ベルッチオ/バティスタン
巌窟王:ベルッチオ/バティスタン PG
がらんとした厨房に、咀嚼する音だけがせわしなく響いている。
この空虚な屋敷で、人の生きている音を聞いた気がした。
生きている音
隅の調理台を見やると、台の上に行儀悪く腰かけた彼が、パンとワインと鍋の残り物で遅い夕食を取っていた。安物のバゲットを切りもせず、そのままちぎって鍋のスープに浸しては口いっぱいにほおばっている。
「おう、勝手にいただいてるぜ」
こちらに気づくとワインでパンを流し込み、あいさつ代わりか片手を上げてみせた。
「もう少し待っていれば、作ってやったのに」
そう言いながら、たった今下げたばかりのワゴンを押していく。その上には、ほとんど手つかずの料理が載っていた。
「また残されたのか」
彼はそう言うと、またパンをちぎって皿の上のルイユをすくい、そのまま口に放り込む。
「こんなにうめえのにな」
ワゴンに載っていた魚の皿にフォークを添えて差し出してやると、なにも言わずに受け取ってがつがつと食べはじめる。決して礼儀正しいとは言えないが、いっそ気持ちがいいくらいの食べっぷりだ。少なくとも、食べてもらえずに廃棄することを思えば。
「そうやって食べてくれるのは、もうおまえだけだ」
かの主人も、その客人として迎えられている少女も、最近ではわずかしか食事を取らない。もともと二人とも食の細いほうではあったのだが、その食事量は日に日に少なくなっている。
量を減らし、口当たりのよいものを選んで作ってはみても、状況は改善されない。
彼らの苦悩は、それほどに深いのだった。少し前までは絶賛すらしていた料理が、のどを通らなくなるほどに。
目の前の彼とて、そんな主人たちの変化を敏感に感じとっているはずだ。だが彼は食べてくれる。今までと変わらずに。
「おまえの料理なら、いくらだって食えるぜ」
今はそれだけが救いだった。
主人の残り物をきっちりと腹に収めた彼は、残ったバゲットでスープも片づける。それから指についたソースを舐め、ひざからパンくずを払い落として、ワインをあおった。どうやら食事が終わったらしい。
その口元にソースがついたままになっているのを見て、思わず苦笑する。
彼には食事の作法というものがまったくといっていいほどない。そういう場で食事をする機会がないのだから当然なのだが。自分が所用で屋敷を離れているときには、近くの店でジャンクフードを買ってきてこの厨房で食べているらしい。シャンゼリゼに民間人用の店が少ないにもかかわらずだ。これでは、いつまで経っても作法など身につかないだろう。
歩み寄って顔を近づけても、彼はとくに驚かなかった。ソースを舐め取ってやると少し意外そうな顔をした程度で、すぐに背中に腕をまわしてきた。
先に触れたのはこちらだから、逆らう理由もない。それさえ、ただこうして抱き合うきっかけがほしかったのかもしれない。
彼がグラスに口をつけ、口移しでワインを与えてくるのも拒まず、ただ従順に飲み下した。ワイン室から勝手に持ち出したものだろう。ボトルから直接飲む習慣だけはやめさせたが、味までは教えられなかった。こんな高級品を水代わりに飲んでいるとは……
動物のようにこちらの口元を舐めながら、彼はぽつりと呟いた。
「最近どうなんだ?」
「なにがだ」
相手の舌に適当に応え、ワインの味を探しながら上の空で返事をする。
「伯爵とだよ。あの人はもう誰もそばに寄せつけねえ。世話させてもらえんのはおまえだけだろ。伯爵はまだ……」
言外に際どい内容を問われ、言葉に窮した。
かの主人は暇つぶしと称して、快楽に従僕たちをつきあわせることがよくあった。自分たちの関係もそこからはじまった。しかし今はその誘いも皆無となり、ただ二人だけがこうして時折戯れる程度になっている。
「……いいや。あのお方は、何者も必要とされていない」
余暇がないからではない。仕事はすべて自分たちに任されていた。伯爵は同じ屋敷にいても、一人きりの世界にいるのだ。その心は、眠ることさえ許されないほど休みなしに闘いつづけている。身の回りの世話をするために一人の家令だけはそばに置いているが、最近は言葉を交わすことも少なくなった。周囲が見えないあまり、邪険に追い払われることすらある。
だが自分は、主人の傍らにいられるだけで幸運なのだ。呼ばれることもなくなった彼には反感を持たれてもしかたがないと考えていた。
「ばっかやろう……おまえがいなきゃダメにきまってるじゃねえか……」
ひどく陳腐でありふれた、慰めにもならない言葉を囁いて、彼は調理台から下り身体を密着させてくる。反感や敵意など、どこにも見られない。彼は主人と同様に、仲間を案じていた。
「ふ……そう思っておくことにするさ」
着たままでも肌が触れ合うこの服装に、最初こそとまどいもしたが、今はその手軽さがありがたい。たやすく互いの体温を感じることができる。
彼の腰を抱き寄せながら手探りで手袋をはずし、調理台に置いた。彼だけが自分に直接触れられるのがもどかしかったから。
二人はあらためて唇を重ね、舌を絡ませた。まだ、ワインの味が残っている。
「ん……ッ」
スカーフがほどかれて床に落ちた。汚れる、と思う間もなく、上着を剥がされ黒い肩が露わになる。彼は躊躇いもなくその肩に噛みついた。
「バティスタン……ここでは……」
厨房という場に抵抗を覚え、そっと囁いてみる。だが案の定、彼はただにやりと笑っただけで聞かない。
「誘ったのはそっちだろ?」
「……ちがいない」
つられて、口の端を上げた。
どのみち、ここまできてやめることなどできなかった。
がらんとした厨房に、音が響く。
それは調理や食事といった建設的な行為ではなかったが、たしかに人の生きている音だった。この屋敷で、二人だけが生きた人間のような気がした。
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