イアン/ノッさん
『ノッさんって、ズルイよな』
ダイゴはカップを逆さまにして底に残った牛乳を舌の上に落としながら、彼らを横目に眺めていた。
未成年組がいないのをいいことに、イアンはノブハルが座っているスツールにむりやり尻を割り込ませ、結果二人は不必要に密着している。ノブハルの腰に巻いたつなぎの袖をイアンがしっかり掴んでいるから、逃げることもできない。
ノブハルはため息混じりで、すぐ横まで迫っている顔に尋ねた。
「……暑くない?」
「おれはいつでもホットだぜ」
「ぼくはホッとできないんだけど」
ノブハルが本気でいやがっているわけでないのは明らかだ。かといって、完全に受け入れている様子もない。のらりくらり、表情ほどには困っていない態度でかわしている。
メンバーの半分は知らないだろうけれど、こんな状態が少し前からつづいていた。
ダイゴが把握しているのは、イアンがまちがいなく本気でノブハルに好意を寄せているということ。一方のノブハルもそれを憎からず思っているが、一線を超えさせるまでには至っていない……ということ。
「愛してるって」
「はいはい」
どうしてそんな上辺だけのやりとりをしているのか。はじめのうち、ダイゴは不思議でならなかった。だがすぐに、二人の性格がこの膠着状態を作り出していることに気づいた。
「キング、黙って見てないでさ」
「キングは人の恋路をジャマしたりしねえよな?」
二人が話を振ってくるが、にっと笑ってみせるだけにとどめる。手助けが必要なら、求められていなくてもむりやり介入するのはやぶさかではない。しかし確実に、今ではない。
ノブハルが腕時計を見る。イアンも横から覗き込む。
「ボーイもアミィちゃんもまだ来ねえぜ」
学生たちは本分に励んでいる真っ最中だ。空蝉丸はトリンとどこかへなにかを検分しにいっているらしいが詳しいことは聞かされていない。昼間からスピリットベースで過ごしているのは、暇人三人だけだった。いや、二人か。
「ちがうよ、そろそろお仕事。今日は中途半端に時間空いちゃってね」
ノブハルがここにいたのは、仕事の合間の時間つぶしだったらしい。それを聞くと、イアンもしぶしぶといった顔で拘束を解いた。自由になっても、彼はすぐに立ってイアンから離れたりはしない。二人の距離はほとんど変わっていない。
それがこの「問題」の「解答」なのだと、ダイゴは思っている。
「今日はなんだ?」
訊いてみると、ノブハルは愉快そうに眉毛を動かした。
「改装前のカフェのお片づけ。……手伝う人!」
「行くー!」
ダイゴは元気に手を挙げた。一方のイアンは、さっと立ち上がって定位置のベンチに向かう。
「おれは遠慮しとく」
ノブハルといっしょにいたいのなら来ればいいのに、とダイゴは思ったが、口には出さなかった。
たぶん、働くのがいやなのではなくて。
イアンは「仲間ではないノブハルの領域」に立ち入ることを恐れている、とダイゴの目には映る。互いが傷を負うほど深く踏み込まない、それがイアンのやり方で、だからこそ百発百中……とまではいかないが高い成功率を誇っているのだろう。彼はそういう恋しかしてこなかった。他の方法論を知らないのだ。
ノブハルもそれをわかっているから、彼を誘うことはしない。ただじっと待っている。イアンがプライドもアイデンティティもかなぐり捨てて、自分のほうへやってくるのを。
イアンが一方的に押しているように見える駆け引きは、実際のところノブハルペースで……動いてすらいない。彼の剛腕で完全に止められている。
問題は、相手がそれに気づいていないということだが……
スピリットベースを出てすぐ、ダイゴは言わずにはいられなかった。
「ノッさんって、ズルイよな」
きょとん、とした顔は、論点を理解するとすぐ笑みに変わる。照れ笑いにも似ていたが、どこかさびしげでもあった。こういうとき決して悪い顔などできないのが、彼の本質なのだと思う。
「イアンには、ナイショだよ」
「おう」
これは二人の問題で、ダイゴが口を出すべきものではない。イアンのやり方が悪いと決まったわけではないし、ノブハルが先に折れるかもしれない。どっちにしても、傍観者に発言権はない。ただ、思ったことを言っておきたかっただけだ。
駐車場へ向かいながら、ノブハルは苦笑気味に語った。
「この歳で非生産的なお付き合いを始めるにはさ、相当な覚悟が必要なんだよね。でもそれ言っちゃうと、なんかおじさんくさくてイヤじゃない? ぼくまだ32だし」
ダイゴやイアンが思っているよりも、ノブハルの心理的ハードルは高い。年齢と性別だけでも、彼の常識の範疇からは外れているのだ。そこを乗り越えようというのだから、イアンの挑戦はかなりの冒険といっていい。
「それくらいは言ってやってもいいんじゃねえか?」
「それくらいは気づいてほしいのが、奥ゆかしい日本人ってやつですよ」
あの男に「奥ゆかしさ」を理解しろというのは酷な話だが、ノブハルも必死なのだろう。自分からは動くことができず、ただひたすら、想いを表すことさえ耐えて待ちつづけている。彼もまた、そんな恋しかできなかったのかもしれない。
軽トラに乗り込んでから、ノブハルはシートベルトにかけた手をふと止めて、窓の外を見やった。助手席に乗っていたダイゴもつい同じ方向を見たが、とくになにもない。
「ノッさん?」
「どうせイバラの道なら、キングを好きになればよかったな」
「……!」
目を大きくしたダイゴに気づき、ノブハルは必要以上におどけた顔で笑ってみせた。
「ごめんごめん、いっつジャパニーズジョーク!」
「や……」
ダイゴは腹の底からこみあげてくる笑いをなんとか噛み殺した。
今すぐイアンに教えてやりたい。
他の誰でもない、かけがえのない相手への想いに囚われてしまったとき、だれもが言うのだ。「キングならよかったのに」と。敏くて話が早いダイゴが相手なら、こんなに苦しい想いはしなくて済むのに、と思うらしい。
そんな自分の立ち位置が、ダイゴは決して嫌いではなかった。人がこの世で最も甘美な苦悩に浸っている場に立ち会えるのだから。
静かに呼吸を整え、何事もなかった顔でシートベルトを締める。
「悪ぃな、おれムネあるのがいい」
「はは、ぼくもだよ」
ムネさえあれば下はついててもいいや、まではさすがに言わなかった。ここでノブハルを余計に混乱させることはない。彼も自身の常識から解き放たれようと懸命なのだ。
覚悟も想いも同等で、ただ方法論だけがちがう。ダイゴにはどちらのやり方も共感できないけれど、二人が相手の壁に気づき、自分の壁を壊す日が遠くないと信じることはできる。
甘美な苦悩と浮かれた見物人を乗せて、軽トラックが動き出した。
「なんと、お二人はそのような微妙な間柄でござったか! 成就せぬ思いは苦しいもの…せっしゃになにかお手伝いができればよいのだが…そうだ、お二人の気持ちを盛り上げる場を設ければよいのでござる! こんなときこそレンアイに詳しいイアンどのに相談せねば!」
「待ってウッチー落ちついて、おかしいことになってる!!」
「はっ、そうでござった、イアンどのにはナイショでござった、せっしゃ決してこのことは洩らさぬでござる!ノッさんどのがイアンどのを好いておられるなど、口が裂けてもしゃべらぬゆえ安心めされよ!」
「うわああダメだもうダメだ明日にはラミレスまで伝わってるよコレ」
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます