伯爵/ベルッチオ

2004_巌窟王,[R18]

巌窟王:伯爵/ベルッチオ

不在

不自然な水音に、浴室の外で控えていたベルッチオは顔を上げた。
「……伯爵?」
静かに声をかけるが、返事はない。耳をすませて中のようすを窺っても、今度は水音さえ聞こえない。
「失礼いたします」
申しわけ程度に低く呟いて、入り口のカーテンを持ち上げ中に入った。
開放的な広い空間には湯気が立ちこめていて、向こうの壁も見えないほどに白くかすんだ世界を作り出している。
巨大な浴槽の端に、豊かな黒髪がかかっているのが見えた。
「伯爵!」
主人は白い大理石の縁にぐったりともたれかかっていたが、家令の呼びかけに肩を震わせて反応した。
「ベルッチオ……」
囁くようなかすれ声があまりにも儚げで。今にも湯に溶けて消えてしまうのではないかと、くだらない不安から彼の身体に手をかける。当然ながらその肌は透けることも指先をすり抜けることもなく、触れることができた。だがどこかおかしい。
「伯爵、おかげんが……」
腕をそっとつかんでもまったく力が感じられないことに背筋が寒くなるのを感じながら、声をかける。彼はのろのろと顔を上げたが、その瞳は焦点が定まっていなかった。
「彼が……」
「伯爵?」
不意に見開かれた目は虚空を見つめ、伸ばされた手が宙をつかむ。
「彼はどこだ? 彼がいなければ、私は……!」
濡れた髪を振り乱し、湯の中でバランスを崩した彼はそのまま後ろへ倒れかかる。
「!」
考えるより先に、着衣のまま浴槽に飛び込んで彼の身体を抱きとめていた。彼はぐったりと家令の腕にもたれ、うつろな瞳を閉じる。
「どこにもいない……私は孤独だ……」
「伯爵!」
思わずその身体をきつく抱きしめていた。
「私がおります!」
いつもより肌があたたかいのは、湯に浸かっているせいではない。彼の中の「友」がいないせいだ。彼はいつもの「モンテ・クリスト伯爵」ではないのだ。
「ベルッチオ……」
呆然とした表情を見て、自分がいかに不遜なことを口走ったかに気づく。自分など、ものの数にも入らないというのに。
「その……出すぎました……」
だが咎められることはなかった。
「……ありがとう、ベルッチオ……」
その言葉と微笑みに促され、見た目よりも薄い肩を抱いて頬にそっと口づけた。いつもどおりに。だが、彼は息をのんで目を見開く。
「ベルッ……」
あわてて顔を上げると、彼が驚いた表情でこちらを凝視していた。なにをされたのか理解できない、という様子だ。そこでようやく、今の彼が普段どおりではないことを悟る。
いつもの、微笑みながら誘いをかけてくる彼ではない。今この腕の中にいるのは、不安と孤独に苛まれる無垢な魂だった。
「っ、申しわけございません!」
「……いや、いい」
家令の恐縮ぶりが伝染したのか、彼は困惑したように眉を寄せて見上げてくる。ぎこちなく手を伸ばし、ベルッチオの首を抱き寄せるものの、視線を合わせようとはしない。
「その……いつもどおりに……」
「ここで、でございますか?」
無言でうなずく彼の頬に優しく触れると、全身がびくっと震える。そのあまりに初心な反応に、こちらがとまどった。
「……ご無理はなさらなくともよいのですよ」
だが彼は目を伏せたまま、子どものようにしがみついてくるのだ。
「いいや……私は、おまえに……してほしい……」
一言一言を、羞恥にためらいながら口にする姿は、とても本心を言っているとは思えない。普段どおりに振る舞わねばならないという義務感に、そう言わされているように見える。
だが命令は命令であり、従わなければならない。
ベルッチオは精緻なガラス細工に触れるような心持ちで、その肌に指をすべらせた。
「ぁ……」
ひそやかに、堪えきれないといった風情で、彼が吐息を洩らす。普段なら自分をからかっているのだと思うところだが、本当に声を堪えようとしている表情はなぜか却って艶めかしく見えて。平素とは違うのだと自分に言い聞かせても、やはり身体の奥が熱くなる。
湯の中の彼自身に触れると、主人はしがみついている手に力を込めた。
「やっ、ベルッチオ……」
せっぱ詰まった声に、つい手を止める。だがそれは彼を余計に苦しめるだけだと、すぐに気づいた。彼はうつむいて喉の奥から声を絞り出す。
「……いや……つづけてくれ……」
「はい」
見たことも聞いたこともない主人の懇願は、背徳感と相まって淫靡にすら感じられる。暴走しそうな自分を抑えながら、彼の中心を執拗なほどの丁寧さで愛撫した。
「あっ、ああ、くぅ……んんっ!」
コントロールのきかない自分自身に怯えるかのように、彼は必死ですがってくる。こんな恥辱はもうやめてほしいと願う一方で、早く開放されたいという欲求も抱えているのだ。だがそれはベルッチオとて同じことだった。彼を苛んでいるという罪悪感と、彼の痴態を求めている欲望と。
主従は、それぞれに引き裂かれそうな感覚に苦しみながら、湯の中で抱き合っていた。
「伯爵……」
「……んっ……ぁあ、ベルッチオ!」
長い髪を水面に散らして彼は絶頂を迎え、そして力なくもたれかかってくる。まるで糸の切れた人形のように。
ベルッチオはその身体を抱きとめながら囁いた。
「私は、いえ我々は、あなたのために生きております……どうかそれをお忘れなく……」

