求められればいつでもお出しできます。

いきなり呼びつけられるのはいつものことだ。
そして、気まぐれにしか思えないその周期にも規則性があることはすでにわかっていた。カレンダーを確認してあたりをつけるのも、そう難しくはなくなっていた。

白い眩暈

妙に眩しい満月の夜。
呼び出される場所はとくに決まっていないし、こちらに任されることもある。その日は、飾り気のないビジネスホテルの一室だった。
その部屋に似つかわしくない芳香の正体は、窓際に無造作に置かれている大きな花束だ。眩暈がするほど立ち込めたその香りに気押されして、思わず曲がってもいないネクタイを直す。
多忙な人間を駆けつけさせた男は、ぼんやりと椅子に座って目の前の鏡を見つめている。いや、見てはいない。鏡に男の姿は映っていなかった。
「追加分の血液です」
床の上に乱暴に置いたクーラーボックスを、彼は長い前髪のあいだからちらりと見やる。その目には微塵も感情の揺れが感じられない。
「ありがとうございます……」
深くため息をついて再びうつむく姿に、胸の奥のなにかが疼きかけた。
「……早く、済ませましょう」
黙って立ちつくしているのも間抜けに思えて、コートを脱いでベッドの上に放り投げる。だが、彼は弱々しく微笑んで、ワイングラスを掲げてみせただけだった。
「まずは、飲みませんか」
「…………」
理由はわかっている。気遣いではない。あの花束も、このワインも。忌々しく思いながら、グラスを受け取った。
本来の仕事が終わったあとに要請された品物を調達してまっすぐここへ来たから、食事などする時間もない。空っぽの胃へ流し込まれたワインは眩暈をさらに加速させる。立っているだけでも、すでに世界がぐらつきはじめていた。
だがこれでいい。これで、お互いに苦しむことなく……
「道隆さん……」
彼が顔を覗き込んでくる。その瞳には、もう憂いは見られなかった。狂気にも近い飢餓に支配されていた。
「!」
自分でゆるめかけていたネクタイを慣れた手でほどかれ、Yシャツのボタンも手早く外されていく。異常なまでに温度の低い手が肌に触れるたび、すべてわかってはいても恐怖で身がすくむ。
「ん……」
声が洩れそうになって唇を噛んだ。
首筋に、やわらかい唇が押し当てられたから。まるで愛しい相手に口づけるかのように。そして冷たい舌までもが触れる。まるで情交の前戯のように。
熱を持ったその場所に、彼の犬歯が食い込むのを感じた。
痛みはほとんどない。
彼が抱えてきた大きな花束の芳香も、勧められるままに空けたワインも、すべてこちらの感覚を鈍らせるため。このまま眠り込んでしまえば、いっそう好都合なのだろう。
「ぁ……っ」
震えるひざは、もう自重を支えてはいなかった。相手に縋ろうとする手にさえ、力が入らない。彼が抱いていてくれなければ、とっくに床の上に転がっていただろう。
傷口の血を一舐めして、食事を終えた彼が顔を上げる。だがその顔は霞んで、よく見えなくなってきていた。
「道山……」
薄れゆく意識の中で、彼がうっとりと呼びかけてくるのが聞こえる。だがその名は……
苦しいほどの苛立ちと哀しみをぶつけてやりたいのに、手足の先まで痺れて動いてくれない。
憎たらしい男の顔を見上げながら、最後の気力で口を開く。
「満足、ですか……」
血に濡れた唇が答えを紡ぎ出す前に、すべてが真っ白になった。

気がついたときには、ベッドの中にいた。
薄暗い室内で光るデジタル時計は、空白の時が2時間程度だったことを教えてくれる。
「おはようございます……というのもおかしいですね」
彼が椅子に座ってこちらを見ている。眼鏡をかけ、優しい笑みを浮かべて。
部屋は換気されたらしく、役目を終えた花束も無造作に屑籠へ放り込まれていた。脱ぎ捨てたコートとスーツも、きちんとしわを伸ばして掛けてある。
「だいじょうぶですか?」
「……ええ」
身体を起こしてみたが、だるさが残っているだけで痺れはもうない。噛まれた部分を探ってみても、血はすでに止まっている。傷もシャツの襟でうまく隠れてくれそうだ。
「…………」
そろそろ慣れてもいいころなのに、まだ少しも慣れない。
満月の夜が来るたびに呼び出しを待っては落胆し、呼び出されて来てみれば、こうして立てなくなるまで貪られる。おまけに、彼が呼ぶのは……
「道隆さん」
彼はベッドの端に腰掛け、顔のほうへ手を伸ばしてきた。思わず身を引きかけると、くすりと笑って指先でひたいの髪を横へかき上げる。その手を払いのけようと動いたつもりが、なぜか握っていた。
彼は驚いたように動きを止めたが、すぐに目を細めてこちらを覗き込んできた。
「どうしました?」
再び眩暈が襲ってくる。頭がぐらぐらして、正常に働かない。だから、返事も脈絡のないものになる。
「今夜は……優しいですね」
「そうですか?」
ゆっくりと笑みが近づいてくる。これは、狩りのつづきなのか。それとも……
そっと重ねられた唇を、おそるおそる受け入れた。

絡みつく舌は、血の味がした。

(by NICKEL, Mar, 2008)


せめて捕食関係だったらいちゃいちゃできるかと思ったんですが、よけいに道隆さんがかわいそうになっただけでした。
ていうかこの場合、エサの道隆さんにこそ、レバーだのなんだの手料理食わしてやったほうがいいと思いますがどうでしょう、きよいさん。