信四・十二四【R18】

洋画・洋ドラマ【SS】,九龍城寨之圍城

三.役立たず

 今日も信一はずっと海を見ている。
 もうそれ以上短くならない吸い殻を咥えたまま、ぼんやりと彼方へ顔を向けている。
 凪いだ海と呆けた男。動かない景色に苛立って、十二少は腰を上げようとした。だが右脚に痛みが走り、立ち上がるどころか無様に転がる羽目になった。
「クソったれ」
 起き上がるのも面倒で、倒れたまま思いつく限りの罵声を吐き散らしていると、真上に影が差す。
「むだに騒ぐな、治りが悪くなる」
「うるせえ」
 言い返しつつも、差し出される力強い腕に掴まって身を起こした。彼もあの夜、命懸けで戦い抜いた仲間の一人だ。
「次は薬を多めに持ってきてもらうよう頼んだ」
「そうかよ」
 湿気が多い、潮風が強い、足下がおぼつかない。海上の隠れ家は、怪我人には最悪な環境だと医者が言っていた。目の前に立っている医者だ。自分自身も満身創痍で、それでも毎日全員の傷を診ている。
 十二少は潮でごわついた髪をかき上げた。セットどころかしばらく洗っていない。生きているだけでも儲けものとはよくいうが、こんな惨めったらしい身分に落ちぶれることはもうないと思っていた。
 廟街を仕切る虎の若頭・十二少はもういない。今ごろ、位牌になって兄貴の背中を見つめている。城砦の抗争に巻き込まれて命を落としたということになっていた。でなければ、三人とも香港を出なければならなかっただろう。
 この廃屋に身をひそめてまで「待つ」意味があるのか。近ごろの十二少にはわからなくなっていた。

 波の音は子守歌代わりになるとしても、この揺れは時として耐えがたい。
 三人は毎晩同じ小屋で寝ていた。魂が抜けたような信一を独りにしておくのは危なっかしく、十二少は杖で歩くことさえまだ慣れていない。夜中に傷が痛み出しても、四仔がすぐ手当てできるように……。
 だが最も夜を恐れていたのは四仔だった。
「……ぁああっ!」
 真夜中、四仔の絶叫で飛び起きた十二少と信一は、あわてて灯りをつける。
「おい、どっか痛むのか? 四仔……」
 様子がおかしい。信一が震える手で彼の腕を掴んだ。
「なにか思い出したのか」
 四仔は引きつった顔で信一を見上げ、それから溺れたようにもがいて彼の脚にしがみついた。
「信一、信一、頼む……」
 十二少にはなんのことだかわからず、信一を見る。だが彼もひどく苦しそうな顔で四仔を見下ろしていて、やがて欠けた指で顔を覆った。
「悪い、今は無理だ……」
 信一がよろめきながら出ていったあと、振りほどかれた四仔は呆然と座り込んでいた。
「四仔?」
 声をかけられて初めて十二少の存在に気づいたかのように、黒い目がこちらを認めた。
「ああ……なんでもない、気にするな……」
「なんでもない? そんなに震えてるのにか?」
「触るな黒社会!」
 つい伸ばした手を乱暴に払いのけられ、怒るよりもぎょっとした。これまでは冗談にしか聞こえなかった言葉が鋭く刺さる。
 ずっと仲間だったのに。いっしょに憤って笑って、ともに死にかけ生き延びたのに。
 四仔にとっては結局、王九も十二少も同じ「黒社会」でしかないというのか。

 信一は隣の小屋の向こうにいた。
 十二少が近寄っても、短い煙草をくわえたまま水平線を眺めている。
「おい、説明しろ」
「なにを」
「四仔だよ、知ってるんだろ」
 城塞であんな姿は見たことがない。いつも憎まれ口を叩いている男が、哀れなほど弱々しく信一の名を呼び、なりふりかまわず縋っていた。
「ここしばらく……洛軍が来てからは、落ちついてたんだけどな。あの人数でやられて昔を思い出しちまったんだと思う」
「あの傷の話か」
 黒社会に女を奪われて自身も切り刻まれた、という話は有名だ。壮絶な経験だったのは傷を見ればわかる。親しくなって、この十二少がその鬼畜を成敗してやると宣言もした。友だちなら当然のことだが、四仔はまともに取り合わなかった。
「十二」
 煙を吐き出し、信一は灰を落とす。
「自分の女がAVに出てたとして、ああいう探し方できるか」
「……………」
 四仔に対して幾度も思ったことではある。
 自分なら、関係ないAVを見るだけでも怒りで頭がおかしくなるだろう。その憤りをぶつける先がないことにも、現状をどうにもできない自分にも腹が立つ。今がまさにそうだ。
「希望があるわけじゃない。自分を痛めつけるためだ。……黒社会の俺に抱かれるのもそうだった」
 四仔が、信一に。
 いつから、と問いただしそうになって飲み込んだ。気づかなかった自分が鈍いというだけのことだ。こちらも信一に打ち明けていない話はいくらでもある。それほど口が固いわけでもないこの男が守れていたのだから、なによりも秘すべきだったはず。
「わけわかんねえ……」
「俺もわかってなかった」
 信一の声は帳簿でも読み上げるかのように平坦で、無感情だった。
「思い出すタイミングが悪いと、ああやって退役軍人みたいな発作を起こす。だからあいつを『奪われた女の代わりに』抱いてやってた。AVの真似事で気がまぎれるらしい。……どうかしてるって思ってた、けど」
 実際どうかしている。自分が抱かれて女が助かるわけでもないのに。いかつい男が、AV女優の代わりに? 意味がわからない。
「今はわかりすぎるくらいだ」
 信一の声が震える。右手の包帯に血が滲んでいた。
「……ふざけんな」
 今になって、だれかにめった刺しにしてほしいとでもいうのか。これ以上、理不尽に傷つけられて気が休まるとでも? 信一が傷つけば龍捲風が戻ってくるとでも?
 小屋の戸が開いて、四仔がのっそりと出てくる。目以外は襤褸布で覆われていて表情が見えない。
「……夕べは、迷惑かけた。波が荒くて酔っただけだ」
 信一は煙草をもみ消し、感情のない瞳で四仔を見やった。
「力になれなくて悪い」
「もう言わない。怪我人はおとなしくしてろ」
 二人とも悟ったような顔でをして、ただ痛みから気を逸らしているだけだ。沸き上がってくる苛立ちを抑えきれず、十二少はぐらつく柱に拳を叩きつける。ばらばらと木っ端や土埃が落ちてくるが、だれも文句は言わない。
「あああっ! 畜生っ!」
 仲間は腑抜けと臆病風、自分の右脚は動かない。これが吠えずにいられるか。
「つき合ってられるか! 勝手にしやがれ!」
 どれほど癇癪を起こしたところで、ここから出られないことも知っていた。
 あの人が影ながらこの暮らしを支えてくれているのに、会って礼を言うことも詫びることもできない。
 傷の治りが普段より遅いのも相まって、ここだけ時間が止まっている気がした。

(つづく)