イアン/ノッさん
『だからぼくはきみに愛されているふりをする』
きみが彼を見る目を、ぼくは知っている。
だからぼくは、その視線に気づかないふりをする。
戦いが終わっても、ぼくたちはよく顔を合わせた。約束なんてしなくても、行きつけの店が同じだったから。全員がそろわなくても、必ずだれかと鉢合わせする。
「イアン、どうしてるのかな」
クリームソーダを前に、ソウジくんが呟く。メンバーのだれも、店員のアミィでさえ、しばらくイアンを見かけていない。
誰かがメッセンジャーで尋ねたから、理由はみんな知っていた。どこかの研究所でなにかの分析を依頼されているからとても忙しいとかなんとか。詳しい研究内容を説明されてもわからないから、だいたいそんな認識で通っている。
遠くにいるわけでもないのに、彼にだけは会えない。
「あーっ、会いてぇな!」
みんなの気持ちを声に出したキングがテーブルに突っ伏して、ぼくは内心ぎょっとする。
イアンが聞いたら、どんな顔をするだろう。
清掃作業の仕事中、個人宛にメッセージが届いた。いつもどおり、そっけなく一言だけ。
『8:00pm OK?』
仕方ないから、キャラクターのスタンプ付きで返してやる。
『OK牧場!』
たった今ここで手伝ってくれているキングにも声をかけようと一瞬考えて、そんな意地悪を思いついた自分に苦笑した。
彼がぼくだけを呼ぶのは、他の誰にも会いたくないときだってことは、よくわかっているのに。
夜の八時ジャスト、文教地区にある閑静な住宅街で、古めいた純日本家屋を訪れた。
軽トラックが停められる車庫付きで、奥には庭もある。最初にここへ来る直前まではオートロックのピカピカなマンションなんかを想像していたから、見事に裏切られた。
以前渡された鍵で玄関に入って、いちおう声を上げる。
「まいどぉ、まるふくでーす」
予想どおり返事はない。
おじゃましまーすと奥に声をかけて、靴を脱いだ。
奥の書斎で、家主が虚ろな目をしてパソコンに向かっている。彼を知っている人ほど、これが「イアン・ヨークランド」だとは気づかないんじゃないだろうか。髪はセットどころか櫛も通していないみたいだし、襟の伸びきったロンTもよれたジーンズも、何日着てるんだか。仕事用の眼鏡は、実用一辺倒という感じ。
ぼくが戸口から覗いても、こっちをちらりと見て「よぉ」と短い挨拶だけ。
「ごはんは?」
「まだ」
予想通りの言葉が返ってきた。
「じゃあ、今から作るね……」
その前に、泥棒に荒らされたみたいなリビングを片づける。絨毯や家具の感じからして、元は客間だったみたいだけど、今はひどいありさまだ。
ソファの上には毛布とか服とかが散らばってるし、テーブルの上も下もインスタント食品の箱や袋がそこかしこにあって、たまに大事な資料なんじゃないのコレ?みたいな図面なんかも混じっている。
初めて見たときは、つい彼の口癖が出た。
オゥ、マイ。
その直後、このゴミ溜めの中に精根尽き果てた美青年が埋もれているのを発見するんだけど。
以来、その美青年はぼくにだけ、この裏の顔を隠さない。
部屋と台所を片づけ、一人ぶんの食事を作って、論文執筆を一段落させた彼が食事をしているあいだに、今度は風呂を掃除する。普段はシャワーで済ませているみたいだけど、湯船にお湯を張ればちゃんと日本式で入ってくれる。
ここは彼の曾祖父かだれかの家らしくて、その人も大学教授かなにかのえらい先生だったらしくて、ジャンルは違っても同じ研究職ってことでイアンはこの家を実質自由に使えるらしくて、だから日本的な常識と作法はだいたい身についてるらしくて……そういうことをどうでもよさそうに語るイアンを見て、ただのナンパ男じゃなかったんだと改めて感じ入ってしまった。
