ドンブラ文まとめ。
高校生タロウが陣の布団で寝る話。健全。
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傷だらけで帰ってきたタロウを、なにも言わずに手当てする。多量の出血や骨に至る怪我はないが、こびりついた血も大きな痣も痛々しい。
彼の髪をかき上げ、首筋の乾いた血を拭き取った。そのついでを装って、耳元へ語りかけてみる。
「……逃げるのも、難しいか」
「簡単だが、逃げる理由がない。暴力が無意味だと悟れば二度と来なくなる」
半ば予想していた答えだが、こちらの返しは用意していなかった。
幼いころから、大なり小なり他人から危害を加えられることが多い子だ。なんとか避けられないかとあれこれ助言してみるものの、本人からの論破や拒否に遭い、結局いつも黙り込むはめになる。これほど弁の立つ子供を長く相手にしていながら、自分はずっと口下手なままだ。
頬の裂傷に消毒液がしみたようで、タロウは僅かに肩をすくめた。痛みを感じないわけではない。切れば赤い血が出る。他の子と変わらないのに、なぜ彼だけが……。
救急箱を閉じたとき、広い手が陣の顔を上向かせた。強い瞳と否応なしに目が合う。
「陣、なぜ泣かない」
「……っ」
いきなり触れた体温のせいで、噛みしめていた唇がゆるんでしまった。つい嗚咽が洩れたあとは、決壊した涙が頬を伝っていく。
家族を傷つけられる悔しさと悲しみは、強くなることはあっても慣れることはない。
「俺は大丈夫だ。怪我も大したことはない」
「……知ってるよ」
以前は、くり返し「なぜ泣く」と尋ねられた。殴られていない陣が泣くのはおかしいと。「かわいそう」だとか「自分のことのように感じる」などと懸命に説明したが、タロウにはついに理解させることができなかった。
そのままに育った青年は、もう不可解な涙の理由を問うのはやめ、その代わり「なぜ自分の心に嘘をつくのか」と詰めてくる。大人の見栄や意地など彼には関係ない。泣きたければ泣くべきだというのが彼の理屈だから。
「手間をかけたな。すぐ夕食にする」
鼻をすする陣を慰めも励ましもせず、タロウは台所へと立った。
風呂から上がると、テーブルが部屋の隅に片づけられ布団が敷かれている。居間が陣の寝室で、元の寝室はタロウの部屋として明け渡した。だからタロウは自分の布団だけを敷けばいいはずなのに、こうして陣のぶんまで敷いてくれる。
「髪を乾かそう」
タロウがドライヤーを持ってやってきた。
「ああ、頼む」
中年男の髪など洗いざらしで放っておいてもかまわないと思うのだが、濡れた頭を枕に乗せて気にしないのが彼としては不満らしい。何度か怒られて以来、タロウに押し切られるかたちでこうなった。
彼は美容師のような手つきでドライヤーとブラシを動かし、癖の強い髪を丁寧に乾かしている。目を閉じてされるがままになっているのが、それなりに気持ちよいのも始末が悪い。
「なあ、陣」
「うん?」
「今日はいっしょに寝てやる」
思わず目が開いたが、すぐに理由を悟って微笑む。
「……ありがとう」
人の親になるどころか、なにかを慈しむことさえ縁遠かった男は、その奇妙な子供を常に扱いかねていた。
普通の子供のように理不尽なわがままを言わない代わりに、甘えてもこないし物に釣られたりもしない。与えればそれなりに喜んでみせるが、自分から求めてくることはない。遠慮ではなく、ほんとうに必要としないのだ。
特別な技能も語る言葉も持たない自分がどのように愛情を伝えればいいのか、途方に暮れるばかりだった。
タロウが傷を負って帰ってきた夜には、自分の布団に入れてやった。世界から傷つけられた子供をひとりで闇の中に置いておくのは冷淡に思えたからだ。
しかし本人はさみしさに泣くような子ではなかった。さみしいという感情が見られなかった。因果関係がわからなかったタロウには、「陣のほうがさみしくて泣いている」と映ったらしい。背丈が陣を追い越して布団から手足がはみ出すようになっても、彼の認識は変わらなかった。
「……ダメだな、ダメだ」
不用意に涙を見せると、こういうことになる。陣は枕の場所をずらしながら完全に乾いた頭を掻いた。
狭い布団にもぐり込んできたタロウは、あたりまえのように陣の手を握る。
長い指は少し探るように掌をなぞり、しかし迷わず指を組んでシーツの上に落ちついた。
傷だらけの小さな手を、陣はいつもそうして握っていた。哀れな子供が寝つくまで。それもタロウは「陣が心細いから」と解釈したのだ。自分が小さく弱い存在だったからとは思いもしない。
実際、守る必要などないのかもしれないとはよく考える。タロウは他人に自分を殴らせた夜も普段と同じように眠るだろう。不安なのはこちらだけで、この状況も形式的な茶番にすぎない気がしていた。
彼が求めるなら、自分はなんでもするだろうに。
その子は陣になにも与えさせず、意味もわからずに手を握ってくる。
「おやすみ、陣」
その言葉のあとに、会話はない。面倒な理屈も頭を悩ませる問答も、優しい嘘も不都合な真実もなくなる。互いの存在を感じるだけの時間だ。
「おやすみ……タロウ」
組んだ指に、つい力が入った。
*
「ちゃんと洗えていない」って言って風呂場に乗り込んできそうだな…
風呂はバランス釜っぽいですよねあの団地。