キング/ノッさん
『自分が先に惚れたと思ってるか?』
疲れていたのだろうか。枕に頭を置いてすぐに寝息を立てはじめた人間を、むりやり起こそうとは思わない。
ダイゴは傍らに座り込んで、ノブハルの寝顔を眺める。
いつもと同じ顔には、しかしヒゲがなかった。
本人曰く「久しぶりにスーツを着る用事があって」、無精ひげを剃り伸びっぱなしの天然パーマを撫でつけ仕事をしていたらしい。もともとそういう人種だったはずなのに、彼はネクタイが苦しいと言って苦笑してみせる。本当は昔の姿を今の知り合いに見られるのが気恥ずかしいのだと、優子がこっそり教えてくれた。
妙に若々しいその顔を見つめているうち、自然によみがえってきた記憶があった。
ダイゴは頬をゆるめ、いつもより硬いノブハルの髪をそっと撫でた。
空気が乾いた、寒い国だった。夜ともなれば冷たい空気は凶器にも等しい。
「このガキ、売りもんに手ぇつけやがって」
露店の横で恰幅のいい男が三人、一人の少年を取り囲んでいる。
「とってねえよ」
小柄で手足の細い少年……桐生ダイゴは、頭上から睨みつけてくる顔をぐるりと睨みつけた。
盗みなどしない。この自分がそんなことをするわけがない。だが、目の前の男たちはまるで信じていないようだった。
「嘘つけ!」
怒鳴られても怖くはなかった。自分は悪いことなどしていないのだから、怯える必要などない。ダイゴは両の拳を握りしめ、男たちに向かってあごを上げた。竜の子は、恐れてはならないのだ。
「生意気なガキが……」
正面の一人が腕を伸ばしてくる。胸ぐらをつかまれそうになったとき、ダイゴは後ろから思いきり襟首を引かれてよろめいた。すぐそばにいた三人が不意に遠のいたように感じる。
「え……」
目の前に灰色の影が差した。仕立てのよさそうなコートは、こんな露店街には場違いな服装だ。
「どういう理由でも、子供に暴力はいけない」
ネイティブではない発音から、旅行者だろうとダイゴは思う。だとしたら、こんな痩身で屈強な男三人に敵うはずがない。このあたりの道だってよくわからないだろう。
「おい……」
逃げたほうがいいと警告しようとしたとき、ダイゴを助けた人物がふり返った。思ったとおりに若くて優しそうな……
「おいで!」
青年はダイゴの手を掴む。
「待て……っ」
つかみかかってきた男二人の胸を、彼は片手で押しやった。ただそれだけで、男たちは大きくよろめいて一人は尻餅までついてしまった。
「さあ!」
この男は強い。見た目どおりではないと瞬時に悟ったダイゴは、うなずいて彼の手を握り返す。
旅行者も多い表通りまで、二人は全力で走った。ダイゴの全力に、青年は遅れることも速すぎることもなくきっちり合わせていた。
ようやく立ち止まったダイゴは、初めて彼と向きなおる。上品なコートとマフラーの下はスーツらしい。おそらくは仕事でこの地を訪れている、たぶん日本人。
「おれ一人でもなんとかなったのに」
ダイゴは口をとがらせて日本語で言う。相手の目が驚きに見開かれた。
「きみやっぱり日本人だね? 保護者の人は? 家かホテルはどこ? どうしてこんな時間まで……」
よく訊かれる。
いささかうんざりしながら、ダイゴは精いっぱい胸をはった。
「もう何年も、ひとりで世界中を旅してる。今日寝るとこはこれから探す」
「えー……」
呆れたような、困ったような顔で彼はしばらくダイゴを見つめていたが、やがて頭を掻いてしゃがみ込んだ。二人の目線が逆転する。
「ねえ、小さな旅人くん。ぼく仕事で来てるんだけど、同僚が体調崩して急に帰国しちゃって、ホテルのベッドがひとつ空いてるんだ。よかったら、使ってくれない?」
金がかからずにベッドで寝られる。しかし、似たような誘いを受けて危険な目に遭ったこともある。助けてくれたことは事実だが、この男はどちらだろう。
ダイゴは相手の目の奥を覗き込んだ。その判断には3秒もあれば十分だった。
「ありがと!」
「こちらこそ」
彼の手が、ダイゴの細い手を握る。ダイゴの好きな、強くて大きい大人の手だ。握り返すと、彼は優しい笑顔を向けてきた。
「明日、朝一番に大使館に行こう」
ホテルの部屋で、さっそくベッドにもぐり込むダイゴに向かって彼は言った。しかしダイゴが返事をする前に、彼の携帯電話が鳴る。
「ちょっとごめんね……」
遠くに彼の声を聞きながら、ダイゴは布団の中で目を閉じて考えていた。
大使館に連れていかれたら面倒なことになる。彼が起きる前に、こっそり部屋を抜け出すしかない。彼は心配するかもしれないけれど、置き手紙でもしていけばだいじょうぶだ……
やがて長い電話が終わったらしく、身体の上に羽布団が掛けなおされた。
「おやすみ……」
優しく囁かれた言葉に、夢の中へ入りかけていたダイゴは笑みで答えた。
真夜中に目が覚めたダイゴは、身を起こしてすぐ夜の冷たさに身を震わせる。今はまだ出ていけない。雪はまだでも夜の寒さは命に関わる。せめて夜明けまで……
枕の上に放り出された頭と、手を眺めた。あたたかくて、力強い手。
凍えた少年は自分のベッドを下り、静かにもうひとつのベッドへもぐり込む。
「ん……」
眠っている青年が、へらりと笑う。楽しい夢でも見ているのか。
ダイゴは暗闇の中で彼の寝顔をじっと見つめ、その手におそるおそる触れた。大きな手が握り返してくれる。
ひとりでも怖くはない。さびしくもない。自分は竜の子だ。それでも、寒くて凍える夜はある。握った手の熱に泣きたくなる夜もある。
ダイゴは目をこすり、両手で大人の手を握った。
翌朝、かのビジネスマンが目覚めたとき、少年は次の街へ向けて旅立っていた。
ダイゴはゆるみっぱなしの頬に手を当て、自分のひざにひじをついてノブハルを眺める。
「自分が先に惚れたと思ってるか?」
熱い眼差し。好意を超えた好意。独占欲と激しい執着……ダイゴにとっては世界中どこにいても当然のように与えられるもので、決して特別なことではない。仲間として出会ったノブハルがひどく控えめに向けてきた感情も、大勢のそれと変わらなかった。
だが、ダイゴは慈悲や博愛など持ち合わせてはいないのだ。愛する相手はこの自分が決める。相手が自分のほうを向く前であっても。
「なあ……親切なお兄さん?」
ノブハルはごろりと寝返りを打ち、目を閉じたまま楽しそうな顔で笑った。
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