洗濯機を回してるあいだに寝室も掃除して、ついでに掃除機までかけ終わったころ、彼が長風呂から上がってきた。そろそろ溺れていないか確認に行くところだったから安心する。
湯上がりの彼は、この家にあったという浴衣を引っかけている。でも結局はバスローブ代わりだから、全体的にゆるゆるで「着ている」感じはしない。
すっかり片づいた部屋を見わたし、イアンは満足げに口笛を鳴らした。
「サンキュ。あいかわらず完璧だな」
「まいどアリゲーター!」
請求書は後日メールで、ということになっていたから、今夜の仕事はここまで。ぼくは淹れたばかりのお茶をテーブルに置いた。
「はい、なんでも屋さんのお仕事は終了しました。ここからはイアンのお友だちのノッさんでーす」
「お友だちかよ……」
苦笑しながらイアンはソファに腰を下ろして湯飲みを手に取る。袖から覗いた腕が、びっくりするくらい細かった。
「また痩せたんじゃない?」
「さあ?」
「最近女の子と遊んでないでしょー?」
言いながら、隣に座った。
間近で見ると、いつもはきれいな唇が荒れている。指先も風呂上がりだというのにかさついていて、爪も伸びていた。さっきまで眼鏡をかけていた目は充血して、涼やかには見えない。
身だしなみに過剰なほど気を遣う彼らしくない、無防備な姿だった。
だらしなく開いた胸元は骨が浮いていて、自分もそんなに太いほうじゃないのに不安になる。透きとおるくらい肌が白い彼は、少し肉が落ちただけでひどく儚い印象になってしまう。
「そうなんだよ、もう欲求不満……」
笑った顔で肩をすくめたイアンはぼくの手を取って、その手を自分の頬に押し当てた。
「ノッさんの手、好きだな……」
「前も聞いたよ」
呆れ半分でそう答えたけど、彼はぼくの手を握ったまま身体をあずけてくる。それから、なにをするでもなく黙り込んでしまった。
「……………」
話しかけようとして口を開いたものの、発していい言葉が見あたらない。迂闊なことを言ってリラックスした彼の気持ちを波立たせるのも、不摂生についてお説教するのも、今はやっちゃいけない気がした。
おそるおそる、細い肩に腕を回して抱き寄せる。
いわゆる一線を越えた関係ではあるけれど、それでも毎回緊張はする。彼とちがって、こういうときはこうするのがベター、なんていうお約束なんかまるで知らない。こっちから触っていいのか、それすらまだ迷うくらいだ。
「……ノッさん」
「なに?」
イアンの声はとても静かだったのに、こっちの返事は上ずってみっともないものになってしまった。
「ありがとう」
手を握る力が少し強くなる。
「いや、そんな今さら、ぼくはただ、頼まれたことを……」
ついしなくてもいい弁解をしそうになったけど、そうじゃないなって気づいて彼の手を握り返した。
「きみとおんなじだよ……仕事の依頼は口実ってこと」
イアンが、湿った髪のあいだから見上げてくる。普段どおり不敵に笑ってくれればいいのに、こんなときだけびっくりしたような不安そうな顔でこっちをまっすぐ見るんだ。
ぼくは彼の頭を抱き寄せて、髪をくしゃくしゃにした。
「ちゃんと乾かさないと、風邪ひくよ」
「ひかねえよ」
こっちの肩にあごを乗せたまま、イアンは苦笑気味に呟いた。それから本格的に体重をあずけてくる。そこで止めることもできたけど、おとなしくソファに押し倒されるままになった。
「イアン」
静かに声をかけると、彼は上目遣いに視線をよこしてきた。
「疲れてるなら……」
「疲れてるからだよ」
頬に音を立てて口づけられる。そのまま、着乱れた身体が乗りかかってきて、ソファに押しつけられる格好になった。
「イアン、ここじゃ……」
流されそうになる自分を叱咤しながら、彼の細い手首をつかむ。もっと食事を多めに作ればよかったかな。でもろくに食べてない人にいきなり高カロリーの重い食事を出すのもなあ……そんなこっちの心配なんか気にもしないで、イアンは楽しげに微笑んだ。
「ベッドルームへ行こうか、Honey?」
「ハニーって……」
ヒゲの三十路相手じゃジョークにしか聞こえない。でも笑わせてもらったおかげで、少しだけ余裕を取り戻せた。
「はいはい……」
ぼくは起き上がり、彼の身体の下に腕を入れて勢いよく抱き上げる。
「よいしょっと」
「うわっ……」
「行きますよ、ベッドルーム」
「ちょっ、ノッさ……わっ、危ねっ!」
さっきまでフェロモン全開だった美青年が、色気も何もなく必死の形相で縋りついてくるのがおかしくて、声を出して笑ってしまった。そんなにしがみつかなくても、落としたりしないのに。若くはないけどいちおうパワー系なんですよぼくは。
「前に男のロマンって言ってなかったっけ、お姫さま抱っこ」
「するほうだよ! くそっ、されるにしたってもうちょっとな……」
かっこ悪ぃとかなんとかぶつぶつ言いながら、身体から離れていこうとする浴衣をたぐり寄せている。やっぱり、ジャパニーズキモノはバスローブ風じゃなくてきっちり着たほうがいいと思うなあ。
ちょっと行儀が悪いけど、両腕がふさがっているから仕方なく足で襖を開けた。畳敷きの中央に布団が敷かれている。
ここがこの家の「ベッドルーム」。行灯まである、徹底的な純和室だ。敷きっぱなしだった布団を、さっきシーツもカバーも替えて整えた。
「万年床はよくないって、前も言ったでしょ」
ぼくはゆっくり彼を畳の上に下ろす。
「忙しいのはわかるけど、ちゃんと寝なきゃまた倒れるよ」
「だから、倒れる前に呼んでるじゃねーか」
そもそも彼のこんな側面を知るはめになったのは、彼の相棒のパラサガンからSOSが入ったからだった。研究中心の不摂生な生活が祟って体調を崩したけど、持ち前のプライド……というか見栄っぱりのおかげで助けも呼ぼうとしないと聞いたときには、さすがに怒りたくなった。
そこでパラサガンがぼくを選んだのは、イアンがぼくになら個人的な空間に踏み込んでも許すってわかっていたからなのか。イアン自身も気づいていなかったのに。
「とにかく、今夜は寝なさいね……」
彼を布団に追いやってから、立ち上がろうと腰を浮かせたとたん、服をつかまれた。
大きな目が縋るように見つめている。
「……………」
言いたいことがあるなら、口で言ってほしい。でも言葉にできるならきっと苦労はないんだ。
「……わかったよ。ここにいる」
布団の横に座り込むと、彼の口が笑みの形を作った。
「いるだけ?」
今さら、だらしない浴衣から覗く肌が気になってしまって、こうなった時点で逃げられない。もっと前……この家に入ったときから、彼から連絡を受けたときから、この展開は予想も期待もしていたんだろうなとも思う。
「ムリすんなって、ノッさん……」
よくわかってるじゃないか。
半分ヤケクソで、抱き寄せられるまま布団に倒れ込んだ。
嫌じゃないけど、気恥ずかしい。
彼がずっと耳元で歯の浮くセリフを囁きかけてくるから。ぼくを口説いたって仕方がないでしょう!とキレたところで、「なんで?」と真顔で問い返される。彼にとっては、これが正しい手順なんだと思う。とは思うんだけど……
「イアン、ぼくね……」
「ん?」
鼻が触れ合う距離で覗き込まれる。この近さもきみのスタンダードなんだね。
「あのっ、きみに、集中したいから……」
できれば気が散るようなことは言わないで。
言ってる最中に、このセリフこそがいちばん恥ずかしいと気づいてしまったけど、相手は笑いもからかいもしなかった。
「……OK」
真顔でそう答えて、いきなり口をふさいでくる。
