信四・十二四【R18】

洋画・洋ドラマ【SS】,九龍城寨之圍城

一.紫煙

 剃刀を研ぐ手の動きが、眼鏡の奥の伏せられた目元が、艶めかしく感じられるようになったのはいつからだったか。
 法の力も届かないこの狭い世界で、唯一のルールは秩序を保つこと。城砦の日常さえ乱さなければ、どんな取引も暴力も、道に外れた恋でも愛でも自由だ。道から外れるくらい、さしたる問題ではない。城砦の、日々の平和と秩序を壊しかねない欲望は認められないというだけで。
 赤い格子窓に寄りかかって、店主は声をかけてきた上階の住人になにやら答えている。秩序の番人はいつでもだれからも頼られるものだ。
 信一は素知らぬ顔で、鏡の前に置かれていた煙草の箱を、ポケットにすべり込ませた。

 診療時間はとっくに過ぎていたが、そのドアを開けるのをためらったことはない。
「よぉ」
「急患ならいつもの倍だぞ」
 患者が来たとは思っていない口ぶりで、医者は応じる。信一は肩をすくめて狭苦しい診療所に踏み込み、手近な椅子に腰を下ろした。
「なにか用事か」
「うん、まあ……新しいビデオ入ったって聞いたから……」
 曖昧な返事をしても、追い返される気配はない。
 視線の先にある画面では、男と女がせわしなく体をぶつけ合っている。見慣れてくると滑稽ですらあった。それが今は三台のテレビでそれぞれ違うビデオが再生されていて、いつもながら騒がしいことこの上ない。煙草を口から離し、信一は薬瓶の整理をしている四仔を見返る。
「これ、ハズレだったんだろ。なんで観てるんだ?」
 人捜しのために集めているというビデオは、目当ての人間が見つからなければ用済みのはずだった。
「……わざわざ金払って買ったから」
 理由にもならない理由を今ひねり出した口調で答えてから、彼はため息をついて物憂げに頭を振る。
「他の女が映ってるあいだは、彼女はカメラの前にいない気がする」
「あぁ?」
 バカか、と嗤ったものの、そうでも思い込まなければこんな愚かなことは続けられないのだろう。
「クソ野郎に答えるんじゃなかった」
 おなじみの罵声を吐いた医者は、招かざる客のほうへ大儀そうに身をかがめ、その唇から煙草を奪い取った。
「そこの鍵かけとけ」
 信一の煙草をくわえ、四仔は奥の自室へと向かう。
「おいこら、返せ」
 言われたとおりに鍵を掛けて診療室の明かりを消し、彼の後を追った。

