人間を信用していない作風らしいという話[2020.12.20]
※2022年追記:
今はけっこう意識的に自分の作風として前に出してますが、このころはなんとなくの感覚で書いていたので、それなりの発見でした。
人間を信用していない作風らしいという話。
先日、テキレボの企画でキャラシートなるものを作ったのですが、なりきり回答が難しかったです。
なりきりって小説と似てるようで対極にあるような気がするんですよね。小説は作者の自分がいちばん遠いところに立ってるものだから(個人の意見です)。
1枚あたりSS1本書くくらいのエネルギー使いました。
で、このキャラ。名前もない時点でキャラと言っていいのかわからないけど。
作業中は便宜上「ケイスケ」と呼んでました笑
ケイスケが他人とのすれちがいとか誤解とかを俯瞰から眺めるというストーリーなので、なんとなくさらっと書いてしまったけど、出したあとにこれはすごい本音を言っちゃったんじゃないか!?と気づきました。
人間を信用していないのは私だ!って。
普段あんまりキャラに自分を投影したりはしないんだけど、ケイスケはわりと私に似た思考かもしれない。内容的には、相手役のほうが作者自身のことなのかなと思わせるつくりになってるけど。
キャラ作るときって「こういう話を動かすためにどういう性質の人間が必要か」「こういう状況におかれたこういう性質の人間はどう動くか」が最優先なので、自分に引き寄せることはあんまりしないです。
だからケイスケは無意識にしろ、かなり自己投影型のキャラということになります。
信用してないっていうと穏やかでないけど。
性善説とか性悪説の話ではなくて、単に人間の「スペック」を信用してないというか。
こう、ドラマとかで何年も前に一回だけ会った人のこと覚えてたりするじゃないですか。銀座のママでもないのに。
よっぽど強烈な印象の人だとしても、この先また会うかどうかもわからない相手の顔をそもそも記憶以前にちゃんと認識してるのか?って思いませんか。エピソードから「あの時の!」とはなっても、顔を見ただけで思い出すの、どういう仕組みなんだ?っていつも思う。
私はムリです。
記憶力はそれほど悪くないですし人の顔も覚えてるほうですが、意識してないものは覚えられない。いわゆる「郵便配達人」の理屈で。
(ちなみに他人を覚えるときには「あの人に似てる」で脳内分類してます。友人の〇〇さんに似ている、職場の△△さんみたいな感じで。芸能人でもいい。ビジュアル先行のため名前を覚えるのは苦手なほう)
それと同じ次元で、人間同士が心からわかり合うのもムリだな、と思っているらしいのです。
職場とかにものすごく気遣いができる人がいたとして、でもその気遣い、私には過剰だなとか見当違いだなとか思うことありませんか。相手はこちらの気持ちを正しく読んでるわけじゃなく、その人が想像しうる範囲で気を遣っているだけなんだろうなって。
仮に親切心から私が「気遣い無用ですよ」と言ったところで、それが正しく相手に伝わるとも思っていないんですよね。相手は逆に私が気を遣っていると思うかもしれないし、あるいは気遣いを無碍にされたと憤るかもしれない。
いやホントにいいですから、と説明するのもめんどくさい。
こちらが適切な説明をできるか、相手がその説明を理解してくれるか、そこがすでに信用ならないと思っている節があります。
自分も相手も信用してない。
要は、途中でめんどくさくなってしまうんですよね。
この説明は長くなるぞ、と思った瞬間に、その説明にかかるコストと現状維持の落差を比べて、じゃあ誤解されたままでいいか、となる。めんどくさい人と思われるのもめんどくさいな、って。
そんな不誠実なことある!?と思われるかもしれませんが、上記が自分と異なる言語を使っている人やかなり世代の違う人と仮定していただければ、なんか笑ってうやむやにすることも、なくはないでしょう。生きてると意外にそういう状況のほうが多いのでは?っていうくらい。
小説でもそういう「めんどくさがり」は発揮されます。
よく説明が足りないといわれるので。
たとえば「椅子に座る」場面なら、それがどんな椅子かを描写するのがすでにめんどくさいです。
いいじゃん、「椅子」で。
椅子って単語を置いとけばそこに椅子があるんだよ。べつにコッシーだってレグだってみんなの好きな椅子でかまわない。
足が4本だとか3本だとか、何色の布が貼ってあるとか、何脚あってテーブルとの距離は……とか説明するのめちゃくちゃ面倒。
なんなら椅子があると書くことすら面倒。
いいじゃん、「腰を下ろした」で。
腰を下ろしたってことはそこに椅子があるんだよ。もたれたら背があるし、肘を置いたらひじ掛けがついてるんだよ。
でも理解してほしい人は、そこをきちんと書きます。肘を置かなくてもひじ掛けがあるということは説明する。
自分が思い描いているのと同じものを読者にも想像してほしいから。丁寧に説明すれば、理解してもらえるという読者への信頼がある。
読者を信頼していないというと、人聞きが悪すぎるのですが。
逆にすごく「まかせている」のですよね。その椅子がどんな椅子かは文脈から想像してください、と「椅子の描写」という作業を丸投げしている。
一人暮らしのワンルームに応接セットがあるわけないし、レトロファンタジーの世界にコクヨのオフィスチェアがあるわけない、という前提を要求する傲慢さはある……
ただコクヨのオフィスチェアがヴィクトリアンな書斎にあると想像されても、一向にかまわない。
書き手である自分自身もあまり信用していないのですよね。
実力とか誠意とかそういう意味ではなくて。
たとえば、AさんはBくんが好き、BくんもAさんが好き、という話を書いたとして。二人はほんとうに相手の気持ちを理解しているのか?というところに、迷いなくYES!と言えない。
二人の気持ちが同質・同量かなんてもっと断言できない。この先ずっと死ぬまで好き、とも言いきれない。
だって人間だから。
でも恋とか愛とかを書いてる以上、そこはまあどうしても折り合いをつけなきゃいけない部分なので……
「本人たちはすれちがってることに気づいてないので幸せ」という展開にしてしまう癖があるようです。
いい話っぽくは書くけど、結局は理解の断絶だから。
相手のことを深く理解するなんてできないっていう諦念が根底にあるから。
で、この文章はいちおう理解してほしいという気持ちで丁寧に書いたものなんですが。
まあざっくり読んで「こいつ傲慢だな」とか「頭がよくないのかな」と思われても、まあそれはそれで一理ある……となってしまうんですよね。
若いころは、っても数年前までは「理解してほしい!」ってマジメに思ってた気がするんだけど、いつからかこんな感じになってしまいました。
これもある種の絶望なのか。
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