ベルッチオ/バティスタン
巌窟王:ベルッチオ/バティスタン
脱ぎ捨てる過去
ひと筋の紫煙が、薄暗い路地裏から逃れようとするように、まっすぐ上に向かって消えていく。バティスタンは口を開けたまま、紙巻きの先端から立ちのぼるその煙を眺めていた。
言いつけられた用事を終えて、だが急いで帰る理由もなく、こうして時間を潰すのは初めてではない。広いとはいえ住居を兼ねた船の中に閉じこもっているのは息が詰まるし、なにより手持ちぶさただった。
フェンシングの相手を必要とする主人はもういない。楽しい遊戯に呼び出されることも永遠にない。なにより、その主人の不在を、遺された者たち全員が背負っている。その空気に居心地の悪さを感じ、こんな薄暗い街に下りては一人の時間を過ごす……それが、パリを離れてからの日常である。
もうあの街に用はない。もどることもないだろう。それは、パリ育ちの自分にとって憂鬱ではあったが、なじみの街を離れることより、なじみの仲間たちから離れることのほうが耐えがたかった。
バティスタンだけではない。主を失った伯爵家の者は、今や寄り添うように生きていた。現在の主人である少女、その召使いだったエイリアン、彼が世話をしている行き場のない母子、そして実質すべてをとり仕切っている褐色の肌の男……だれもが胸に大きく穴を空けたまま、その穴を埋めようともせずに、ただこれ以上欠けることを恐れて寄り集まっていた。
「……そろそろメシの時間か」
足下を駆け抜ける野良猫を見やり、どうでもいい独り言を呟く。
通りに出ると、薄汚いバーがちょうど灯りをつけたところだった。
もうディナーには間に合わないだろう。頭にちらつく極上の料理を頭から振り払い、バティスタンは目の前のバーへと足を向けた。
船に帰り、自室にもどる途中でベルッチオに出くわす。
「遅かったな。外で食ってきたのか」
言いながらあごで自分の部屋のほうを示すから、晩酌にでもつきあえということなのだろう。バティスタンはおとなしくついていった。
「夜遊びするなとは言わねえがな……ただでさえ人が少ねえんだ、やたらと船を空けるなよ」
かっちりとしたスーツのボタンを外したベルッチオは、とっておきのワインを注いでくれる。寝酒にしては贅沢すぎるが、なにしろワインセラーには専門店にもひけをとらない質と数のボトルが眠っているのだから、贅沢でも消費していくしかない。
グラスを受け取りそのまま口に運びながら、彼のベッドに腰かけた。さっきまで飲んでいた安酒とはさすがに味がちがう。
「オレがいたってじゃまになるだけだろ。あんたはエデにかかりっきりで、アリは未亡人とガキにかかりっきりなんだからな」
この船は今、あちこちへ寄港しながら、エデの故郷に向かっている。王族の生き残りである彼女は、故郷で自らの正統な権利を主張するつもりなのだ。征服者から王国を取りもどすために、エデはベルッチオの助けを借りて、ジャニナ帰還の段取りを着々と進めている。
今やベルッチオはエデの片腕だった。成り上がり伯爵家の家令などという、怪しい身分ではない。新しい主人は王女、この船は仮の宮殿……そんな変化も、バティスタンの居心地を悪くしている要因のひとつだった。
「バカ言ってんじゃねえ」
ネクタイに指をかけて襟元を緩めながら、ベルッチオはバティスタンの肩に手を置き、頬に唇を寄せてきた。その口元からはワインの香りがした。
「……なんだそれ」
「駄賃だ。最近、釣り銭をごまかさなくなっただろ」
それは、彼流のジョークだったらしい。真っ黒な色眼鏡の奥で目を細めて笑っているのがわかる。
「ふざけんじゃねえよ」
彼の顔から、サングラスを鷲づかみ取り上げた。彼は片手で顔を覆い、指のあいだからこちらを睨みつける。いや、睨んでいるように見えるのは彼の鋭い目つきのせいで、ほんとうは困惑しているだけなのだとバティスタンは知っていた。
「バティスタン……」
奪ったサングラスをそのへんに放り投げ、ネクタイをつかんで引き寄せる。そして、ワインで濡れた唇に噛みついた。舌をねじ込み、乱暴に歯をなぞる。頬に触れるだけなどという、まさに駄賃程度のキスなどいらない。
「よこすならぜんぶよこせ」
ネクタイとスーツをつかみしめたまま、背中からベッドに倒れ込んだ。
「おい……」
バティスタンの上にのしかかるかたちになったベルッチオは、さらに困った顔でベッドに手をつく。だが知ったことか。弾力のあるベッドの上に彼の身体を投げ出し、自分は起き上がって彼の上に乗りかかった。
「……遊んできたんじゃねえのか」
「よそのベッドに入ったんなら、朝まで帰ってこねえよ」
そしてバティスタンは朝帰りなどしたことがない。ベルッチオは目を閉じ、ため息をついた。
「おまえ……」
「うるせえ」
その会話をつづけるのはなにか気恥ずかしいような気がして、彼の肩を押さえつけたままもう一度口づけた。今度は相手も腰に手を回してきて応える。そうだ、それでいい。このところすっかりご無沙汰だったが、この関係は変わらないようだ。
だが、肩から腹へと手をやろうとして……バティスタンは思わずシャツの布地をきつくつかんでいた。
身体のどこにも、肌が露わになっている部分がない。腹も背もシャツに阻まれ触れられず、どこからから手を差し入れることも叶わない。
「くそ、めんどくせえ服だな」
それがあたりまえの、ごくふつうの、あるべき服装だとはわかっていても、苛立ちは抑えられない。腹立たしい気分にまかせ、シャツをつかんで思いきり左右に広げた。糸が切れる音がつづいたかと思うと、ボタンはすべて弾け飛び、褐色の肌が現れる。鍛え上げられた腹を見下ろして、バティスタンはようやく笑みを浮かべた。
「こら……」
抗議の声とともに上体を起こしかけるベルッチオを制して、その顔を真上から覗きこむ。
「なんでアレ着ねえんだよ」
主人を失って以来、彼はもはや「家令」の服を身につけようとはしなかった。今は王女の側近で後見人代理なのだからと、堅苦しいスーツに身を包み、人前でカフスやネクタイを緩めることさえしない。
だがバティスタンはあの姿のベルッチオが好きなのだ。あんなに型破りなファッションを苦もなく着こなし、それでいて自身はひどく禁欲的にふるまう……そんなギャップが似合う男など、そういないだろう。
「……もう必要ない」
ベルッチオは目をそらし、そう呟く。
「おまえもさっさとそいつを脱げ」
バティスタンのほうは、あいかわらずあの露出の高いジャケットを着ている。ベルッチオのようにスーツを着なければならない場面など今のところないし、そもそもあんな窮屈そうな服は身につけたくもない。
「オレぁ、こいつが気に入ってんだよ」
「……過去を引きずるなってことだ」
過去。今はもうない屋敷、果たされた目的、そして亡き主人……この船では、それらすべてが触れてはならない「過去」だった。過去とするには、あまりにも記憶に新しく、あまりにも大きい存在なのだが。
「いつまでも伯爵を引きずってんのはおめえだろ。服脱いだくらいで忘れられるもんかよ」
「……………」
表情を窺うかぎりでは、図星だったようだ。
ベルッチオがもうあのふざけた衣装を着ないのは、あの服を着せた主人を思い出さないように。あれを着ること自体が、絶対的な従属を表していたから。あの主に向けた忠誠心と同じ忠義を、ベルッチオは他のだれにも捧げることはないだろう。
あの服を着ないことこそが、過去にこだわっている証なのだと言ってやりたかった。
だがそんなバティスタンの心を察したのか、スーツもシャツも引っかかったままの腕が、バティスタンの身体をきつく抱きしめる。素手で人間の首を折れる腕に締めつけられ、一瞬息が止まった。
「もういい、バティスタン。そんなにいやなら、さっさと脱がせろ」
かすれ気味の低い囁きを聞けば、それだけでもう黙ってはいられない。はやる気持ちを抑えて、また顔を覗きこんだ。
「あの御方の代わりにゃなれねえぜ」
「……何様のつもりだ、このチンピラが」
そう言う声は笑いを含んでいて、なんの重々しさもない。あるいは虚勢かもしれないが、とにかく今したいことは一致したようだ。
その証拠に、見かけよりも器用な指が伸びてきて、リボンタイがするっとほどかれ落ちる。ぞくぞくと背筋を駆けのぼる興奮に、バティスタンは思わず身を震わせていた。
「ベルッチオ、あのな……」
なにを言いかけたのか、自分でもよくわからなかった。どうも今夜は、心にもない……あるいは心の奥に沈めている言葉が、口をついて出そうになる。
「やっぱなんでもねえ」
自嘲の笑みを浮かべながら、彼を見下ろした。
ボタンを失ったシャツは肩まではだけ、その下でスーツのジャケットが皺だらけになっている。昔からつけている細い金のネックレスは、相変わらず肌の色によく合っていた。おもしろみのない服装だが、乱してみれば十二分に扇情的だ。
「悪くねえな」
脱がす楽しみが増えた、と思うことにした。楽しもうと思えば、どんなことでも楽しめるものだ。あの復讐鬼の淫らな戯れでさえ、自分たちは溺れるほどに耽ったのだから……
独特なリズムでドアがノックされた。
ベルッチオはすぐに起き上がってドアの向こうに呼びかける。
「アリか」
肯定のノック。言葉なしでもコミュニケーションは可能なのだと、彼の存在は教えてくれる。
「今行く」
バティスタンの見ている前でベルッチオは新しいスーツをすばやく着込み、またたく間に「王女の側近」ができあがっていく。つい今までさんざんに喘いで欲望をぶつけ合ったことなどなかったような顔だと、バティスタンは思った。
最後にサングラスで仕事用の表情に切り替わったベルッチオは、ベッドの中のバティスタンを見やって口の端を上げる。
「風邪ひくんじゃねえぞ」
「うるせえ、さっさと行け」
全裸のバティスタンは毛布をかぶって、彼に背を向けた。
「くそ……」
仕事の内容も立ち位置もほとんど変わらないのに、やはりあの復讐鬼に仕えていたころとはちがう。同じ人間とは思えないほどだ。穏やかになったと見るか、覇気がなくなったと感じるか。
あの妖艶な主人に魅入られ、翻弄されながらも尽くす姿こそが似合っていたのだと、今さらながら気づく。
問題は、服装などではなかったのだ。
「引きずってんのはオレじゃねえかよ……」
バティスタンは枕を壁に投げつけた。
それっきり、ベッドに倒れ込んだままで、指一本動かす気にもなれなかった。
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