侘助/理一

2009_サマーウォーズ,[G]

【侘】

実家の玄関に、小さな花の鉢が飾ってあった。白い花が控えめに開きかけている。
理一は目を止めただけで聞きもしなかったのに、迎えに出てきた理香が笑顔で教えてくれた。
「侘助っていう名前の椿なんだって」
「椿なんだ、これ」
先月来ていた夏希が、花屋で見つけて大はしゃぎで買ってきたのだという。
「侘助か……なんか、イメージちがうなあ」
侘助はどっちかっていうとひょろひょろのペンペン草って感じ、と呟くと、理香も大笑いしながら賛同する。
「こんなにかわいい花じゃないわね、たしかに。でも母さんが言うには……」
ずいぶん昔に枯れてしまったけれど、祖父が大事に育てていた盆栽の中にもあったらしい。
「じゃあ、あいつの名前って……」
「コレってことよね、たぶん」
四十代も半ばになろうかという今になって知った小さな真実に、姉弟は顔を見合わせる以外のリアクションをとれなかった。

その日の夕方、理一は侘助を迎えに駅まで行くはめになった。
面倒だからと拒否したくても、理香が勝手に電話口で承諾してしまったのだから行くしかない。せめて携帯電話に直接連絡をくれれば、直接断れたのに。
「おう、こっちこっち」
「タクシー使えばよかったじゃないか」
駅前で待っていた侘助にヘルメットを押しつけながら文句を言うと、彼はもそもそと言い訳がましい口調で呟いた。
「前回タクシー乗ったときな……運転手が、小学校の同級生だったんだよ」
「へえ、だれ?」
「さあ。佐藤とか佐竹とかそんな名前のやつ」
関心のないことは極力覚えない男だ。それにしても、名前くらい覚えておけばいいのにと理一は思う。口には出さなかったが。
「行き先言ったら、侘じゃないか!って。こっちは思い出せねえから愛想笑いするしかなくてよ」
「わび?」
思わず問い返してから、そうだったと思い出す。
「なつかしいな、それ」
だれから呼びはじめたかは知らない。とにかくその呼びやすい名前はあっという間にクラス中に広がり、学年が変わってクラス替えがあっても廃れることなく呼ばれつづけた。中学へ上がって大人ぶった「陣内」になるまで、そのいじめられっ子は「侘」だった。
侘助はサイドカーの舟へ小さなバッグを放り込みながら、理一を見やる。
「おまえは呼ばなかったな」
「呼ぶ用事、なかったし」
「そういう問題かよ」
もちろん厳密にはそういう問題ではなかったのだが。
ある日いきなり家族になった侘助に、同い年の理一は最後まで心を開こうとしなかった。侘助のほうもそんな理一を敬遠しつづけた。
まともに互いの名前を呼んだのはいつが最初だっただろう。そもそも、まともに口を利いたのはいつだっただろう。ずっと「侘助が」「理一が」と三人称でしか相手の名前を言わなかった気がする。
「理一」
今はなんの抵抗もなく出てくるその単語が、あのころは二人とも、なぜか喉につかえて出てこなかったなんて。
「腹へった。早く帰ろうぜ」
ヘルメットをかぶった侘助が理一の後ろに乗ろうとした。
「なんでだよ、こっち乗れよ」
バッグが転がっている舟を指さしてやるが、彼は首をすくめただけだった。
「寒いんだよ、そっち」

休みが数日取れれば、必ず日本に帰ることにしている。
何年か前までは考えられないことだった。
今までの罪滅ぼしでもあるし、なにより侘助自身がそうしたかったから。さすがに職場のデスクに家族の写真を飾ったりはできないが、家族がとても大切な存在であることを、もう忘れたりはしない。
なつかしい玄関先で靴を脱ごうとしたとき、理一が愉快そうな顔で靴箱の上の白い花を指さした。
「この花、侘助っていうんだってさ」
「ああ、これが……」
思わず呟くと、にやにやと笑っていたのが心底意外そうな表情に変わる。
「知ってたんだ?」
「そういう花があるってことはな。でも花ってみんな同じに見えるだろ。じいさんの盆栽は枯れてたし、どんな花かは知らなかった」
亡母に、祖母に、何度か聞かされたことがある。あれはこんな花だったんだな、と興味深く眺めていると、理香が小走りに出てきた。
「あのね、それ侘助っていう……」
「知ってる」
おかえりもそこそこに言いかけた理香を制止すれば、彼女は理一と同じ顔をした。なんとなく二人を出し抜いた気がして、侘助は小さく笑う。
「あ、そうだ。それより聞きたいことあるんだけど」
侘助の予想通り、理香は覚えていた。
件のタクシーの運転手は小学四年生のとき侘助と同じクラスだった「里井」で、侘助いじめの中心にいたいわゆるガキ大将であったことが明らかになった。ついでに当時同じクラスだった子と結婚して今高校生の息子がいるらしいという付加情報まで判明したが、そこはさすがにどうでもいい。
ただ侘助にはその里井のことがほとんど思い出せないのだった。
「あー、里井……」
と手を打った理一も、名前を覚えているといった程度で、突っ込まれると「だってクラスちがったから」とごまかす。
二人ともなぜ覚えていないのかと首をひねりながら、理香は茶をすする。他に客もない屋敷で、三人は台所に集まって文字通りの茶飲み話をしていた。
「侘、って呼ばれてたじゃない」
「ああ、それ」
それだけは覚えている。クラスの大多数が呼んでいたから。逆にいえば、それだけで「里井」は特定できない。
「あたし、あれが許せなかったのよね。なんか犬を呼びつけてるみたいじゃない。ちゃんと侘助って呼びなさい、っていつも言ってたんだけど」
「……へえ」
べつに好きな名前でもなかったし、むしろ卑屈さを感じさせる名前だと思っていたから、侘でも侘助でも大差はなかった。その名で呼ばれること自体が屈辱だったのだ。
だから、理香がそんなふうに憤ってくれていたことに驚いた。同じ家で育った仲だが、こういうとき陣内の礼儀を正しく叩き込まれた彼女との差を感じずにはいられない。
「そこは気にしたことねえな」
そう答えると、理一が横から手のひらを向けて差し出してくる。
「侘、お手」
「……ああ、今初めてその呼び方にムカついた」
払うように理一の手を叩いて、それからにやっと笑い合う。
弟たちのじゃれ合いに呆れた目を向けた理香は、せんべいの袋を開けながら呟いた。
「知ってたら、椿からとった風流な名前なのよって言ってやったのに」
「いや、余計にいじめられると思うよそれは」
理一の苦笑に侘助も心から同意する。「お花の名前をつけられた」など、ただでさえ軟弱な少年にはマイナスイメージだ。
「まあでも、侘助の友だちにとっては未だに『侘』なんだから」
「友だちじゃねえよ」
そう答えながらも、とくに恨みがあるわけでもない。向こうにしてみれば、遊び仲間の一人として記憶しているのだろう。恨みつらみも、こちらが覚えていないのならそれでいいのかもしれない。
次に彼のタクシーに乗り合わせたときには、世間話につき合うのも悪くない……そのときには風流な椿の話をしてやろうかと思い、侘助はひとりでひひっと笑った。

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