかわからないが、なにかが彼のポーカーフェイスを一瞬でも崩したのだ。
「それは……いつか、ぜひ」
 このことは心に留めておこうと思いながら、他の料理にも手を伸ばす。どれも最高級の味だった。これらがすべて味わえないとは、哀れにすら思えてくる。
 食事が済み、用意と同じ手際のよさでテーブルを片づけ終わったアリが、奇妙な煙草道具を持ってきた。
「水煙草はご存じですか?」
「やったことはない」
「では、ぜひどうぞ」
 彼は、自分の吸っていた煙管を差し出してくる。自分も使っていたから安全だ、と言いたいのだろうが、体質や習慣性の差もある。いつものベルッチオなら、たやすく受け取りはしない。
「……いただこう」
 それは煙草というより、ある種の麻薬に近かった。煙草になにかを混ぜているようだ。この手の薬は初めてではないが、今まで味わったどれともちがう味がし、どれよりも強いような気がした。アルコール度数の高い酒よりもすばやくまわった酩酊感が、全身を支配していく。火照った手に彼の冷たい指が触れたときも、驚きも目ざめもしなかった。
 これが伯爵の罠ならば、自分はもう終わりだろう。そう思いながら、心地よい闇へと堕ちつづける。そこから先は、夢への入り口だ。
 
 夢の中で、彼が笑っていた。いつもの微笑ではない。なにかに憑かれたような哄笑が、室内に響きわたっていた。
 口が耳まで裂けて、歯は吸血鬼の牙のようだ。目つきが鋭くなったかと思えば、その目が何重にも見えるほどに、ひたいが妖しく光る。その紋章をどこかで見たことがあったような気もしたが……
 思い当たる前に、意識が白くなった。


† † † † †
 
 
 ベルッチオは慎重な男だった。もちろん若いころにはそれなりの無鉄砲さもあったが、危険と隣り合わせの生活は否が応でも注意深く生きることを強いてくる。
 伯爵がこの家へ足を踏み入れた瞬間も、その表情を観察することは忘れなかった。
「……なんと、すばらしい。美しい家だ」
 あまりのみすぼらしさに言葉を選んでいるのかと思ったが、その表情を見るかぎり、感嘆は本物のようだった。
 その住居を見て、マフィアの頭が住んでいるとはだれも信じないだろう。壁には弾丸の痕もなく、花の鉢植えさえあれば、無害な老夫婦が居を構えていると言われても納得してしまうような、小ぢんまりとした一軒家だった。
 事実、この家にはほとんど客がなかった。裏切りなど縁遠い旧くからの知り合い、あるいは怯えて毛を逆立てている若者、そんな個人的な客が時折訪れる程度で、娼婦を呼んだこともない。
 その隠れ家へ、ベルッチオはあえてこの不審な男を招いた。
「好きなところに座りな」
 客間などないこの家で、人を招き入れるのはキッチンだ。
 椅子を引いて腰を下ろす彼の所作から、一瞬ではあるが気どった仕草が消えたのを見て取る。色のちがう両目に純朴な輝きが宿ったように見えたのは、さすがに気のせいだろうか。
 だが背を伸ばしてこちらを向いたときには、彼は賓客の貫禄をとりもどしていた。
「ずいぶんと手入れが行き届いているようだが……使用人をお使いか? それともご家族が?」
 いかにも金持ちらしい問いだと苦笑し、火にかけた鍋を覗き込みながら答えてやる。
「昔は、姉貴と暮らしてたんだがな。ずいぶん前に死んじまって今は俺一人だ。気楽でいいぜ。あんたと同じように、掃除も洗濯も全部自分でやらなきゃならねえがな」
「それはそれは」
 キッチンにはすでに煮込んだ魚の美味しそうな香りが充満し、漁師町の食堂のようだ。野良犬の目をしたチンピラ程度なら、すでに陥落している頃合いだろう。
「伯爵」
 ナイフを握ってふり向いたが、彼はおののく様子もない。当然だ、ここは厨房なのだから。
「俺はまだ、あんたの力と誠意を疑ってる。得体の知れない異星人のために、うちの若いの一人だって動かしてやる気にもならん」
「ほほう……」
 バゲットを切りながら彼の表情を窺う。実質的に協力を断られたというのに気分を害した様子もなく、ただ得体の知れない微笑みを浮かべてじっとこちらを見ているだけだ。
「だが、あんたが歩み寄ろうってんなら考えなくもない。そう思ってここへ呼んだってわけだ。あんたの目的は……」
 手袋を脱いだ手がひらりと優雅に舞い、制止のかたちを取る。
「今はよそう。こんな美しい家で復讐の相談など似合わない」
「……まあ、いいさ。これも『お友だち』になるステップだと思えばな」
 肩をすくめて、次のカードを出すことにする。
 自ら語らないのならば、暴くしかない。手の者にいくらか探らせてはいるが、はかばかしい成果は得られていなかった。
 そこで、賭けることにしたのだ。マルセイユ仕立てのブイヤベース。彼が唯一反応した、ひどく不釣り合いな単語。ベルッチオ自身が味わったあの高級料理にも興味を示さない男が、お義理でもこんな田舎料理など口にするはずがない。ふつうならば。
「そら、できたぜ」
 皿を並べ、それからワインを開ける。
「我々の友情に」
 テーブルに寄りかかったままでグラスを軽く打ち合わせ、ベルッチオは料理を勧めた。
「伯爵さまのお口に合うかどうかはわからねえが、これを不味いと言ったやつはこの世にはいねえんだよ」
「ほう」
 大仰に彼の片眉が上がる。
「不味いと言ったが最後、地中海に沈められちまうからな」
 二人は顔を見合わせ、にやっと笑い合った。
「それはおそろしい話だ」
 それから、伯爵はスープを一口飲んだ。
「これは……」
 彼は口の中で小さく呟き、焦がしたバゲットを取るとルイユを塗りつける。その仕草に粗野なところは少しもない。むしろ場違いなほどに優雅で、ベルッチオはひそかに不安を覚えていた。
 伯爵はなんの感想も言わず、表情も変えずに食べつづけ、皿の底に残ったスープの一滴までパンで拭き取って残さなかった。
 彼がフォークを置いてナプキンで口を拭うまで、ベルッチオは手にしたグラスに口をつけることも忘れていた。
「……ありがとう、ベルッチオ」
 彼は皿から目を上げずに呟く。
「まともな食事は、何年ぶりだろう」
 それは異常な言葉に聞こえたが、彼の懐にある薬や、彼の青い肌を思うと、誇張には思えなかった。そういえば、この家ではあのケースを一度も見ていない。
 奇妙な憐憫を抱えながら、バスケットの中のオレンジを手に取る。
「デザートは?」
「いただこう」
 オレンジの厚い皮をナイフで剥いていくうち、ふと先日のことを思い出して悪戯心がわいた。
「どうぞ、伯爵さま」
 オレンジを一切れ指でつまみ、彼の口元に差し出す。彼は驚いたようにちらりとこちらを見て、だがすました顔をして、オレンジに噛みつく。そして黙々と咀嚼する。
 果汁が唇を伝い、あごひげを濡らした。だが、彼は拭いもせずに目で催促してくる。雛に餌をやるようなその行為がおもしろくて、オレンジ丸ごとひとつぶんを手ずから彼の口に運んだ。
 もう皿になにも載っていないのを見た伯爵は、名残惜しそうにベルッチオの指を舐める。ほんとうに子どものようで、ベルッチオは苦笑した。
「あんたって人は、ほんとに変な伯爵さまだぜ」
 いつのまにか背を伸ばし、ナプキンで貴族然と口元を拭っていた彼は、ちらりと相手を見上げて答えた。
「自分も変だとは思わないのか?」
 たしかに、変かもしれない。よく知りもしない相手に手料理をふるまい、それどころか手ずから口に運んで食べさせるとは。だが……
「あんたほどじゃない」
 ホテルよりも住み心地のよい船を持ちながら小さな家を懐かしがるように眺め、田舎の家庭料理を豪華な高級料理よりも美味そうに平らげる。異星人の神秘的な雰囲気の下から、純朴な船乗りのような顔を覗かせる。
 不審さは増しているのに、彼への興味と同調はより強くなっていた。
「ファミリーはまだわからんが、俺だけならいいぜ。オレンジを切って食わせてやるくらいならな」
 言いながら、自分の指を舐める。オレンジとはこんなに甘かっただろうか、と思った。


† † † † †
 
 
 人気のない田舎道を、馬車は猛然と駆ける。ベルッチオは小さくため息をついて、正面に座っている青い肌の男を盗み見た。
 馬車は、貴族階級の象徴だ。わざわざ時間のかかる乗り物で不自由を楽しむ、その気が知れない。だからそれに乗れと言われたときには、眉をひそめずにはいられなかった。しかもその理由がまた豪勢だったのだ。
「家を買うだと? こんな田舎に住むつもりか」
「いや。来たるべき日のために別荘を押さえておこうと思ってな。使うのは何年も先になるだろう」
「いつ住むかわからねえ家を買うとは、金が有り余って使い道に困ってるとしか思えねえな。で、どこへ向かってるんだ?」
 呆れるような話だが、行き先を聞かずに乗り込んだ自分も相当間が抜けている。普段ならそんなことは決してしない。なぜか忘れたのだ。
 そして、訊いておけばよかったと激しく後悔することになる。
「オートイユだ」
 こともなげに告げられたその地名に、一瞬息が止まった。
「……!」
 動揺は気取られてはいないだろうか。サングラスを押し上げるふりをして彼を窺うが、その顔は窓の外へと向けられている。
「……そうか」
 ゆっくりと息を吐き出しながら、心の中で十字を切った。
 オートイユの別荘。
 いや、そんなものはいくらでもある。あの家とは限らない。
 だがベルッチオの祈りにも似た予想を裏切り、馬車はその屋敷の前に止まった。
「どうしたベルッチオ。馬車の降り方がわからないわけではあるまい?」
「……うるせえ」
 日暮れ近くで、あたりの風景はすでに黒々とした影絵になりつつある。その影絵の中でひときわ大きく、ひときわ闇の色を濃くしてそびえ立っているのが、その屋敷だった。
「ここを……買う気なのか?」
「実際に見てから決めるつもりだ」
 彼は手にした鍵で門を開け、さっさと中へ入っていく。御者のアリは馬車から動く様子はない。言葉の通じない相手と立ちつくしているよりはまだましだろう、という理由で、ベルッチオは伯爵を追った。
「管理はきちんとしているようだな。この庭も少し手を入れるだけで、見ちがえるようになるだろう」
 楽しそうな彼の背中に、努めて気のない返事をする。
「やめておけ。いかにも呪われた家だ」
 彼の足がぴたりと止まった。
「ほう……それは興味深い」
 だがそう呟いただけで、ふり向こうとはしない。まるで信じていない足どりで、まっすぐ芝生を横切っていく。その先を見て、ベルッチオは今度こそ足を止める。目の前には、大きな糸杉が弾丸のような黒いシルエットだけを見せて立ちはだかっていた。
「!!」
 凍りついたベルッチオをふり返り、伯爵はステッキでシルクハットの縁を押し上げた。
「どうした? コルシカの獅子ともあろう者が、幽霊屋敷に怯えるのか? 意外と信心深いのだな」
 露骨な嘲りを含んで投げかけられる言葉にも、逆上するだけの血の気はない。どう思われようとも、ここから立ち去ってしまいたかった。
「もういいだろう。早く帰ろうじゃないか。屋敷ならもっとパリに近くて、見栄えがするやつを買えばいい。なにもこんな……」
「呪われた家でなくとも?」
 まただ。またあの冷たい手が心臓をわしづかみにする。
「……知っているんだな?」
 確信にも満ちた問いを、しかし伯爵は首をかしげるだけで否定した。
「なにをだ? 私はこの家が気に入った。立地、屋敷、庭園……なにもかも私が求めていたとおりなのでね。だが、所詮は世情に疎い余所者だ。もし公証人が私に明かしていない不都合な事実をご存知なら、ぜひ教えていただきたい」
 伯爵の言葉遣いが冷たく慇懃になったのも、その瞳が暗く輝いたのも、ベルッチオは気づかなかった。ただ、それ以上近づけない糸杉を見上げて、芝生に根が生えたように立ちつくしていた。
 刈り込まれた庭木もなにもかも、あのころのままだ。
「あの夜も……新月だった」
 伯爵が足音も立てずに歩み寄ってくる。
「俺はそこの植え込みの陰にいた……あの男がここへ通ってるのを知って、この手で刺し殺してやるつもりだったんだ。だが屋敷に忍び込む前に、あいつのほうからここへ出てきた。なんのつもりかと見ていたら、あの糸杉の下を掘りはじめたんだ」
 遠目にも必死の形相で土を掘り返した男は、そこに箱のようなものを埋めようとしているらしかった。
 異常な光景に戦慄しながら、それでも襲いかかるタイミングをうかがっていたが、屋敷のほうから女の悲鳴が聞こえて身をすくめる。闇夜に響く苦痛と絶望に満ちた悲鳴は、無鉄砲な若者を凍りつかせるには充分すぎるほどだった。
 それを聞いた男はぎょっとした顔で屋敷のほうを見返り、スコップを放り出すとよろめきながら屋敷へともどっていった。彼を殺す機会は失われてしまったが、冷や汗ですべるこのナイフでは、どのみち復讐は遂げられなかっただろう。
「俺はなにがなんだかわからなくなったまま、やつが埋めた箱を掘り返した。今思うと、棺桶みたいな小箱だったぜ。鍵を壊して開けると、中には……生きた赤ん坊が入ってた」
「男とは、だれのことだ?」
 押し殺した問いが投げかけられ、我に返る。
 顔を上げると、赤と金の瞳が瞬きもせずこちらを見つめていた。
 彼がどんな力を使ったのかはわからない。長いあいだ胸の奥に沈めていた秘密を、すべて吐かされたことをベルッチオは悟った。
 しかしもう後戻りはできない。二人は今、この庭に立っているのだから。
「……検事の、ジェラール・ド・ヴィルフォールだ」
「それはそれは……非常に興味深い」
 猫が喉を鳴らすような声音でそう洩らした伯爵は、もう一歩こちらへと踏み出してくる。
「ところで、その子どもは?」
「さあな」
「捨てたのか」
「いいや……」
 思い出したくもなかったが、ベルッチオは不承不承赤ん坊のその後を語った。
「去年までは、俺の家にいた。だが悪魔みたいな子どもでな。マフィアでさえ青ざめるような悪戯を平然とやってのける。悪戯がれっきとした犯罪になるまで、時間はかからなかったさ。あげく、面倒を起こして飛び出していっちまった。そのあとは知らん」
「それなら事態は解決したわけだ。悪魔は立ち去り、おまえを煩わせることもなくなったのだろう?」
「……………」
 そうならば、どれだけよかっただろう。あの悪魔がいなくなって元の生活がもどる、そんな単純な話であれば、たかが糸杉にこれほどの拒否感は覚えない。
「ベルッチオ?」
「……あのガキは、俺の姉貴を殺した」
 それだけ言うのにひどく時間を要した。
 だが一度こじ開けられた記憶の扉は、そうかんたんには閉ざされない。こみ上げてきた悲しみと怒りにまかせ、目の前にいる男の胸ぐらを掴んでいた。
「……自分の育ての親をだぞ! 姉貴のちっぽけな財産目当てに……いや、はした金なんぞ口実だったのかもしれねえ。あいつは火遊びがしたかっただけなんだろう。姉貴に火をつけて……俺が駆けつけたときには、家ごと……っ」
「ベルッチオ」
 白い手袋がこちらの手に触れ、それからマントの中に抱き寄せられる。同情の言葉などなにひとつかけられなかったが、寄りかかれる相手がいるだけでもつかの間の安堵は得られた。
 縮れた髪を彼の手がそっと撫でる。
「その子の、名は?」
「……ベネデットだ」
 善良なる者。姉が彼自身の幸福を願ってつけた名は、今や皮肉にしか聞こえなかった。
 哀れな義姉のことを思うたび、ベルッチオの心は悲鳴を上げる。夫をあの冷酷な検事に見捨てられた上に、その私生児に命まで奪われたのだ。
 すべてはこの糸杉の下からはじまった。自分が墓を掘り返しさえしなければ……
「呪われた屋敷で生まれた、悪魔の子……」
 低く呟いた声が、あまりにもおそろしく聞こえ、思わず身体を離す。
 だが相手は気に障ったようすもなく、闇の中を見つめていた。そこにいるなにかと語らうように。
 
 暗い屋敷の中へ足を踏み入れ、彼は手ずからランプに火をつける。ホールの仰々しい装飾が揺らめく光の中に浮かび上がり、悪夢のように毒々しくきらめいた。
「呪いの家……これほど復讐にふさわしい舞台があるだろうか」
 小さな忍び笑いが彼の口から洩れたかと思うと、それはやがて哄笑となって高い天井や古びたシャンデリアに共鳴していく。
「我らの敵、ジェラール・ド・ヴィルフォールに悪魔の口づけを!」
 呪いの言葉を吐き、彼はなおも笑いつづける。
「舞台の幕が上がったとき、私の桟敷にいたなら……最高の角度で芝居を楽しむことができるぞ。どうだ、ベルッチオ? 私に手を貸すか? それとも復讐をあきらめコルシカで隠居生活を送るか?」
 こちらをふり向いた笑顔は口が耳まで裂けるかのごとく恐ろしい形相だった。
「伯爵……まさか最初から……」
「……最初から?」
 彼のひたいに、不気味な紋様が浮かび上がる。
 今度こそ、夢でも幻でもない。
 このグロテスクな紋様には見覚えがあった。それは象徴だ。恐怖の、絶望の、死の、そして呪いの。
 ベルッチオはようやく気づいた。
 初めて会ったときからベルッチオの心臓をつかんで離さない、この男の闇の正体を。
「……厳窟王……」
 
 

 † † † † †
 
 
 厳窟王。
 死をも恐れぬ者どもが巣くう裏の世界でさえ、その名は口にすることすら憚られていた。
 それが何者なのか、知る者はない。だがその名と「顔」だけは、どんな大悪党よりも知られていた。
「彼」は自らが選んだ人間と同化し、その人間の欲望を叶える代わりに、自らの刻印をその肉体に刻み込むのだという。その呪われた紋様こそが、「彼」の存在をこの世に知らしめる「顔」なのだ。
 命知らずの若い連中が、肌に彫り込んでいることも少なくはない。だがその紋様を己のものとした人間は、必ず命かそれに近い代償を「厳窟王」へ捧げることになると言われていた。まるで、「厳窟王」が供物を求めているかのように。事実、若い命を散らした愚か者を幾人も知っている。
 
 だがどこまでが真実かもわからない伝説の世界だ。
 ベルッチオも、「刺青にするには縁起の悪い柄」程度にしか思っていなかった。
 今、この瞬間までは。
 闇の中で光る目に見つめられ、思わず後ずさっていた。
「あんた……本物の……」
 半ば無意識のうちに懐の銃へ伸びていた腕を、唐突につかまれる。そのすばやさにも驚いたが、手首を締め上げる力も尋常ではない。
「伯爵……っ」
 光る目に射抜かれ、身体が動かない。実際に押さえつけられているのか、恐怖で足がすくんでいるだけなのか、自分でもわからなかった。
 コルシカ中の荒くれどもを縮み上がらせる男を、彼は片腕をひねるだけで床に叩きつけた。
「ぐ……ぁっ!」
 痛みをこらえ飛び起きようとしたところへ、ひたいに硬いものが押しつけられる。
「な……」
 それは、自分の懐に入っていたはずの銃だった。
「……俺を殺すのか?」
 修羅場なら、あの夜以来何度でもくぐりぬけている。理屈ではない本能で難を逃れたことも少なくはない。
 その本能が、絶望を悟らせていた。この命は彼の手の中にある。どうあがいたところで自力では助からない。諦めがベルッチオの声を表面上だけでも落ちつかせていた。
 彼……ひたいに不気味な紋章を浮かび上がらせたその異星人は、くくっと低く笑って手にしていた銃を後ろへと放り投げる。あっけにとられる間もなく、喉元をつかまれ床に頭を押しつけられていた。
「ぅぐ……っ」
「コルシカの獅子……ジョバンニ・ベルッチオ。私はおまえがほしい。私の復讐にはおまえという駒が必要なのだ。私のものになれ、ベルッチオ……」
 彼の顔、彼の声、彼の口調そのままに、だが圧倒的な支配力をもって、男は「命令」する。気どりも遠慮もかなぐり捨てた、今までの彼とはなにか別の存在が、ベルッチオを押さえ込もうとしていた。
「ぉ……お友だちから、はじめましょう、ってやつか……」
 彼の言葉を揶揄するつもりで口にしたとたん、光る目が見開かれた。
「ぐは……ぅっ!」
 首を締めつける指の力が強くなる。このまま気管をつぶすことも、首の骨を折ることも、一瞬でやってのけるだろう。だがどうやら彼は、ベルッチオが意識を保っていられる間際で手加減しているようだった。
「友など……」
 彼ではない彼が呻く。
「友などいらぬ……」
 人間離れした力がシャツを引き裂いた。屋敷のよどんだ空気が胸に腹に直接触れ、思わず身震いする。だが多少の肌寒さなど些細なことだった。魂をも凍りつかせる、この男の存在に比べたら。
「私だけでよいのだ……!!」
 吸血鬼さながらの犬歯が鍛え上げられた肌に刺さり、ベルッチオは悲鳴を上げそうになった。歯を食いしばって叫ぶのだけは耐えたが、それだけで終わらないことは感づいていた。血を吸われたわけでもないのに、手足から力が抜けていく。
「ぁ……巌窟、王……」
「ただの手駒ふぜいが、私の心を求めるなど……」
 怒りか苛立ちか憎しみか、激しい感情に突き動かされるように、巌窟王は生地の厚いスーツさえ引き裂いて、褐色の肌を外気に晒していく。
 今ベルッチオの上にのしかかっているのは、黒い闇だった。広がったマントと長い髪の輪郭しか見えない。だから彼が次になにをしようとしているかなど、わかるはずもない。
「…………っ!!」
 今度こそ抑えきれなかった悲鳴が、広いホールに響きわたった。
 なんの前触れも支度もなしに、猛った雄が打ち込まれる。女のように貫かれて激しく突き上げられ、呼吸もままならなかった。逃げようにも四肢は麻痺していて思いどおりにならない。吸血鬼の口づけで生気を吸われたというのか……
「……あああ!!」
 逃走も反撃も許されず、ベルッチオは身体の奥を穿たれる痛みに耐えるしかなかった。
 
 やがて嵐のような陵辱は終わり、人のいない屋敷に静寂がもどる。いつのまにか、ランプは消えていた。差し込む月明かりもない空き家は、影と闇に包まれている。
「……………」
 亡霊のようにゆらりと立ち上がった黒い影が、自分の足下に目を落として息をのむのが聞こえた。
「……ベルッチオ!」
 その声は、先ほどとは別人のように上ずっていた。
 苦痛と恥辱に苛まれる心身を鎮めようとしていたベルッチオは、頭を殴られたような気分になって目の前の影を見上げる。
「伯爵……あんたは、厳窟王なのか?」
「……そうだ」
 わずかな間があって、硬い声が返ってきた。
「私は、厳窟王のすべてを継いだ。力も、財も、心も。私は厳窟王だ」
 筋は通っている。噂の切れ端とも合致するし、なによりこの目であの紋様を見た。犯されているあいだ、あのぎらつく瞳はずっとこちらを睨みつけていた。目を閉じても脳裏に焼きついた光がちらつくほどに。
 だがその絶対的な存在と、今の彼はあまりにもちがいすぎる。
「俺を……襲ったのは、あんたか? 厳窟王か?」
 犯した、という単語は口にしたくなかった。自分が男に犯されたという事実を受け入れてしまう気がした。自尊心を保つためには、人知を超えた存在によってなされた不条理な蹂躙であってほしかった。
「私と厳窟王は一体のもの……行いも意志も分けられなどしない」
 冷たい声が降ってくる。しかしその声はあきらかに揺らいでいた。彼が今すぐに跪き、許しを乞うても、ベルッチオは驚かなかっただろう。
 裸同然の犠牲者を前に、彼は助け起こしたい衝動と戦っているかのように両の拳を握りしめる。
「おそろしければ帰れ。憎ければ殺せ。だが、巌窟王はどんな手を使ってもコルシカの獅子を手に入れるぞ。おまえの魂を食らいつくし、おまえのファミリーごと我が物とするだろう」
 それは、言葉どおりに受け止めれば脅しにちがいない。苦痛に満ちた表情と、罪悪感に揺れる声さえなければ。
「……………」
 ベルッチオはサングラスを拾い上げ、ひびの入ったそれをかけなおした。
 彼は二人だ。それが得体の知れない狂気を、そして魔力のように抗いがたい同調でベルッチオを縛りつけている。
 だがそれだけではない。それ以外のなにかがどういうものなのか、まだはっきりとはわからなかったが。
「……ただのチンピラが、伝説の大悪党に敵うわけねえだろ。また用事があったら呼びつけな。血相変えて飛んでくるぜ。死にたくねえからな」
「ベル……」
 声の震えを隠すように、彼は口を押さえて顔をそむけ、黒いマントをベルッチオの上に落とす。同時に聞こえたがしゃんという金属音は、銀の鍵束が床へ放り投げられた音だ。
 それから靴音も高く、モンテ・クリスト伯爵は入ってきたドアから出ていった。