 寝床代わりの古いソファに凭れ、信一は新しい煙草に火をつけた。診療室からはつけっぱなしのテレビから、売春宿よろしく女たちの喘ぎが聞こえてくるが、ここでは気にならない。それよりも意識を掠う状況が目の前にあったから。
「丁重に扱えよ」
「黙ってろ」
 脚のあいだにうずくまっている男は、邪魔なマスクはしていない。明かりは隣室のブラウン管だけ。信一も今さら傷だらけの顔を眺め回したりはしないが、普段は悪態しかこぼさない唇に自分の一物が咥え込まれているさまは、さすがに喉が鳴る。
「ぅん……っ」
 煙草の吸い口を噛みしめ、四仔の髪を掴んで、狭い口腔に包まれ器用な舌が舐め回す快感に耐えた。荒っぽい愛撫は慰めるというより勝負を挑んでいるようで、そう簡単に果てさせられてなるものかと意地になる。
 だがほとんどの場合、信一の意地より欲望が勝った。
「待て待て、出る……っ」
 喉の奥を突く形で腰が動くのを止められない。そのまま彼の中に精を放ってしまった。咽せながら手に吐き出した四仔は、長い髪のあいだからこちらを見上げる。
「……今日は一段と早いな」
「忙しいんだよ……」
 強がりと事実が半々だった。
 いつも揉め事ばかり。持ち込まれる厄介事がどれほどくだらなくても、また大勢の生死に関わることでも、龍捲風は平気な顔ですべて引き受けている。右腕の自分も遊んでばかりというわけにはいかない。
 悟りきった顔をしているあの人も、どこかで欲を発散させることがあるのだろうか……ふと考えかけたところで、目の前の相手に意識を戻させられた。本人に断りもなく、勝手にズボンから引き出したシャツの裾をまくり上げている。
「そっちこそ、今日は急ぐじゃないか」
「おまえがぼんやりしてるからだ」
 無防備な腹にいきなり舌を這わされて、くすぐったさに悲鳴のような笑い声を上げた。自分のネクタイを外すより先に、四仔の背に手を伸ばす。そして一枚だけ着ているランニングシャツを剥がそうとした。
 相手はかまわず腹から胸へと口づけてくる。たった今解放されたばかりの雄が、固い筋肉の谷間で擦り上げられ、早くも再び熱を帯びてきた。この刺激は柔らかい乳房よりたちが悪いかもしれない。
「この前のビデオと手順が違うぞ」
 互いの気を逸らすつもりでそんな言葉を投げかけたが、四仔は胸で信一の昂ぶりを押しつぶしながら、こちらの肌に吸い痕をつけていく。
「待てってば」
 ソファの足下に置いてあったボトルを掴む。ビデオにサービスでついてきたというローションは、暗がりの中でもえげつないピンク色をしていた。
「そっちの支度がまだだろ」
 四仔は惚けたように顔を上げた。指先で招いてやると、肩まわりに引っかかっていたシャツを脱ぎ捨て、膝立ちになる。その腰を抱き寄せて、下着の中に手を突っ込んだ。
 尻のあいだに指をねじ込む。
「っ……」
 目を伏せて耐えようとする表情が、もう充分すぎるほどに色を帯びていて、信一は思わず笑ってしまう。仏頂面の医者のこんな顔を、城砦内のだれが知るだろう。
 にやけ顔を睨みつけたかと思うと、彼は両手で信一の頭を押さえて口づけてきた。さっき精液を受け止めた口だ、と気づいたがもう遅い。匂いと味を気にしないように努めるしかない。
 信一が奥へ指を進めるたび腰がもどかしげに揺れ、重なる唇からは荒い吐息が洩れる。
「もう、いい……早くよこせ」
「だから、急いでるのはどっちだって」
 指を引き抜いて、濡れた孔に先端をあてがおうとした。だが揺れるし滑るしで、なかなか入らない。
「んっ……」
 もどかしげに信一自身へ手を添え、四仔は自らそれを誘い入れた。
「は……」
 ゆっくり腰を落としていくのを眺めていられず、太い腰を掴んでぐいと引き寄せる。
「あっ!」
 四仔が喉を反らして息を止めた。やがてこちらを見下ろした目は、欲で濁っていた。
「ほら、動けよ……見ててやるから」
「……クソ野郎」
 吐き捨てた彼は、大きく息を吐いてから腰を揺らしはじめた。
 新しいビデオは即ち、新しい絶望だ。かすかな期待を裏切られたやりきれなさを、彼は信一にぶつける。
「ぁんっ、信一、あっ」
 彼のコレクションを目にしただれもがそうするように、信一も「オカズには事欠かないな」とからかったことがある。四仔は「そんな気は起きない」と仏頂面で答えた。女に対しての欲を根こそぎ失わせるほどの喪失だったのだろう。
 今、彼の欲望はだらだらと涎を垂らして、信一の腹の上で反り返っている。
「男相手には、こんなに反応してるのにな?」
 最初にこの「遊び」を持ちかけたのは信一だが、四仔が「女優」を演じることでしか満たされないとわかってから、互いに抜けられなくなった。
 今画面の中にいる女たちがそうであるように、四仔が「代わり」になったところで彼女の現在にはなんの関わりもない。所在どころか生死すら知りようがないのに、信一より相当利口なはずの元医者は、その支離滅裂な思考によって、なんとかこの世界にとどまっているらしかった。
「……その男相手に、ここまで大きくしてるのは、誰なんだ?」
 四仔は腹に力を入れ、苦しげに目を細めて見下ろしてきた。
「ぅあっ、やめ……!」
 搾り取られる感覚に、あわてて相手の腰に縋る。彼の最奥で熱が弾けた。声にならない声を上げ、四仔がびくびくと身を震わせる。
「は……っ」
 のしかかってくる体重に潰されそうだと思いながら抱きとめた。
 隣の部屋でも女が派手に叫んでいるようだ。どれかの画面の男が、何度か同じフレーズをくり返していた。日本語だから、意味はわからない。ただ、最中に挨拶はしないだろう。シチュエーションもわからないが、少なくとも場に相応しいセリフということだ。
 信一は彼の汗ばんだ髪をかき上げ、その耳元へ聞こえたとおりに囁いた。
「『アイシテル』、四仔」
「……!?」
 一瞬の間を置いて、四仔がぎょっとした顔でこちらを見る。さぞ卑猥な言葉なのだろうと、信一はにっこり笑ってみせた。

 最後の一本を取り出し、箱を握りつぶした。この部屋に煙草はないから、ほんとうに今日最後の一服だ。
「親子喧嘩でもしたか」
 マスクなしで正面から見据えられると、腹の底を見通されているかのような不安に襲われる。相手がおかしくなっているあいだは自分の問題を棚に上げて、この男を哀れんでいればいい。だが終われば彼はさっさと正気に戻る。その冷静さで信一の些細な変化にも気づいてしまう。
「……なんで」
 四仔は床に投げ捨てられた煙草の箱を、拾ってくずかごに放り込んだ。
「おまえがあの人の煙草をくすねてくるのは、『なにか』収まらなかった時と決まってる」
「……………」
 無敵の男をどうにか困らせてやろうと思ったのは子供のころ。もう拳骨を食らわなくなった今でも、その癖は抜けない。
 いかにも年寄りが好きそうなその銘柄は、正直自分には合わなかった。それでも、あの人がずっと吸いつづけている……その指と唇に触れ、体の中を巡っているそれが、やたらに羨ましくて妬ましくて、つい手が出る。四仔の常軌を逸した思い込みをとやかく言える立場ではない。
「だから医者は嫌いなんだ」
 吸い殻を指先で弾いて、彼の首に抱きつく。
「そういえば、さっきのどういう意味だ? 日本語の。アイ……アオ?」
 もう思い出せないが、四仔の表情を変えるくらいには刺激的な言葉だったはずだ。彼は眉根を寄せて少し考え込んでから、もそもそと呟いた。
「……めったやたらに使わないほうがいい、くらいしか言えないな」
「へーえ、怖」
 真偽はさておき、完全に忘れてしまった。代わりにあごを掴んで唇を重ねる。
 相手は煙草の味しかしない口づけを拒まなかった。