求められればいつでもお出しできます。

ほんとうは、わだかまりなどとっくに消えていたのだけれど。

KISS×KISS

相談したいことがあるから仕事の帰りにでも寄ってほしい、と電話すると、彼は血相を変えて月長館へ駆けつけてきた。
まともな勤め人なら昼休みにも遅い、夕暮れ前のアフタヌーン・ティータイムに、一般人よりはるかに忙しい身分の彼は「時間が空いたので」といかにもとってつけた言い訳をしながら現れる。少しも急かしていないのに。
「まずはお茶をどうぞ」
勧められるままにソファに腰を下ろし、紅茶に口をつけはするが、焦りは隠しきれていない。
その問いたげな視線を無視して彼の隣に座る。心なしか、彼が肩を引いたような気がした。
「今、あげはたちは修学旅行なんです」
「ええ、聞きました」
関係ない世間話だと思っている。だからこちらも世間話の口調でつづけながら、ティーカップに手を伸ばした。
「正和が此衣くんを連れてくるはずだったのに、そのままお友だちみんなで遠出してしまって今夜は帰らないというんです」
「はあ」
神妙にしてはいるが、合コンマニアの大学生たちの話を聞きにきたわけではない、といった顔だ。
「それで、相談というのは……」
いいかげん焦れてきた彼がこちらを向いた。応えて、視線を合わせる。
「今夜の食事を、どうしようかと。一人ではさびしいですし」
「え……?」
驚き、呆れ、そしてそのあとに、落胆と憤慨。目の前の表情がおもしろいように変わっていく。
「そんな……」
そんな些事のために、あなたを呼びつけたのですよ。
そう言ったら本気で怒り出すだろうか。だから仕事が終わってからでいいと言ったのに。
彼はむりやり視線を外し、宙を見つめながら呟いた。
「……安心しました」
「え?」
今度はこちらが首をかしげる番だった。
「あなたか、あなたの大切な人に、なにかあったのではと……」
脱力した状態でソーサーにカップを置こうとした彼は、声の震えとともに手元を狂わせる。
「あ」と思ったときには、アンティークのティーカップは床の上で割れていた。いつもなら受け止められていたかもしれないが、彼の言葉に気をとられていたせいで反応が遅れた。
「すみません、大切なカップを……」
あわてて身をかがめる彼に、一拍遅れて手を伸ばす。
「ああ、私がやりますから、触らないで……」
相当あわてていたにちがいない。不用意に破片をつかんだ彼が顔をしかめる。今度は「あ」と思う間もなかった。
「ほら、だから言ったでしょう」
指先にすっと一筋、赤い線が走ったかと思うと、鮮やかな珠となって皮膚の切れ目からあふれ出した。
彼をソファに押しもどしてその手を取ったときには、迷いなどなかった。まっすぐこちらの口元へ運ばれる自分の手を、彼は目を見開いて凝視している。
「……っ」
舌の先で、指がひくりと痙攣した。それだけでもひどく官能的で、煽られるままに肉を噛んで血を啜る。血の味を楽しみながら彼の表情を観察すれば、息を止めているのがよくわかった。
三時のおやつにふさわしい程度の血液を彼から奪い、血の止まった傷痕に口づける。
「さっきの話ですが……もし時間とその気があれば、今夜おつき合いいただけませんか? 私の手料理くらいしか出せませんが」
「あ、いや……」
ようやく呼吸を思い出したらしい彼は、目を泳がせつっかえながら答えた。
「仕事を終わらせてからでないと……何時になるか……」
歯切れの悪い返事は、最後の逃げだろう。彼は忘れているのだ。自分が捕食者の牙にかかった獲物であることを。
「何時までも待ちますよ……私たちは夜のほうが目が冴えるんです」
ナプキンで指を拭いながら微笑みかけると、彼は怯えたように手を引っ込める。
「忘れなかったら、来るかもしれません」
どこまでも、素直ではない答え。
遠ざかる車のエンジン音を聞きながら、窓辺にもたれて午後のやわらかな日差しに目を細める。
胸にあるのはわずかな罪悪感と、意地の悪い独占欲と……それから身を焼き尽くしてしまいそうな、苦しいほどの期待だった。

「あの人」へのわだかまりなど、とっくに消えていたのだけれど。
あなたがあまりに似ているからつい夢を見てしまう。果たせなかったあの想いを、今度こそ……と。
それがどれほど、あなたと自分を苦しめることになろうとも。


で、イイカンジになったところでバカ和がナンパ失敗して「腹へったー」って帰ってくるわけですな。

(by NICKEL, Oct, 2010)