求められればいつでもお出しできます。
冷たい手が、頬に触れる。
獣のようにこちらを抑え込んだ相手の目には、どこか恍惚とした光が宿っていて。
声を発する機会を逸したまま唇だけを震わせていると、彼の唇もまた、音を出さずに動いた。ただ微笑んだだけなのに、つい見とれてしまう。
重ねられた唇も、手と同じくぞっとするほどに冷たかった。
月夜の狩人
彼に依頼するのは極秘の仕事だから、呼び出す場所も必然的に個室になる。
「遅れてすみません」
下の子を寝かしつけていたもので、と母親のような口ぶりで言いながらコートを脱ぐ彼を、苦々しい気持ちで眺めた。
「正和くんは?」
それでも、つられて世間話の口調になってしまう。そんな自分を見て、彼は前髪を揺らし微笑んだ。
「……狩りに」
一瞬、意味がわからず彼の顔を見つめてしまった。
「今夜は、満月ですから」
「あ……」
見た目は同じでも、彼らは人間ではない。人間を餌とする種族だ。本来ならば彼らの行動を阻止するのが自分の役目なのだが、その卓越した能力と引き換えに自由を保障している。そう、優位なのはこちらのはずだった。
「それにしても、ホテルなんて珍しいですね。しかもこんな時間に……」
意味ありげな流し目が、言外の意味を伝えてくる。彼の前で動揺したときの常で、正位置になっているはずのネクタイを直していた。
「妙な誤解はやめてください。今夜はここに泊まるから、手間を省いただけです」
「お一人で、ですか?」
「あなたとちがって家族などいませんから。家に帰るのが億劫なときは、ホテルに泊まるんです。家のベッドよりよく眠れますから。おかしいですか?」
苛々と事実を告げると、彼の顔から笑みが消える。
「……いいえ。あなたらしいですね」
愁いを含んだ目が伏せられ、さらに落ちつかない気分になった。気まずさを紛らわせようと用意していたワインのボトルを手に取ると、その手を押さえられる。反射的に手を引いていたのは、死人のような冷たさに驚いたせいか、それとも。
「私がやりましょう」
「……お願いします」
ネクタイを直しながら、彼が器用にボトルの封を切り、グラスに赤い液体を注いでいくのを眺める。その色は、いやでも血を連想させた。
「あなたは、行かないのですか」
「どこへですか?」
彼の正面に座っているのが耐えられなくなり、グラスを手にして立ち上がる。
「狩りに、です」
言いながら、大きな窓へと歩み寄る。眼下には美しい夜景が広がっているが、目はどうしても窓に映る室内のほうへ向いた。
窓に映る彼は、軽くこちらへグラスをかたむけてから口をつける。
「行きますよ。用事を終えてここを出たら、すぐにでも」
聞かずともわかりきっていたはずだった。彼はそういう種族なのだ。
高いワインをろくに味わうことなく喉へ流し込む。
「……治安のため、私はあなたを朝まで拘留すべきでしょうか」
だがそんな権利は自分にないということも、よくわかっていた。案の定、彼はくすくすと笑っている。
「それは困りますね……あなたを襲うしかなくなります」
鏡像の彼からふと目を離した瞬間、声の距離がすぐ背後に切り替わる。はっとふり向くと、息がかかるほど近くに彼が立っていた。頬に、冷たい唇が触れる。
「…………!」
グラスが手からすべり落ち、厚いじゅうたんの上にワインのしみが広がっていく。
「そんなに怖がらないでください」
おかしさを噛み殺すような声にむっとして、つい声を荒げた。
「怖がってなどいません!」
いつもはあまりこちらを見ない目が、まっすぐに覗き込んでいる。目をそらしたかったが、怯えていると思われたくなくて睨み返した。
「……いいでしょう。一回献血したと思うことにしますよ」
「道隆さん……?」
その答えは予想していなかったらしい。怪訝そうな顔に気をよくして、ぐっと胸を張った。これは治安を守る者としての義務だと、自分に言い聞かせながら。
「腕でも出せばいいですか? 右と左、どちらが……」
カフスを外そうとした腕を引かれ、彼の胸に倒れ込んだ。
予想もしない力に暫し呆然としていたが、抱きしめられているのだと気づいたとたんに鼓動が速くなる。
すぐ耳元で、彼の低い囁き声が聞こえた。
「ほんとうに、かわいげのない人ですね……」
言われていることは普段と同じはずなのに、その声音に肌が粟立つ。彼は眼鏡を外し、光る目で獲物を見据える。
「ベッドへ行きましょう……きっと、あなたは立っていられなくなるから……」
それはこの上もなく甘い誘い文句だった。
冷たい手が、頬に触れる。
獣のようにこちらを抑え込んだ相手の目には、どこか恍惚とした光が宿っていて。
声を発する機会を逸したまま唇だけを震わせていると、彼の唇もまた、音を出さずに動いた。ただ微笑んだだけなのに、つい見とれてしまう。
重ねられた唇も、手と同じくぞっとするほどに冷たかった。
息苦しさに思わずネクタイへと手を伸ばすと、ワインのときと同じ展開が待っていた。
「私がやりましょう」
だが、「お願いします」とはさすがに言えない。無言で顔をそむけると、彼は微笑みながらていねいにネクタイをゆるめて外していく。
