ボーシャン/リュシアン

2004_巌窟王,[G]

巌窟王:ボーシャン/リュシアン・ドプレー


Après la pluie

 うららかな午後、街角のカフェ。
 男は通行人を眺めながら、日当たりのいいテラス席にひとり陣取っていた。
 華やかな赤い髪に負けない端整な顔立ち、上流階級の人間と見てとれる佇まいは、ただそこにいるだけで人の目を惹く。他の客から声をかけられることもあったが、笑顔で軽くいなしていた。そのくせ、コーヒーを飲む以外は本や新聞を読むでもなく、時計を見たりして人を待っている気配もない。
 不意に雲がわき、音もなく雨が降りはじめた。
 店員があわててシェードを広げにくるが、男は気にすることもなく曇った空を仰いでいる。
 雨はしだいに勢いを増していくが、遠くを見やると雲間に爽やかな青色が覗いていた。それほど長くは降らないだろう。彼の胸元に挿された小ぶりの白い薔薇が、しっとりと濡れて瑞々しく見える。
 テーブルに三杯目のカップが運ばれてきてからしばらくして、雨の中から長身の男が現れた。
 視線も合わせず了承すら取らず、男は向かいの席に腰を下ろす。濡れっぱなしの黒髪も、皺だらけのシャツもくたびれたジャケットも、彼の待ち人には到底見えなかった。カメラを提げているから記者に違いないが、大抵の場合は貴族の天敵でしかないはずだ。
 しかし、それまでどんな美女も笑顔で追い払っていた赤毛は、明らかに身分が違う黒髪の同席を無言で許した。
 後から現れた男は勝手に二人ぶんのコーヒーとケーキを注文し、それからやっと目の前の相手に話しかける。
「書記官ってのは、昼間からカフェでのんびりできるほど暇なのか?」
 挨拶も抜きにいきなり嫌味から始まった会話を、リュシアンは笑みで受け止めた。
「たまには休みくらいとらせてくれよ。……あいつの誕生日なんだし」
 そう言って胸元の白薔薇を見下ろすのを、ボーシャンも目を細めて眺める。
「この席だったよな……仲良し三人組の指定席は」
「いつも俺たちの座る場所はなかったな」
 今、その三人の誰も、この街にはいない。
 彼らだけではない、あの年の夏をともに過ごした友人も敵も罪深い大人たちも、皆パリを去った。残っているのはお互いだけだ。
 店員が熱いコーヒーと一緒に大きなショートケーキを二切れ持ってくる。
 目の前に置かれたケーキを、ボーシャンは自分で頼んでおいて興味がなさそうにフォークでつついた。
「命日じゃなく、誕生日……か」
 リュシアンのほうは、勝手に運ばれてきたケーキを躊躇わず口へ運んでいる。
「普段、年寄りの相手ばかりしているからさ。人の誕生日よりも命日のほうをよく覚えているくらいでね、そんなのは気が滅入るじゃないか……」
 軽い調子で話しながらナプキンで口元を拭い、低い声でつけ加えた。
「生きてるあいだに、あいつの誕生日を祝う機会もなかったからな」
「ふん……」
 生きていれば十七歳になる。だが記憶の中の友人は永遠に、十五歳の少年のままだ。年のわりにはひどく大人びていて、いつもその年齢を忘れがちではあったが。
 他人の誕生日など、政治的な意図でもなければわざわざ祝うこともない。二人ともすでに子供ではなかったがために、損得抜きで友人を祝福するという行為が滑稽に見えていた。斜陽のデピネー家など取り入る価値もなく、ゴシップのネタにもならない。だから、お互いの誕生日のたびに浮かれてプレゼントやサプライズの準備をしている彼らを、どこか冷淡に眺めていた。微笑ましくはあったが、幼稚なやりとりにしか思えなかったのだ。
「あいつにしてやれた唯一の『協力』が、その寿命を縮めてしまうとはな」
 野心や欲望などとは無縁だった彼が、ただ一度だけリュシアンの特権を頼ったのは、大切な親友を罠から救い出すためだった。結果として真実を手に入れることとなった彼は、自らの命と引き換えに友を守ることを選んだ。その引き金になったのが、あのアクセスだったのではと思わなくもない。
「後悔してるのか」
 ボーシャンの遠慮がちな問いに、リュシアンは笑って赤毛を揺らす。
「俺にそんな資格はないよ」
 彼なら、その熱意と愛情を以ていずれは真実に辿りついただろう。一等書記官でも到達できない深淵に。彼の力を信じるからこそ、今さら贖罪を気取るつもりもない。せめてもう少し先までつき合えれば、僅かにでも運命を動かせたかもという仮定がよぎることはあったが。
「……マルセイユのほうは、変わりないか」
 唐突な話題の転換にボーシャンは片眉を上げたものの、何食わぬ顔でカップを手にする。
「ああ……未亡人は相変わらずだ。息子が出ていってからは、前より墓地で過ごす時間が長くなったそうだが……まだ送金は続けてるのか?」
「大した額じゃない。それでもほとんど手つかずだから、おまえが現物を手配してくれて助かる」
「村の年寄りにまかせっきりだがね」
 パリを揺るがしたクーデターは、未だ人々の記憶に新しく、その関係者の名すら軽率には話題にできない。それぞれに立場を持つ二人は、傍から見るかぎりは世間話でもするように、だがひどく慎重に言葉を選んでいた。
