信四・十二四【R18】

洋画・洋ドラマ【SS】,九龍城寨之圍城

二.雨漏り

 生きている意味などあるのかと考えながらも、惨めに足掻いてまで生にしがみついている現実を、受け止めきれなくなる日もある。
 こんな、じっとりと肌寒い雨の夜はとくに。
 四仔は天井に広がったシミの下に錆びたバケツを置いた。最上階はもっと上だが、どこからか伝ってきた雨水がこうして自分の部屋まで浸み出してくる。
 雨漏りがブリキの底を叩く規則正しい音は、四仔の心をも叩く。雫が落ちるたびに全身の傷へ響くように痛みはじめ、眠ることもできない。
 落ちる先がバケツの底から水面に変わったころ、ついに部屋を飛び出した。強くなった雨が庇に打ちつける音、それが雨樋に集まって流れていく音。こうなるとすべてが神経を苛むようになる。
 屋根のある場所を彷徨い歩いているうち、信一の部屋の前まで来ていた。だが明かりはついていない。寝つくには時間が早いから、留守なのだろう。よくあることだ。
 四仔はドアに凭れてしゃがみ込む。
 診療所を開いてから城砦のほとんどが顔見知りになった。どう広まったか、だれもが四仔の身の上を知っている。それで情報が得られるならと、今は隠してもいない。だが顔の傷とこの発作じみた衝動だけは見られたくなかった。
「ぅ……っ」
 傷が痛み、悪夢が明滅する。呼吸の仕方を忘れて、窒息しそうになる。
 いっそ苦しい生を手放してしまえば……。
「四仔?」
 いや、それではだれが彼女を救い出すのか……。
「……四仔!」
 はっと顔を上げると、いつ来たのか信一が怪訝そうにこちらを見下ろしていた。なにか答えようと口を開くが、隙間風のような音しか出ない。
「またか」
 苛立った声とは裏腹に、信一は煙草を吐き捨てて四仔を助け起こす。それからドアを開けて部屋の中へ促した。
 流行りの服にギターにレコード。そんながらくたが詰まった部屋が、若き副主管の城だ。そのどれに視線を向ける余裕もなく、四仔は目の前の背中に縋った。
「落ちつけよ、先生」
 面倒な年寄りに言い聞かせるように、信一は煙草とライターを取り出す。
 吸い込んで吐く、ゆったりとした呼吸が密着した体から伝わってきて、四仔の息苦しさも僅かに和らいだ気がした。
「独りじゃ眠れないって?」
 急に外の雨音が聞こえてくる。
「そんなに俺のベッドがいいなら、泊めてやらないこともないけど」
 安眠など叶わない。この世のどこにも安らげる場所などない。できるのは、気をまぎらわせることだけ。
「……………」
 細い腰を抱く腕に力を込め、彼の肩に顔をうずめる。
 信一は煙を吐き出し、頭を軽くぶつけてきた。人を小馬鹿にした表情が目に浮かぶようだ。
「お願いします、だろ?」
「……クソッ」
 やっと声が出た。

「女は試してみたのか」
 先日おろしたばかりだという靴を脱ぎながら、信一は尋ねてきた。彼にとっては女も靴も、さほど価値が変わらないのだろう。
「……俺には資格がない」
 大切な女ひとり守れなかった自分に「男」である資格はない。
「城砦一の色男と寝る資格はあるのかよ」
 愉快そうに覗き込んでくる顔を睨みつけた。
「黒社会の三下に犯されるの間違いだろ」
 乱暴な物言いは、気晴らしとまではいかないが、気持ちをごまかすにはちょうどいい。
「二度とそんな口がきけないよう、天国にいかせてやる」
「上等だ」
 四仔の頭を抱き寄せた信一は、慣れた手つきでマスクの紐を外していく。下着を剥がされるような心許なさはあるものの、ベッドに押し倒されるころにはどうでもよくなっている。
 相手のネクタイをゆるめようとしたが、手が思うように動かない。
「まだ震えてるのか」
 信一は自分でネクタイを引き抜いた。
「俺に集中しろよ」
 片眉を上げてみせる表情が、子供っぽくて軽薄で、むしろ安心した。
 傷つけるでもなく癒やすでもなく、嘲るでも労るでもなく。ただ「今から逃れる」ことだけにつき合ってくれる共犯者が、四仔には必要だった。そして信一にも。
「龍兄貴は?」
「古廟」
 拗ねた口調で呟き、信一は四仔の耳に噛みついてくる。
 かの男が、あの場所で夜を明かすことがあるとは知っていた。
「だれかの月命日なんだ……なにも教えてくれないけど、俺が知らないとでも思ってるのか」
 やっと信一のボタンを外せるまでには指先の感覚が戻ってきた。怠惰な生活のわりに締まった肩から、粋がったシャツを落とす。薄暗い城砦の中で生きている彼の肌は白く、場違いなほどに美しく見える。
「訊けばいい」
「今さら?」
 不機嫌な信一はかき上げた四仔の髪を乱暴に引っぱった。服を脱がせる手つきも強引になる。
「知らないほうがいいことだってある」
 過去など知ろうとせず、ただ傍らにいれば、永遠にあの人の「最愛」でいられる……ほんとうにそう信じているのなら、信一は四仔の相手などする必要はなかっただろう。
「今は俺に集中しろって言ったよな」
「させるのが『色男』だろ?」
 腰を押しつけてやると、彼は思案顔で舌を舐めて四仔を見下ろした。
 互いの目を覗き込みながらも互いに違う相手を見ている。
 信一が見ている先は言わずもがな。自分が「彼女以外は抱けない」ように、彼もまた「彼にだけは手が出せない」呪いにかかっていた。
 部屋の明かりはついたままだが気にならない。どうせ窓の外からも青白い蛍光管が不規則な瞬きを投げてきて、暗くはならないから。