そして、引き抜いたネクタイをこちらの右手に巻きつける。なんの儀式かと問おうとして、左手を取られたときに気づいた。だが、もう遅い。人間離れした筋力と速度に敵うはずもなかった。
「……!」
両手首をネクタイで縛られ、呆然と彼を見上げる。
「……どういうことですか、これは」
「趣向です」
ひじを押されるだけで、両腕が頭の上に追いやられてしまう。無防備になったシャツの前を、彼はていねいにボタンを開けてはだけさせていく。
「は……っ」
自然と息が荒くなる。いつどのように血を吸われるのかという恐怖が、背中のあたりを行き来しつづけていた。
「もう……いいですから、早く……」
早く、食事を終わらせてくれ。そう懇願したつもりだった。
「仕方のない人ですねえ」
そう言うと、彼は指先で前髪を払いのけ、顔を近づけてくる。
「っ!?」
いきなり口をふさがれたかと思うと、手が裸の腹を下りていく。スラックスの中にゆっくりと這い込んでくる手が冷たくて、それだけで身体が跳ねる。
払いのけたくても腕は縛られている。抗議したくても口はふさがれている。無意味と知りつつもがいているうちに、細い指がためらいもせず陰茎に絡みついてきた。
「ん……んうぅ……!!」
抵抗も罵倒もできないうちに、僅かな時間で吐精させられていた。全身を突き抜ける衝撃は、今まで得たことのないほど激しい快感だった。
「……っ」
屈辱と羞恥に息苦しさも手伝って、声も出ない。ただ、満足そうな微笑を睨みつけることしかできない。
「なぜ、こんな……」
息切れのあいだから必死に問いかけると、とろけそうな笑みが返ってきた。
「満月の夜は、なにもかもが渇くのです。血を求め、快楽を求め、自分にない人間のぬくもりを求め……」
ようやく、彼の「狩り」がどういうものかを理解する。血を吸うだけではない。彼らは、血が流れる身体をも欲しているのだ。
「私を……どうする気ですか」
彼は答えず、にっこりと微笑んだ。
「痛くしませんから、安心してください」
「そういう問題では……!」
だが彼の指が再び下腹部に触れると、二の句が継げなくなる。身体はたった今与えられた快楽を再び求めていた。下をすべて脱がされても、まともな抵抗などできなかった。
これほどの恥辱はない、と唇をわななかせたが、次の瞬間さらに上があることを知る。
「なにを……っ!?」
だれも触れたことのない場所へと、指が入り込んでくる。その行為がなんのためのものかわからないほど、世間知らずでもなかった。
「もっと、力を抜いてください」
「やめ……っ、んぅ……」
みっともない声が洩れそうになって、必死に唇を噛む。指はその狭まりから拒絶されていることにも頓着せず、器用に蠢いて奥へと侵入していく。
「唇……切れますよ」
なにを言われているのか理解する前に、あごへと軽く口づけられる。くすぐったさに口元がゆるんだところへ、爪の先が中のある一点をかすった。
「あ……あぁ……!!」
突き上げる快感に腰が浮く。
「ほら……痛くないと言ったでしょう……力を抜いて……」
「ぃ、いやだ、こんな……ぁあんっ!」
あがく手首にネクタイが食い込む。不自然な体勢をとらされた腕は、痺れて感覚がおかしくなりかけていた。痛いのかどうかもすでに定かではなかったが、身体がその感触を不快に思っていないことが絶望的だった。
「もう、やめてくださ……っ」
頼みながらもそれが決して中断されないことはわかっていた。それどころか望んでさえいた。肌は彼の低すぎる体温に慣れて、触れられるたびにじわじわと熱を帯びていく。
「ぅ……」
首筋に彼が顔を埋めると同時にかすかな痛みを感じたが、気にはならない。それよりも、押し当てられた熱い昂ぶりに意識のすべてが集中していた。どこもかしこもすべての皮膚が冷たい男の、唯一人間並みに熱を持った部分。それが、他のだれでもなくこの自分に向けられている。
「怖がらないで……私にあなたをください……」
「……………!!」
悲鳴は、彼の唇に飲み込まれた。
「道隆さん」
目を開けると、彼の顔が真上にあった。欲求が満たされて憎たらしい笑みでも浮かべているかと思えば、どこか苦しそうに眉を寄せている。
「満月とわかっていて、私を呼び出しましたね」
「……………」
答えたくても、喉がかすれて声が出ない。だがしゃべれたとしても、この問いに答えることなどできはしない。
「そんなに私の自制心を崩したいのですか」
崩したいというなら、自分自身の自制心だろう。あるいは、彼の中にまだ存在している男の面影。
それさえなくなれば、もっと素直に彼を受け入れることができるのだろうか。彼も、こんなまわりくどい方法をとらずに、気持ちを打ち明けてくれるのだろうか。
「道隆さん、私は……」
不意に眩暈が襲ってきて、抗えずにまぶたを閉じる。
冷たい唇が優しく頬に触れた気がしたが、闇へ落ちていく身に夢か現実か確かめるすべはなかった。
(by NICKEL, Aug, 2009)
避妊具もなしで不特定多数の相手と接触し、あまつさえ血液を経口で……
となると感染症的な事態を本気で心配してしまうので、吸血鬼モノはやっぱりイロイロたいへんだと思いました。