セイバー文まとめ
ワードパレット17.【幸せの温度】「ふわふわ」「お腹すいた」「おとぎ話」
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筆が乗っているときの飛羽真を邪魔するのは気が引ける。かといって、寝食を忘れて没頭している状態を放っておくのも心情的に難しい。
スイーツ差し入れついでに生存確認してるから、と言っていたのは彼の担当編集者だが、近ごろは忙しくなったのかそれほど頻繁には訪れない。それが自分に対する「遠慮」であることに、賢人はまだ気づいていなかった。
いつもなら「お腹すいた」と疲れた笑顔で現れる時間帯だが、今夜はその気配もない。
店を覗いてみると、一心不乱にペンを走らせている。積み上がった原稿用紙の枚数で物語の進行状況がわかるくらいにはなっていた。神山先生は締切と字数は厳格に守るそうだから、あと十枚もないはずだ。
キッチンに戻って、ミルクパンを火にかける。中盤なら頭の冴えるコーヒーや紅茶のほうがいいだろうが、飛羽真の旅はそろそろ終わる。疲れた彼を労るには、ホットミルクが最適だった。熱すぎも温すぎもせず、ちょうどいい温度ですぐ飲めるように。
飛羽真お気に入りのマグカップに注いだところで、本人が伸びをしながら現れた。
「いい匂い」
ダイニングチェアに座り込む彼の前に、カップを置く。
「おかえり」
「ただいま」
物語の世界から。
「なんか食うか? 先に風呂でも入るか」
「ううん……まだどっちもいい。ありがとう」
長い指を温めるようにカップを両手で包み込んで、どこかふわふわとした表情の飛羽真は微笑む。
物語を書き終えたばかりの飛羽真は、たまにぐったりしていることもあるが、大概は興奮冷めやらぬといった様子で落ちつきがなかった。「ただいま」とは言うものの、日常にすぐ戻ってこないことが多い。
人気作家の、担当編集者でさえ知らない顔だった。
「ゴハンでもオフロでもないとすると、あとは……」
ふむ、と真顔になって考え込んでみせる賢人を見上げ、飛羽真は笑い出す。
「そのパターンは考えてなかった」
子供のような笑い声につられてこちらも顔がゆるんでしまう。そう、相手はおとぎ話の中を自在に飛びまわっている子供だ。
「もう寝ろよ。寝かしつけまでなら請け負うから」
「……添い寝は?」
「そうだな……」
その要望がうれしい半面、ただ抱き枕になっているあいだは忍耐を強いられる場合もあるのだが。
「流れしだいで」
「オトナの答えだなあ……」
ホットミルクの甘い香りが満ちるキッチンで、神山飛羽真はゆっくりと、富加宮賢人のいる世界へ帰ってくる。
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芽依ちゃんだけじゃなく倫太郎も最近あんまり来ない。
剣士じゃない賢人にできることっていったら主夫くらいじゃない…