ボンド/Q
三匹目
よく人前でこれほど無防備に眠れるものだ、と思いながら、スパイは傍らの青年を眺めた。
まだ年若く、しかも人殺しどころか他人を殴ったことさえなさそうな華奢さは、彼をよりか弱い存在に見せる。その気になれば彼はこのソファから下りることなく他国の情報機関を混乱に陥れることも可能なのだが、そんな脅威は寝顔からは察知できない。
夜更けにジェームズ・ボンドがいるのは、青年の家。決して狭くはない家の中で、リビングのソファに全ての生き物……成人男性二名と雌猫二匹……が集まっていた。
初めのころこそ、Qも不法侵入者に対して警戒と緊張を見せていたが、そのうちあきらめたように傍らでポータブルゲーム機をいじりはじめ、ボンドの視線も気にせず猫と会話するようになった。つまりはできるかぎりボンドの存在を視界に入れない、無視することに決めたらしい。
疲れたか眠くなったかすると、うずくまってクッションにもたれる。あくび混じりに「おやすみなさい、007」と寝室へ引き上げていくこともあるが、今夜のようにそのままソファで眠ってしまうことも少なくない。
ボンドは彼の寝室へ行き、毛布を持って戻ってきた。以前、ソファで眠り込んだ彼を放置して帰ったら、翌日オフィスで再会したときひどい鼻声になっていたからだ。
彼に毛布を掛けると、猫たちも潜り込んでくる。
「猫が三匹か……」
ブラウンの髪をそっと撫でる。猫の毛並ほどなめらかな手触りではないが、こうして毛布の中にうずくまっていると大差はない。ボンドがいようがいまいが好きなように過ごし、殊更になにかを求めてこない。それが猫というものだ。
手を離しがたく、猫の背を撫でるように彼の髪を手で梳いていたら、小さな頭がわずかに動いた。
「007……?」
かけっぱなしの黒縁眼鏡の奥から、重いまぶたを押し上げたブルーの瞳がこちらを見やる。ボンドはわずかにたじろぎ、動揺を気づかれないようさりげなく視線を外して手は彼の頭を撫でつづけた。
Qはしばらくボンドの顔を見つめていたが、やがて眼鏡をテーブルの上に放り出し、鼻先まで毛布を引き寄せる。そして眠そうな声で呟いた。
「だいじょうぶですよ、007……ぼく、猫に見返りは求めませんから……」
「Q?」
謎かけというよりは寝言に近い言葉の解説を待ったが、彼はそのまま眠りに落ちてしまったようだった。
再び彼の寝顔を眺めながら、ボンドはQの言葉を反芻する。
モニタに向かっているときはどんなプログラムの穴も見逃さないが、生身の人間が相手となると言葉さえ通じているのか疑問に思うことがある。それほど他人に関心を示さない男が、ボンドの内面を見透かしたとでもいうのか。
ふと悪戯心がわいて、指先で寝顔の頬をなぞった。Qはくすぐったそうに首をすくめたが、目を開けることはなかった。
まるで猫だ、とボンドはまた思う。
そう思ったとき、彼の言葉の意味が突然理解できた。
「……三匹目は、私か」
この男を籠絡して体をつなぐのは、この家に忍び込むよりもたやすい。だがボンドはそうしなかった。Qが一度でもボンドを欲しがれば、迷わず応えただろう。トップでもボトムでも、彼が好むかたちで。ボンドの肉体はそのためにある。
自分でそれに気づいたときはもう手遅れだった。人殺しの方法と同じく身に染みついてしまったのは、自分自身のために他人と肌を重ねることができないという習性。
この家では、そんなことを全く考えなくてよかった。気まぐれな小動物と年の離れた同僚しかいない。いずれもボンドにかまわず思い思いに過ごしている。
だがQにしてみれば、勝手に入り込んできてくつろいでいるボンドのほうが猫に思えただろう。ふてぶてしい老いた野良猫。飼い猫以上に、なにも求めようがない。
ボンドは喉の奥で笑った。
うずくまるQの肩を毛布の上からさすり、そして酒瓶に口をつける。この瓶を空にしたら帰ろうと思っていた。
さっき彼と目が合って動揺したのは、この快い時間が終わると無意識にでも恐れたからか。Qはそれに気づいたということだ。いつからボンドの習性を知っていたのかはわからないが、その上で心配はいらないとわざわざ告げてきた。だからここにいてもかまわないのだと。
さて、瓶は空になったが……
ボンドは床に瓶を置き、そのままソファにもたれて目を閉じた。
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