 心身ともに満身創痍だった叛逆者の家族を、当時のパリに置いておくわけにはいかなかった。しばらくは郊外にあるドプレーの別荘で匿っていたが、立場上長くは続けられない。なによりも当の母子がそれを望まなかった。
 息子のほうは、二人の支援を拒んで外の世界へと飛び出していった。それを引き止める理由も権利も、二人は持ち合わせていなかった。
 愛する者を悉く失った哀れな女が静かな片田舎で邪魔されずに暮らせるよう、尽力したのは醜聞を追うことに精通した新聞記者だ。リュシアンの資金援助を受けながら、ボーシャンは村人を雇って彼女を見守っている。
「にしても、俺が軍資金を自分の懐に入れちまう可能性は考えなかったのかよ」
「おまえの性格上、小金に目が眩むほど馬鹿じゃないと知ってるだけさ……ここは禁煙だ」
 ほとんど無意識に取り出した煙草を澄ました顔で取り上げられ、肩をすくめて食べもしないケーキをつつく。
 なぜ、生き延びた彼らを見捨てなかったのか。二人ともその理由を相手に尋ねたことは一度もない。形式だけの関係を断ち、怒りに燃える市民の前に生贄として突き出し、先陣を切って糾弾することもできた。時勢を読むなら、むしろそうすべきだったのかもしれない。
 しかし悲劇の終焉の現場に二人で駆けつけたあの日、傷ついた母子をパリから連れ出すことに意見の相違は全くなかった。保身も正義も立場も忘れ、生き残った友を救うことしか考えていなかった。
 生クリームをひと舐めしてフォークを放り出したボーシャンは、少し温くなったコーヒーを喉へ流し込む。
「そういえば、先月ジャニナへ行ってただろ。俺は別件で現地取材には行けなかったが……」
「なんだ、おまえがいなかったんなら、もう少し羽目を外せばよかったよ」
 笑いながら言う一等書記官に、新聞記者はわざとらしく顔をしかめてみせる。
「マスコミが俺だけだと思うなよ。近ごろドプレー書記官のスキャンダルがなくて寂しがってるブン屋は山ほどいるんだ」
「おまえの仲間は暇なんだな、記事のネタには事欠かないご時世に」
 実際、リュシアンはもう見境なしに女のベッドへ潜り込んだりはしない。政府が混乱し多忙になったことも事実だが、それまでの関係をきっぱりと絶った時期には、まるで心に決めた相手ができたようだと悲嘆混じりに囁かれるほどだった。
 その相手がこの国の未来などとは、誰一人として気づくまい。
「女王陛下に直接の謁見は叶わなかったが、側近と話す機会はなんとか得られてね」
 側近と言う語だけで、各々の脳裏にはたった一人、共通の顔が浮かぶ。
「あの、マフィアの用心棒みたいなやつか」
 厳つい見た目の男は、奇抜な衣装に身を包んでいなくとも常に主人の横で静かな存在感を放っている。若き女王が表舞台に出るとき、傍らには必ずその男が手懐けられた獅子のように控えていた。かつて、パリを騒がせたあの怪人にもそうしていたように。
 彼は、リュシアンとボーシャンに仇敵の家族を託した張本人でもあった。打ちひしがれた女子供の命を奪うことなど容易かったはずなのに、崩壊する地下宮殿から彼らを連れ出して二人の手に委ねた。
 つまりあの男は、友情というものを信じているのだ。友に裏切られた主に仕えながら。
「マルセイユとニューヨークのことは知らせたよ。陛下もさぞご安堵なさるでしょう、なんて言ってたが、本人も嬉しそうだったな」
「……やっぱり、俺も行けばよかった」
 この席に座っているはずだった友の一人は、単身ニューヨークへ渡った。いつ帰るのか、帰る気があるのかもわからない。だが彼女の名声が海を越えてこの国まで聞こえてくる日を、二人は心待ちにしている。
 おそらく、今パリに身を置いている人間で最も真実に近い場所に立っているのは、自分たちだろう。しかし当事者ではない。友が何に翻弄され何に命を捧げたのか、完全には知りえない。
 それでも、現実から目を背けていた日々に終止符を打つには充分すぎる契機だった。
 いつも斜に構え、何も変わらないと嘯いているだけだった。厭世的な日常に支配され、年下の友人たちを冷笑していた。だがそれすらも自らの若さゆえ、未熟さゆえだったのだと今ならわかる。
 大人たちの理不尽に振り回され全てを失った彼らのためにも、この国を正しい方向へ導かなければならない。自分たちが持っているのはそのために使う力なのだと、気づいたのはあの夏だ。
「……やんだな」
 ボーシャンはシェードの外へと長い腕を伸ばす。
 いつのまにか雨雲は通り過ぎ、通りは雨が降る前よりも明るく日に照らされていた。友を祝うための白薔薇は、雨の雫を湛えて宝石を散らしたように輝いている。
 ケーキを平らげコーヒーを味わっていたリュシアンが、ふと顔を上げて目を見開いた。
「おい、シャッターチャンスだぞ」
 その視線を追ってボーシャンがふり返ると、流れていく雲の手前に五色のアーチが架かっている。
「こりゃあ、夕刊の一面ものだな」
 そう答えながらテーブルに置かれたカメラを取り上げもせず、ふり向いたままの姿勢で動かない。

 虹が消えるまで、二人は黙って空を見上げていた。

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Posted by nickel