† † † † †
 
 
 巨大な鏡と化した窓に、堅苦しいスーツを着た自分が映っている。
 落ちついた色合い自体は自分の肌とも好みとも合っていた。だが、糊のきいた襟と、緩めることができないネクタイはどうにも居心地が悪い。
「思ったとおりだ。よく似合っている」
 傍らに立っている伯爵が満足げに囁いた。
 ここは彼の船の中だが、今日はあの優美な部屋着ではなく、外出用の服を身にまとっている。
 恐怖と屈辱の夜を過ごしてなお、ベルッチオは伯爵の呼び出しに応じた。伯爵もまた、二人のあいだに何事も起きなかったかのような顔をして、ベルッチオをもてなした。
 そして、このスーツだ。
「前にも言ったとおり、俺は上流社会なんてもんとは縁がねえんだ。ボロが出ても知らねえぜ」
 彼はなにも言わずに手を伸ばし、黒い頬に触れた。
「おい……」
 だが彼は薄く微笑み、こちらへ背中へ向けてしまう。
「私の贈り物は気に入ってくれたか?」
 背後からではなく耳元で、深みのある囁き声が響いた。
「……ああ。感度良好だぜ、伯爵さま」
 ピアスを指で弾き、にっと笑ってみせた。小型の通信機はベルッチオに遠隔で指示を出し、同時に集音機で周りの音を伯爵に伝える。目新しくはないが、細かい打ち合わせなどしている余裕がないときには有効な手段だ。
「ポケットから手を出して、背筋を伸ばして胸を張れ。そう、堂々と。襟とタイには触れるなよ。くり返すのだ、『モンテ・クリスト伯爵の使いでございます』……」
「モンテ・クリスト伯爵の使いでございます」
 うやうやしく頭を下げてゆっくり顔を上げれば、満足げな笑みが待ちかまえていた。
「何十年も前から私に仕えていたように見えるな」
「冗談はよせ。家令どころか、操り人形になった気がするぜ」
 肩をすくめると、彼はあごひげを撫でながら目を細める。
「まさに。今日だけ、私の傀儡になってもらおう」
 
 スーツ姿の傀儡が送り込まれた先は、あのオートイユの屋敷を管理している公証人の事務所だった。
 本来ならば伯爵が自ら出向くところだが、体調がよくないのだと打ち明けられた。実際、薬を口にする回数は目に見えて増えていたし、なによりオートイユの夜以降、外出した様子が見られない。あの豹変も、症状のひとつではないかとベルッチオは考えはじめていた。とにかく、「体調不良」には説得力があった。
 それに、多少なりとも愉快ではある。人に使われるのは我慢ならなかったが、この服装や秘密めいた計画のおかげで、ちょっとしたゲームにでも参加している気分だった。
「モンテ・クリスト伯爵の使いでございます」
 言われたとおりの文句を伝え、相手の返答を待つ。たしかにこれは言語を発しないアリにはできない役目だ。
 家を買う話は意外なほどあっさりと進んだ。公証人は見た目も中身も小市民的な中年男で、体格のいいこの「家令」に終始気圧されていた。それでなくても、見るからに陰鬱な片田舎の空き家など、どれほど大きくてもさっさと片づけてしまいたかったのだろう。
 ベルッチオ自身はなにを考える必要もなく、伯爵の言葉をくり返しているうちに話はまとまった。
「それでは、小切手でよろしいでしょうか」
 ペンを走らせている自分が驚くほどの金額を、持たされたその紙切れに書き込む。素人から見てもゼロが二つほど多いが、彼の指示だ。小切手を受け取った相手の表情がみるみる変わるのがおかしくて、笑いをこらえるために険しい表情を作った。
「なにかご不審な点などございましたら……」
「い……いえ! 完璧です、すばらしい! ただいま証文をお作りいたします。心変わり……いえ、まちがいがあってはいけませんので、今すぐに……少しのあいだ、お待ちいただけますか?」
 まちがいとしか思えないこの大金を逃してなるものかと、目の色を変えた小男がまくし立てるのを聞き流しながら、片耳のピアスに耳をかたむけた。
 『お望みのままに』
 笑みを含んで囁かれた言葉を、そのままの口調でくり返す。
「お望みのままに……」
 屈強な大男が礼儀正しく頭を垂れるのを、小男は恐ろしいものでも見るような目つきで凝視した。
 