最初は遠慮して彼の浴衣をつかんでいたけど、あちこち責められて追い立てられて、いつの間にか縋る気持ちで彼の背中を抱きしめていた。
薄いけれどそれでも男だから骨もあって幅もあって、そして力強い。遠慮なんかいらない、全力で抱きしめても折れたりしない。彼のほうも、勢いで少し乱暴になっても気を遣わなくて済むみたいだ。
二人きりでいるときに、他の誰かのことは考えない。それがイアンのポリシーで同時に自衛なのかもしれない。とにかく、彼は目の前の人間を全力で愛する。毎回違うガールフレンドのことで揉め事が起きないのも、きっとそのせいなんだろう。
「……………」
吐息混じりの囁き声が耳をくすぐる。英語じゃなくて、たぶんフランス語かなにかじゃないだろうか。こうなるともう無意識の譫言に近い。彼にとっては相手の肌に触れるのと同じ、自然で必要なことなんだ。
フランス語がほとんどわからなくて助かった。たぶん日本語にしたら、奥ゆかしい日本人的には情緒どころじゃなくなってしまう内容なんだと思う。
痛いとか快いとか、身体のほうはちゃんと彼に応えているのだけど、頭だけはぐるぐるといろんなことを考えてしまって、そしていつも最後には決まって切なくなる。
甘い声で甘い言葉を囁いて、これが最後の逢瀬とでも言わんばかりの顔で、世界中に二人だけしかいないみたいなテンションで求めてくる理由が、わかるようになってしまったから。
ぼくは真っ黒でまっすぐな髪をかきまわした。
濡れた目が怪訝そうにこちらを見つめる。
この子は、大事だとか、離したくないとかいう想いを、こういうかたちでしか伝えられない。それ以外の伝え方を知らない。
だから、触れなくても熱をくれるはずの太陽に、触れたいと願ってしまうんだ。
器用そうに見えてなにもかも不器用な男の子を放っておけなくて、生乾きの髪を何度もかきまわす。
「ノッさん?」
ぼくにできるのはそれくらいだった。
布団から出ようとしたら、細い腕に絡め取られて結局終わったあともくっついたまま、というなんともむずがゆい状況になっている。
気持ちだけでも平常に戻していこうと、むりやり仲間の話を持ち出した。みんな、タイガーボーイで黒いジャケットが現れるのを待ってるってこと。
「ソウジくんなんか、ホントにさびしそうな顏するんだから」
「そりゃあ、見てみたいな」
彼いちばんのお気に入りは、やっぱりあの高校生なんだろう。一人で竹刀振ってるときの姿を、ちょっと眩しそうに眺めているのをよく見かけた。確かに躊躇いなくまっすぐ伸びていくあの子はとても眩しくて、その気持ちはよくわかる。
でも、キングの眩しさは全く異質だ。太陽をまともに見つめることなんかできない。
だから、イアンはキングをまっすぐ見ることをやめてしまった。彼の死を本気で覚悟したあのとき。自分の気持ちに気づいてしまった、あの日から。
「落ちついたら行くよ……今はノッさんに会えるからそれでいい」
嘘つき、という言葉を飲み込んで、わざとらしく口をとがらせてみせた。彼は不機嫌な恋人をなだめる顔で慣れたキスをくれる。
その唇は柔らかくて、あたたかくて、そしてかさついていた。
「イアン……女の子とデートしたほうがいいよ」
「はぁ?」
ぼくは指先で、荒れた唇をなぞる。
「やっぱりイアンには、かっこいい男でいてほしいもの」
美人で、隙がなくて、自信満々で。そしてこっそり仲間思いのきみを、みんな待っている。世界中の女の子と、仲間と、それからきみの太陽も。
みっともない部分は全部ぼくが受け止めてあげるから……
きみが彼を見る目を、ぼくは知っている。
だからぼくは、きみに愛されているふりをする。
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