彼の身体を洗い清め、自身も手早く着替えと身支度を済ませて、ベッドへと寝かせる。彼は無言で、されるがままになっていた。
「ベルッチオ」
照明を落として下がろうとしたとき、あいかわらずかすれたままの声で呼び止められた。
ベッドの前へと戻り、彼の命を聞くべく身をかがめる。
「行かないで……」
家令が驚いたのを見て取ったのか、彼は気まずそうに目をそらして言葉を探し言いよどんだ。
「……その、ここにいてほしいのだ」
他に言いようがないのか、まっすぐで幼稚にさえ聞こえるその言葉は、すでに命令ではなく懇願だった。
「しかし……」
普段の彼は、必要な場合にしか他人を寄せつけない。就寝のときはことさらで、本当に眠っているのかどうかすら、じぶんたちにはわからないほどに。予想外の命令に困惑して佇むベルッチオに、彼は再び顔を向ける。
「私を独りにしないでくれ!」
「……伯爵がお望みならば」
返事の代わりに伸ばされた腕を受けて、求められるままに唇を重ねる。
彼の中に、あの魔物はいない。少なくとも今は。今だけは、自分が彼を庇護しなくてはならない。この脆弱な主人を。

ベッドサイドに椅子を持ってきて彼の顔が見えるように腰かけた。倒れた彼の看病をするときの定位置だった。
彼は顔を背けて髪をかき上げる。そのまま勢いよく散らされた髪は、弱々しく笑う彼の顔をみごとに覆い隠した。
「エデに……笑われてしまうな……」
親を亡くした、かの高貴な少女は、親以外のぬくもりを拒むかのように、召使いをも拒否する。たったひとりで豪奢な部屋で寝起きし、その人形のような瞳を不安に曇らせることは決してない。唯一心を許す主人にさえ、自らなにかを要求することはなかった。
ベッドに投げ出された手を取る。彼はこちらへ顔を向けようとはしなかったが、ただそっと手を握りかえしてきた。
「あなたは、独りではありません」
万感の思いを込めて囁く。
目覚めた彼に、凍りつくような瞳と笑みで見下ろされようとも。
たとえその視線に射られて、この命を落とそうとも。
このわずかなぬくもりを知ってしまっては、彼から離れることはできない。
「お供、いたします……」
彼とともにあることが、己のすべてなのだから。

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2004_巌窟王,[R18]

Posted by nickel