 馬車に乗り込むと、コートに身を包んだ伯爵が待っていた。クッションにもたれかかっている姿は気怠げではあるが、特別どこか悪いようには見えない。
 扉を閉めるか閉めないかのうちに、アリが御する馬車は勢いよく走り出す。
「よくやった」
「お褒めにあずかり光栄ですぜ」
 ネクタイを緩めながら笑って言う偽物の家令に、伯爵もおどけた様子でこめかみに指を当て、わざとらしく顔をしかめる。
「光栄でございます、と言え」
「もういいだろう」
 伯爵のマイクはすでに切られていたが、ベルッチオはピアスを外して彼に突きつける。機嫌がよさそうな彼は、微笑んでそれを受け取ろうとした。
 しかし、ピアスは彼の手袋からすべり落ちる。
「……うっ!?」
 長い髪を振り乱して、彼が頭を押さえうずくまった。
「おい、おいっ!?」
 かすかに顔を上げた彼のひたいには、あの眼が輝いている。忌まわしい記憶に身がすくんだが、今はそんなことは言っていられない。
「アリ! アリ!!」
 御者席の窓を叩きながら大声で呼ぶと、馬車は静かに止まりすぐにアリが扉を開けた。
「なんだこれは。伯爵の身体はどうなってるんだ」
 訊いてから、意思の疎通ができない相手だったことに気づく。
 だがアリは戸惑い迷う様子もなく馬車に乗り込んできて、意識を失った主人の懐を探った。そして、小型のケースを取り出す。
「薬か……」
 しかし意識を失っている相手に薬を飲ませることなどできるのだろうか。そんなこちらの懸念などかまわず、アリはハンカチで奇妙な形の指を拭うと、薬をつまんだその指を伯爵の口にすべり込ませた。のどの奥へと直接薬を送り込んだのだ。
 驚くベルッチオの前でアリの手はすぐさま元に戻り、また平然とその指を拭う。共通の言語を持たないこの異星人を、伯爵がそばへ置いている理由が初めてわかった気がした。
「い、医者は? 行かなくていいのか?」
 アリは首を振ると、手真似で座るように言い、それから馬車の外へと姿を消した。一刻も早く屋敷へ帰るということなのだろう。ベルッチオは伯爵の肩を抱き、座りなおす。
 ほどなくアリが御者席の窓からこちらを覗き、頷き返すと馬車は何事もなかったかのように動き出した。
 揺れる馬車の中で、彼が座席から落ちないように両腕で抱きしめる。伯爵の身体はこれほどに細かっただろうか。
「なあ……しっかりしてくれよ厳窟王……」
 弱々しい鼓動を確かめるように、彼の胸に掌を押し当てた。
 青い肌の男に、生の証を感じる部分はどこにもなかった。
 
 

 † † † † †
 
 
 目を開けた伯爵は、そこが自室のベッドの上だと気づくより先に、傍らの男へ目を留めた。
「ベルッチオ……?」
「気がついたか」
 座っていた椅子の背にもたれかかって大きく息を吐き出す。死人にしか見えない男のベッドサイドで目覚めるのを待つのは、仲間の死を見慣れている身にとっても苦しい。
「私は……」
 弱々しい腕が宙をさまようように伸ばされ、思わずその手を取っていた。二人の視線が正面からぶつかる。
「……………」
 彼の唇がもの言いたげに震えた。実際になにかを言ったのかもしれない。だが結局それはベルッチオの注意を唇に向けたにすぎなかった。
 二人は色のちがう唇を重ねる。そうすることが必然だったかのように。
「ベルッチオ……」
 彼は力なく腕を絡めてくる。その先に要求の言葉など必要なかった。ただその囁きだけでよかった。
 ガウンの下から、痛々しい治療痕のような模様が現れる。全身に張り巡らされた蜘蛛の糸のような紋様は、青い肌とも相まって、別の生き物のような印象を与えた。
 だがその身体は自分と同じかたちで同じ機能を持っていることを、ベルッチオはよくわかっていた。他のだれでもないこの男に、蹂躙されたのだから。
 模様をたどるように唇で触れると、彼は切ない吐息を洩らす。怯え恥じらう処女のように。そんな相手を手荒にあつかうことなどできようはずもない。互いに戸惑いながら、二人は温度のちがう肌を合わせた。
 報復のつもりはなかった。ただ、冷たい肌をあたためてやりたかった。
 
 彼はしばらくベルッチオの首にしがみついたまま動かなかったが、やがてすすり泣きのようなうめき声を洩らした。
「私は……なんということを……すまないベルッチオ……」
 自らの陵辱に動揺したあとでさえ詫びることなどなかった彼が、自分を抱いた男に向かって祈るように両手を組んでいる。そして、さらに意味の通らないことを呟いた。
「今夜のことはすべて忘れ、帰ってくれないか」
 ぎょっとして顔を覗き込む。しかしその顔は長い髪に隠れてほとんど見えない。
「あんた、コルシカ人がそんなに薄情だと思ってるなら大まちがいだぜ」
 冗談めかしてそんなことを言ってみるが、彼は緩慢に首を振るだけだった。
「だめだ……私たちは近づきすぎたのだ。私は誰と親しくなってもいけない……友など、求めてはならないのだ……」
 それは、かつてもう一人の彼から言い渡された言葉。厳窟王の警告。
「友などいらぬ、というのか……」
「ああ……おまえなど、いらぬ……」
 だが、苦しげに顔をゆがめ、渾身の力を込めて縋りついてくる人間のそんな言葉を、どう信じろというのか。
「俺が必要だと! 俺がほしいと言ったじゃないか!!」
 いつもう一人の彼が出てくるかわからない。そんな恐怖に怯えながら、その身体を強く抱きしめる。
 彼は力なくもがいたがベルッチオの腕からは逃れられず、その頭を抱えて泣き叫ぶ。
「ヴィルフォールへの復讐に必要な駒を飼い慣らしたかっただけだ! 友などと偽りだということがまだわからないか!?」
 悲痛な叫びは、助けを求めているようにしか聞こえない。どうしたら、この魂を救い出せるのか。彼がおこなおうとしている復讐とは、これほどまでに大きな代償を必要とするのか。焦りと苛立ちのまま、ベルッチオは細く冷たい身体をなおも抱きすくめた。
「なあ伯爵……」
「頼む、ベルッチオ……私は巌窟王と契約したのだ。すべてを受け継ぐ代わりに、すべてを捧げると。私は巌窟王のものになった。私を侵しているのは病ではない、厳窟王なのだ……」
 友は己だけでよいと、彼は言った。巌窟王はこの男を独占するために、邪魔者のベルッチオを傷つけた。それは逆に考えれば……
「あんた、まだ厳窟王になりきれてないんじゃないのか?」
 小さな家を懐かしみ、素朴な手料理に目を輝かせ、自らの凶行を恐れ悔いる、本来の彼はまだ消えてはいない。それならば、どうにかして厳窟王を追い出すこともできるのではないか。ベルッチオの希望は、しかしあっさりと否定された。彼は決して首を縦に振ろうとはしなかった。
「……時間の問題だ。やがて私は厳窟王そのものになるだろう。だから、これ以上私に近づくな。……あの程度では済まぬぞ」
 オートイユでの一件は、互いにとって最後の切り札だった。そのカードを突きつけられ、これ以上の交渉をつづける気がないことを悟る。
「わかった」
 ベルッチオが立ち上がりローブを引き寄せるのを見届けると、彼はゆっくりと目を閉じた。
 暫しその青い顔を眺めていたが、やがて部屋を出てアリを呼んだ。


† † † † †
 
 
 数日後、ベルッチオは再びスパダ号の中にいた。
 伯爵は未だ昏睡状態だという。アリは話し相手にはならなかったが、意思の疎通ができているかがわかる程度にはなじんでいた。
 葉巻を持ってきたアリが、はっとドアのほうを見る。ドアが自動的に開き、着替えた伯爵が立っていた。
「ベルッチオ!?」
 驚いたのは彼のほうだった。
「帰らなかったのか?」
 答える代わりにソファから立ち上がり、首を横に振る。彼は体調こそ快復しているようだったが、あきらかに混乱していた。
「ではなぜ……まだその服を着ている?」
 ベルッチオが身にまとっているのは、伯爵の家令を演じさせられたときの堅苦しいスーツだった。怪訝そうな表情を浮かべている伯爵の前に、アリがタイミングよく料理を運んでくる。
 ベルッチオはワゴンに歩み寄り、精いっぱいうやうやしく頭を下げた。
「お食事でございます」
「もういいのだぞベルッチオ。茶番は終わっ……」
 苦笑しかけた伯爵の動きが止まる。
「ベルッチオ?」
「客間は引き払いました。新しい部屋はアリが用意してくれました」
 真顔で答えるベルッチオから寡黙なアリへと伯爵が視線を移せば、緑の異星人は深くうなずく。
「……おまえのファミリーは?」
「私の家は、伯爵のおられるこの船でございます」
 そう言いきるときには、さすがに声が震えた。
 ファミリーは信頼できる者に任せてきた。ベルッチオ自身は失踪したことになるはずだ。怪しげなモンテ・クリスト伯爵に嫌疑がかからないよう手を回すのにはさすがに骨が折れた。正式な協力は断ったとはいえ、何度か顔を合わせている事実は知られている。しばらくはコルシカに近寄らないようにするしか手はないだろう。
 そんな面倒な後始末をしてから、伯爵が眠りつづけるこの船へともどってきたのだ。
 彼の傍らに立つために。
「なんということを……」
 伯爵は忌々しげに長い髪をかき上げる。
 モンテ・クリスト伯爵こと厳窟王が求めたのは、ヴィルフォールへの憎悪を持ちベネデットという重要な駒に関わる人間。コルシカの裏社会を牛耳る男でも、ましてやジョヴァンニ・ベルッチオ自身でもない。
 だが、未だ厳窟王と一体化しきれていない彼のある部分は、ベルッチオを狂おしいほどに求めている。ベルッチオの心臓を掴んだ冷たい狂気の正体は、たしかに厳窟王だった。しかしベルッチオ自身を惹きつけたのは、脆弱なもう一人の彼なのだ。情に餓え、孤独に怯えるあの男。
 彼の友として傍らにいられないのならば……心は遠ざかっても、この身だけは常に彼とともにあれるように。ベルッチオは厳窟王の望みどおり、手駒として飼い慣らされることを選んだ。
「本当にいいのか」
 冷淡に聞こえる声が必死に感情を押し殺そうとしているのが、今ならわかる。新しい家令はにやっと笑い、軽く頭を下げた。
「地獄の果てまでも、お供しますぜ」
 家令としての言葉遣いや作法はこれからきちんと身につけなければならないだろう。肩をすくめてみせたベルッチオを見て、伯爵はため息混じりの笑みを浮かべた。
「そうか……では歓迎しよう、我が僕よ」
 歩み寄ってきた彼のオッドアイが細められ、妖しく光った。
「……まず、服を新調しなければな」
 伯爵の指が、スーツの襟をそっとなぞる。
「モンテ・クリスト伯爵家の家令にふさわしい、美しい姿を……貴族どもに見せつけてやるのだ」
 指はネクタイに触れ、優雅な動きで黒い頬をかすめた。
「この髪も、服に合わせて切ってもかまわないか?」
 こめかみから縮れた髪をそっとかき上げて、耳の端を撫でながら彼は微笑む。
「お望みのままに……」
 かつて彼の傀儡として言わされた言葉を、己の意志で口にして。
 獅子の名を捨てた男は、自らの飼い主の手にうやうやしく口づけた。

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