ボンド/Q
007スペクター:ジェームズ・ボンド/Q
侵入者
「あなたはひどい人だ、007」
Qは棒立ちのまま、目の前の男にストレートな感想を投げつけた。
「ぼくから全てを奪って、あなたに何の得があるっていうんですか」
決して若くはない男はわずかに眉を上げてこちらを一瞥し、そしてまた目を伏せた。冴えない若造の顔よりも目に映すに値するものがあると言わんばかりの表情で。
Qは大きく息を吸う。
「貴重なゲームプレイ時間とお気に入りのソファはまだしも、愛する家族まで!」
「そんなつもりはない」
抑揚のない簡潔な返答は、任務中とまったく変わらない。
だがここはQの自宅で、今は勤務時間外で、そしてソファに身を沈める007ことジェームズ・ボンドのたくましい胸と腿の上にはそれぞれ、Qの愛する家族……二匹の雌猫が喉を鳴らして寄り添っていた。ボンドの視線は、Qではなく彼女たちに注がれているのだ。
「ああ……」
初めてその光景を見たとき……即ち、ドアの鍵は閉まっているにも関わらず一人暮らしの我が家に平然と侵入した彼が、Qの定位置であるソファを長い脚で占拠した上、Q最愛の淑女を二匹ともはべらせてワインを飲んでいるのを目にしたとき、帰宅したばかりのQはひざから床に崩れ落ちた。
基本的には二匹とも気まぐれで冷淡だから、本来の飼い主であるQを出迎えに駆け寄ってくることはない。その程度の無視ならむしろ愛おしいくらいの対応だが、身持ちが固いはずの彼女たちが百戦錬磨のプレイボーイにその肢体を無防備にゆだねているというのはどういうわけか。
あれ以来、古参の00エージェントはどういうわけかときどきQの家を訪れるようになった。もちろん、呼び鈴を鳴らされたことは一度もない。かの男にはチャイムとやノックといった概念が存在しないのだと思うことにしている。セキュリティの強化やトラップの設置を真剣に検討したこともあったが、無情な破壊行為による出費を考えてやめた。
この家にはなかったワイングラスで、彼は年代物らしいワインを飲んでいる。
Qは自宅でほとんど酒を飲まない。だから彼が飲んでいるのは彼自身が持ち込んだ酒だ。グラスも持ち込み、それをそのまま置いていくので少ない食器が増えて煩わしい。
持ち込まれる酒は様々だった。ワインにエール、任務が終わった直後はシャンパンのときもある。それをたいていは一人で飲む。Qが断るからだが、気にする様子もない。紅茶でも入れましょうかと言ったら嫌いだと断られた。
二人のあいだに共通の嗜好がないことだけは互いに確認済みだ。
「ウォッカマティーニでなくてもいいんですか?」
皮肉半分、好奇心半分で尋ねると、彼はにこりともせず妙な答えを返してきた。
「今は必要ない」
「……?」
場にそぐわない、というならわかる。しゃれたバーでタキシードを身につけ美女を前にしてこそ、という主張であれば、真逆のシチュエーションであるこの場には確かにふさわしくない。だが「必要ない」とはどういうことか。
それ以上に謎なのは、彼がなぜこの家を訪れるのかということだ。
酒を飲みたければバーへ行けばいい。話し相手がほしいだけにしても共通の話題がない装備係を選ぶはずがない。情報や武器その他非公式な援助が目的であればラボに来るだろう。猫たちだっていつもボンドにいい顔をするわけではない。全く相手にされない夜もあるというのに、猫と遊ぶためだけに同僚の家に不法侵入するだろうか。他には?
あとは彼より若い肉体くらいだが、ボンドがQにそういう意図で触れたことはおろか、そんな視線すら感じたことはなかった。
「もし目的がこのぼくなら、あなたなら『いつもの方法』で手に入れることもできるでしょう……」
皮肉以上の意味を込めたつもりはなかったが、口にしてみるとそれはへたくそな誘い文句にしか聞こえなかった。
実際問題、この男が普段のやり口で迫ってきたら、9割以上の確率で「落とされる」自信がある。エージェントは男女問わず(本人も、ターゲットもという意味だ)その道のプロと聞いているし、一方の自分はPCから手を離した瞬間ドがつく素人になる。
だがQの危惧に反して、ボンドは愉快そうに口を曲げただけだった。
「きみが望むならね。だがそうは見えないし、私も必要性を感じていない」
また『必要ない』だ。意味がわからない。
「それは……助かりました」
結局、的外れなコメントを口にしてキッチンへと退散するはめになる。
火にかけたケトルの前で、Qはティーバッグの箱を出しながらぼんやりと思考をめぐらせた。
オールドファッションを愛し、多くの女性とゆきずりの恋を重ね、傷だらけの体を引きずって過酷な任務に立ち向かう、頑固すぎて時に厄介だが、文句なしに優秀なエージェント。有名な「007」像は、MI6内で客観的に共有されている。
だがこの家にやってくるのは……玄関のドアから迎え入れられるのを好まないという点を除けば……エージェントらしさも「007らしさ」も脱ぎ捨ててきたかのような、ただの中年男だった。
ただの男というには、現実感がないかもしれない。いつのまにか部屋にいて、自分の家のようにふるまい、だがなにも壊さず奪わず、Qが寝ようが起きていようが朝になる前にいなくなっている。本部で出会っても知らぬふりだ。職場で顔を合わせる「007」とは別人ではないかとまで疑い、発信機をつけたこともあったが、彼はわかっていて発信機とともにQ宅へやってきた。
「なんだっていうんだ」
ガウンの襟をかき寄せ、マグを持ってリビングに戻った。男は変わらずそこにいる。この光景も見慣れてしまった。
彼の腿を枕にしている一匹を抱き上げ、彼女を抱えたまま空いたスペースに体をねじ込む。
ボンドは尻で押しのけられた足を引っ込めたが、それ以上は動こうとしない。胸の上にうずくまる猫と同じ顔で、気持ちよさそうに目を閉じていた。
まったく、他人の家で大層な寛ぎようだ。Qはマグカップに口をつけながら思う。こちらはソファを2/3も奪われて手足も伸ばせず、愛猫を寝取られ、落ちついてネットゲームもできないというのに。
「あなたは本当にひどい人ですね」
そう呟いて、もう一口紅茶を飲んだ。枯草がこすれるような笑い声が聞こえた。
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