 雨はまだ降りつづいているが、周囲からの水音はもう気にならない。
 ここでは安くないベッドも、鍛えた男二人にはさすがに多少の軋み声を上げていた。
 ボトムを下着ごとひざまで下ろされた姿で枕に縋る。
「ぁっ、信一……っ」
 後ろから突き上げられるたび、使いすぎたローションが己の後口から押し出されて腿を伝っていく。快感とも不快ともつかない感覚に、つい下半身が震えた。
「ひざ、力入れろよ……っ」
 見た目より強い力で腰を押さえつけ、信一は煽るように吐き捨てる。のけぞった背中に彼の汗が落ちてきた。
「信一、んっ、信一ぁっ」
 四仔は喘ぎとともに相手の名を呼んだ。世界には今、自分たち二人しかいないのだと錯覚するために。
「ははっ……おまえの中がぐちゃぐちゃうるさすぎて、雨も聞こえねえ……」
 引きつった声で嗤うのが、頭の後ろから聞こえた。限界が近いのをごまかそうとするときに使う手だ。こうなってからが本番で、二度や三度では終わらない。
 だからここへ来た。
 この哀れな男に犯されている最中だけは、自分が何者でもなくなる。ビデオの女優の真似をして、甘えた子犬のような声を上げながら媚びた仕草で腰を振るだけ。医者でも堅気でもない、男ですらない。
「クソ……ぁあっ!」
 腹の中を蹂躙されて絶頂を迎える、浅ましいだけの存在でいられた。

 四仔の背中に乗りかかってライターに手を伸ばしながら、信一は窓を見やる。
「雨、やんだな」
「……重い」
 精根尽きた信一は、自分も相手もベッドから出ることを許さない。湿った肌が離れるのを「寒い」と言って嫌がるのだ。
「女相手にも、ベタベタしてるのか」
「しねえよ。安い男だと思われるだろ」
 つれないくらいがモテるんだと主張しながらも、四仔には遠慮なく脚を絡めてくる。払いのけるのも億劫で乗られるままになっていたが、彼がシーツの上に放り出した煙草のラベルに目が留まった。
「おまえ、また……」
 いつもの銘柄ではなく、あの理髪店に置いてあるものだった。頻繁にではないが、信一は時折そういう「無駄な足掻き」をする。自分と同じように。
「兄貴には黙ってろよ」
 大ざっぱな年寄りのことだから、煙草については落としたか失くしたと思っているかもしれない。だが信一の内心についてはどうだろう。
「案外、気づいてるんじゃないか」
「それはねえな」
 屈託なく笑って、信一は枕を抱き寄せる。
 その傲慢さと自信が今の四仔には心強かった。少なくとも、気後れせずに凭れかかっていい相手なのだと思えた。

 狭い空が白みはじめたころ、診療所に戻る。
 バケツの縁まで雨水が溜まっていた。
 それを窓の外へぶちまけ、澱んだ一夜もなかったことにする。運悪くバケツの水を浴びた酔っぱらいが窓の下でひどい悪態をついていた。
 この部屋に朝日は届かないが、今日は晴れそうだ。