麒麟がくる文まとめ
木登りの話。
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「……昔、木に登って下りられなくなったことがあったな」
夜更けの晩酌につき合っていると、故郷の話になるのが常だった。
「ずいぶんと懐かしいお話を」
「先日蒸し返されてな」
苦笑いしながら、主は杯に口をつける。濡れた唇を舌で舐めてから、こちらを上目遣いに一瞥した。それは「二人の」思い出でもある。
「下ろしてくれたのは、おぬしだった」
高い木に登れるだけではなく、すでに人より背が伸びはじめていた十兵衛を抱えて下りられる者は、その場には己より他になかった。十兵衛もそれを知っていて名を呼ぶから、ひどく焦ったものだ。
「十兵衛さまが泣きながらしがみついてきたこと、よく覚えております。木から下りてもうだいじょうぶだと皆が言うのに、頑として離れてくださらなかった」
笑みを交えて答えれば、主も愉快そうに口元をゆるませる。
「それほどに怖かったのであろう」
杯が脇へ置かれ、ふと腕が伸ばされたと思うと、正面から抱きすくめられていた。
「殿……」
広い手が伝吾の背をさする。つい抱き返した体はあいも変わらず細身ではあるが、かつての折れそうな頼りなさは微塵もない。
「母上も叔父上も、どんどん小さくなっていったが……伝吾だけは、わしよりも大きいままでいてくれる。わしを抱えられる」
高い木から下りられずに泣いていた少年は、だれよりも背が伸びて勇猛な将となり、そして今や多くを抱え多くを支える立派な幕臣となった。それでも……それゆえに、だれかに縋りたくなるときがあるのだろう。
「また、どこぞから下りられなくなったら、大声で泣いて伝吾をお呼びくだされ」
決して離れぬよう、この腕でしっかりとしがみついてさえくれれば、どんな恐怖からも守ってみせる。
「ああ、待っておるぞ」
十兵衛は笑いながら囁き、伝吾の背に長い指を食い込ませた。
遠いあの日、木から下りたときと同じように。