侘助/理一
【長椅子】
ドアを開けると、鮮やかなオレンジ色が目に飛び込んでくる。
「トリックオアトリート~!」
目を丸くした侘助は闖入者を呆然と見つめていたが、舐めていた棒つきの丸いキャンディを口から出して相手に差し出した。
「トリート」
理一はジャックオランタンの後ろから顔を出して、「それはいらない」と首を振って笑った。
「やっぱり日本とはハロウィンシーズンの盛り上がり方もちがうね!」
一人で町の様子を語りながらマフラーを外している理一に、じりじりと歩み寄ってみる。ドアの前のやりとりといい、かなり上機嫌に見えるから、もしかしたら……
「んと……ごめん」
「なに?」
コートを脱いでふり向いた顔が、わざとらしいほどに満面の笑みを浮かべていた。
怒っている。これは怒っている。
侘助は血の気が引くのを感じ、思わずくわえていたパルプの棒を噛む。
「その……朝、起きられなくて……」
自宅のベッドだからと全力で気を抜いていたのがまずかった。何度起こされても足蹴にされても起きる気になれず、結局あきらめた理一が勝手に出かけていったあとまで惰眠を貪ってしまったのだ。
ようやく目が覚めて後悔が襲ってきたときには、鍵を持っていかれたのもあって後を追うこともできなくなっていた。
「いいよ、もう」
コートをハンガーにかけて、もう一度こちらに向きなおった理一の笑みは、苦笑に変わっていた。さっきの笑顔は侘助を脅すための演技だったらしい。
「一人でもバンクーバー観光は充分楽しめたからさ」
「……知ってる」
緑色の謎の生物が、ひっきりなしに観光名所の画像を運んできたから。理一は用のないメールを送ってくる男ではない。明らかに寝坊した侘助への当てつけだった。
理一のほうは気が済んだらしいが、置いていかれてタバコを買いに行くことすらできずにメールだけを受け取りつづけていた侘助は少しも楽しくない。
ともすれば理一への逆恨みにすり替わりそうになる自己嫌悪をどうにかしたくて、彼の背中に抱きついた。
「マジで、悪かったよ」
理一は驚いたように動きを止めたが、すぐに身体を震わせて笑い出す。
「なんだか気持ち悪いなあ。あんまり素直だと、なにか企んでるかと思っちゃうよ」
「ねえよ」
理一の肩にあごを乗せると、タバコの代わりにくわえていた棒つきキャンディを奪われた。さっき「いらない」と言ったはずの男は、それをためらいもせず口に入れる。甘ったるいキャンディを口の中で転がしながら、理一は声に笑いをにじませて言った。
「明日起きなかったら、予定繰り上げてそのまま帰るから」
本気だ。
侘助は焦燥に駆られて、抱きしめる腕に力をこめていた。
旅行でもしたいな、とチャットで呟いたのは理一だったが、自分の住んでいるバンクーバーを提案したのは侘助だった。
まだ一年も住んでいないし、それほど出歩くこともないから、地元民の顔をして観光地を案内することはできない。だが理一のほうから会いにくる、という図式が、とても愉快なことに思えたのだ。
陣内家のテリトリーから遠く離れた地で身内の人間に会えるということに、年甲斐もなくテンションが上がったのがまずかった……と侘助は寒風吹きすさぶ通りを一人で歩きながら思う。侘助に「年甲斐」などというものは陣内家のだれも期待してはいないのだが、本人は大まじめだった。
どこにいても視界に入るオレンジに今日だけやたらと苛つきながら、タバコと酒と缶詰その他を買い込んで帰路を急ぐ。暑いのは苦手だが寒いのはもっと苦手だ。とにかく早く帰りたかった。
室内の暖かい空気に、毎度のことながら泣きそうになる。雪国育ちの侘助には、暖房のありがたみがいやというほどわかっていた。
そして、それ以上にありがたいもの。
「おかえり」
理一はソファの袖にもたれかかり、自分で買ってきたらしい新聞を読んでいる。ただそれだけなのに、部屋がさらに暖かくなっている気がする。
急な温度変化のせいで潤んできた目を、侘助はごしごしとこすった。
「何にやけてんの? なんかいいことでもあった?」
「……にやけてねえよ」
コートを脱ぎ捨て、テーブルの上に買い物袋を放り出す。
「酒買ってきたぞ」
「待ってました」
理一は新聞をたたむと組んでいた長い脚を下ろした。酒瓶に手を伸ばす彼は穏やかな表情で、もうどこにも不機嫌な様子は見られない。
安堵の息を吐き出して、侘助はキッチンへグラスを取りに向かった。
革張りのソファは、前の住人が置いていったものだった。寝室まで行くのが面倒なとき、それは驚くほど役に立つ代物になる。ベッドよりもこのソファで寝ている回数のほうが多いかもしれない。
そのソファに並んで座り、二人の男はいつもどおりの酒盛りをはじめる。
ナッツ、スパム、ジャーキー、ピザ……食料は缶詰や袋を開けて皿にあけただけのものがほとんどだった。理一が持ってきたオレンジ色の大きなカボチャもいっしょに置いてあるが、さすがに食用になるとは思えない。
「いつも、こんな食事なのか」
「ああ、まあ」
「台所、使った様子がないけど」
「うん、まあ」
「冷蔵庫、空だった」
「バドワイザーなら」
理一はわずかに眉をひそめ、侘助は肩をすくめる。昨日は外食だったから咎められるタイミングもなかったが、二日目ともなるといろいろ気になってくるらしい。ため息をついた理一は、ソファの背に寄りかかった。
「体調管理はしとけよ、もう若くないんだから」
「そのうちな」
「気づいたときにはもう遅いんだよ」
「万理子おばさんかおまえ」
侘助にとって実質の母親に近い存在の名を口にしたとたん、ふと長野の実家を思い出した。
「おばさん……と、理香、元気か?」
「ああ、うん。変わりないよ」
四十を過ぎるまでただ疎ましくて憎たらしいだけだった二人のことが、今はごく自然に家族として気になる。帰省するたびあれこれ口やかましく言うのも、うんざりするような詮索や説教も、海外で単身暮らしている侘助を案じてのことだとわかるようになったから。
口にすると嫌がるだろうが、もともと祖母似と言われていた理香は、いよいよ栄に似てきた。万理子も当主を継いでからは、以前よりは落ちついたような気がする。
あの家でも、そろそろストーブが出ているころだろうか……
侘助はタバコの煙を吐き出した。
「日本……帰ろうかな」
理一がグラスに伸ばしかけた手を一瞬止めた。だがすぐにグラスを引き寄せ、口をつけながらちらりと侘助を見る。
「実家にもどって嫁でもとるか?」
からかうような笑みに、同じくにやりと笑って返した。
「おばさんが許さねえよ」
「どうかなあ。なりふりかまってられない時期に来てるみたいだからなあ」
三人もいて全員独身じゃあ焦るだろ、と理一は他人事のように言ってナッツをかじっている。
「三人ね……」
思わず呟くと、妙に冷たい目で睨みつけられた。
「おまえ、またバカなこと考えてる……」
「ねえって」
あわてて手を振ったが理一は納得していないようだった。仕方なく、バドワイザーの缶を覗き込みながら、理一が待つ言葉を吐き出す。
「わかってるよ、三人なんだおれたちは」
二人と一人、ではなく。本家の子どもは、理香・理一・侘助の三人。ずっと昔から、最初からそうだった。侘助がそれに気づいたのは、つい最近のことだったが。うっかり忘れそうになると、こうやって釘を刺される。ひねくれる隙もない。
「そっちは?」
分が悪くなってきたことに気づいて話を理一のほうに向けると、彼は「そうだなあ」とジャックオランタンに話しかけるように顔をかたむける。
「あと十年ちょっとくらいで定年退職できたら、松本あたりで楽隠居する予定」
「なんで松本だよ」
「市内で姉ちゃんに届け出すの、イヤじゃないか。住民票とか、婚姻届とか」
さらっと言われたその単語を、聞き逃すことができなかった。
「結婚すんのか!?」
思わず身を起こしてしまった侘助を、理一がどこか呆れたような顔で見やる。
「するかもね。我慢できなくなったら」
「な……」
なにを、という問いを侘助は飲み込んだ。それはたぶん、侘助がすでに耐えきれなくなりつつあるものだから。
「ま、再就職するかもしれないし……老人会の合コンはまだ先の話だな」
自分のことなのに興味がなさそうな顔で呟いた理一は、それからなぜかくすくすと喉の奥で笑いはじめた。
「なんだよ」
「や……バンクーバーまで来て上田とか松本とか言ってるの、なんかおかしくて」
侘助も笑い出す。
そういえば、日本語で会話をするのも久しぶりだった。町へ出ればオレンジ色の装飾が月末の祭りを待っているというのに、日本の片田舎や老後の話に興じている。そんな会話は実家ですればいい。なのに二人ともそんな話題しか思いつかない。
「梅干しがある時点でアウトだろ」
「そうだな」
理一が空輸してきた梅干しを一粒つまむ。万理子お手製のそれは、栄が作っていたころから大きさも味も変わっていない。庭の梅の木もまだ元気なようだ。
秘伝の製法はきちんと理香へと引き継がれているのだろうか、と思いながら、侘助は大きな梅干しを口に放り込んだ。
小学生のころ、動物園かどこかへ家族みんなで行こうという話になった。日帰りとはいえ小旅行とあって、理一と理香は素直に喜んだ、のだが。
経緯はもう忘れてしまったけれど、なにかでへそを曲げた侘助が、朝になって行かないと言い出した。行きたくないのだから置いていけばいいじゃないかと理一は思ったのに、母と姉はなだめたりすかしたり怒ったりして、なんとか侘助を連れていこうとする。そうなると侘助はさらに頑なになり、隠れ家の納戸へ閉じこもって出てこなくなる始末だ。
結局、祖母が「勝手にしなさい」と納戸の前で一喝し、侘助一人を置いて出かけた。しかし楽しいはずの休日に水をさされたことに変わりはない。皆が置いてきた侘助を気にするあまり、早々と帰ってきてしまった。
それから数日、せっかくの行楽を台なしにされた理一は、謝りもしない侘助と口をきくどころか目も合わせなかった。
大人になってみると、あのころの気持ちなど少しも思い出せないのだから奇妙なものだ。侘助が意地を張って納戸に閉じこもった理由も、そんな侘助に自分がどれほど腹を立てていたかも、まるでわからなくなってしまった。
たしかに今朝、侘助を置いて家を出たときには、それなりに怒っていたと思う。
だが初めての土地は一人でもそれなりに楽しめたし、置いてきた相手を思い出してため息をつく代わりに、メールを送って嫌がらせをすることもできる。しまいにはどんな写真を送ってやろうかと考えるのが楽しくなって、朝の不機嫌など忘れてしまった。
理一の一方的なストレス解消は、地味だが侘助には効いたらしい。殊勝にも謝ってきたのには本気で驚いた。なにがあっても謝らなかったあの少年が。
ソファの上で乗りかかってくる身体の重みを感じ、妙に必死な表情を見上げながら、理一は侘助の成長に思いをはせる。三十年という月日から考えると実にお粗末な成長だが、それでも進歩だ。
「明日。起きなかったらほんとに帰るからな」
「わかってる」
……進歩ではなくて退化かもしれない。
今の侘助は、意地を張ることを覚える前の幼児にも見える。
昨日、空の旅で疲れている理一を半ば強引にベッドへ引きずり込み、やけにしつこく迫ってきたのが寝坊の原因だと、侘助は気づいているのだろうか。
「ぁ……」
首元に吸いついてきた唇が、そこへ痕を残したのを感じる。文句を言ってやろうかと思ったが、服の襟で隠れそうだと判断してやめた。それに気をよくしたのか、侘助は肩に胸にと痕をつけていく。シャツのボタンをすべて外し、防寒のために着込んでいた下着をまくり上げて、胸の突起に噛みついた。
「んぅ……」
クッションの上で頭をのけ反らせた理一は、ふと目に入った壁について考える。昨日はつきあたりの寝室だったから気にしなかったが、ここで騒いで隣に音は抜けないだろうか。声は出さないほうがいいかもしれない。
侘助に確認しようと首を動かすと、真剣な顔で人のベルトを外していた。その真剣さがなんだかおかしくなって、言葉を飲み込み再びクッションに頭をあずける。
ずらされた下着から性器をむりやり引っぱり出され、理一は逆さの壁を眺めながらため息を洩らす。先端に熱い息がかかってもしやと思った直後、そこに唇が触れた。侘助は理一をつかんだまま、それを口の中に受け入れていく。
さっきよりも深いため息を壁にぶつけ、行き場のない手で侘助の薄い肩をつかんだ。それを催促と受け取ったのか、狭い口の中で蠢く舌が理一に絡みついてくる。硬さを持ちはじめればいっそう激しくかぶりついてきて、理一の口からこぼれるのもため息だけでは済まなくなりそうだった。
このまま出してもいいのか、それとも一言くらいは警告するべきか。顔にかけてやってもいいが、機嫌を損ねられるのも面倒だ。目を閉じて思案していると、荒い息とともに舌が離れていく。
「は……っ」
息を切らして顔を上げた侘助は、自分の仕事に満足したのかやんちゃな笑みを浮かべた。理一も笑顔で応える。
「で、自分で乗っかって腰振ってくれるのかな?」
「バカ言ってんじゃねえよ」
侘助は独特の忍び笑いを洩らして、テーブルに置いてあったローションのボトルを手に取った。
「ホントにだいじょうぶなんだろうな、それ」
「今までかぶれたりはしてない」
「ならいいけど……」
毒々しい不透明ピンクに少しだけ怖じ気づきながら、理一は侘助がそれを一人で使っている場面を思い浮かべそうになった。自分の行為を思い出すくらいに空しくなって、クッションに頭を投げ出し後ろの壁を眺める。我に返ってはいけないとわかってはいるのだが、こういうとき、ふと自分たちを俯瞰で見てしまう。
今の理一はといえば、侘助が好き勝手に服を剥いでいったせいで半端に肌を晒している。片方だけ靴を脱いだ足は侘助の背中の上にあって、もう片足は靴を履いたまま床の上。今またスラックスも中途半端な位置まで下ろそうとしている侘助のほうは、身体の中を駆けめぐる熱でひどく窮屈そうだ。
血のつながった四十過ぎの男二人が、ソファの上で重なり合っている。異常なのか凡庸なのか、もう理一には判断がつかなかった。ひとつ明らかに異常だとすれば、ピンクのローションの横にオレンジ色のカボチャが置いてあることくらいだろうか。このカラーリングは目に痛すぎる。
なぜ食べられもしないカボチャなど買ったのか、と思いかけたところで、思考を中断された。
長い指が内側に入り込んできて、理一は浮きそうになる腰を自らソファに押しつける。
「ん……ぅん……」
場所を心得ている指が重点的に責めてくる、それ自体はかまわない。だが声を出してもいいのか、それだけが気になる。今さら尋ねるのも間が抜けているし……仕方なく歯を食いしばって声を殺しつづけていた。
やがて指よりも太く腹を圧迫するものが突き込まれ、理一は思わずソファの背をつかむ。やたらと濃いローションのせいか、妙にすべりがいいのが逆に落ちつかない。突き上げるたびローションと湿った音が結合部からこぼれてくるのも慣れない感覚だ。
「ん……ぁっ」
結局、最初に呻いたのは侘助だった。彼は真剣な顔で理一の片脚を抱え、力任せに腰を進めてきている、ように見える。だがその実は少しずつ角度や深さを変えながら探っていることを、理一は知っている。どこにどう当てれば理一が身をよじり、そして侘助を締めつけるかを。
「ぁは……ん……」
いいかげん噛みしめているあごが痛くなってきた理一は、喉を反らせて喘ぎ声を吐き出した。どうせ困るのは侘助だ。思いきり泣きわめいて、お隣さんにあいさつできないくらいにしてやろうか。そもそもあいさつなどしないだろうけれど。
「くぅ、あっ、ちくしょ……っ」
侘助が寝癖そのままの頭を振りながら意味のない悪態をついている。腹の中を圧迫する力が強くなり、理一はその意味を察した。だから、自分も熱を処理しようと手を伸ばす。時折侘助の腹に擦られるぐらいで放置されていたが、射精を促すのはそれほど難しくはない。視界に入るのは、濡れた目をぎゅっとつぶったり、飲み込みきれなかった唾液を袖口で乱暴に拭ったり、そんな愉快な光景ばかりだったから。
「ぅああ……っ」
「あぁ……っ!!」
合わせるつもりはなかったが、ほぼ同時に絶頂の呻きが上がる。
息を切らしながら惚けた顔でこちらを見下ろす侘助に、理一は汚れた手を見せて無言でタオルを要求した。
床に落ちてしまったスラックスをはくのは気が引ける、などと考えながら、理一はソファに横たわったまま動かないでいた。汚れたシャツを脱ぎ捨てた侘助も、まだ理一の上から下りる気配はない。
ふと手にした、ローションの栓を開けてみた。寝ころんだまま手の上に出そうとしたせいか、いくらかは裸の胸にこぼれてしまう。それを侘助がにやにやと見下ろしている。
「全身塗ってやろうか?」
「いいな、それ」
微笑み返した理一は、侘助の腰を抱き寄せた。
「わ……!!」
胸の上に倒れ込んできた身体をつかまえてしまえば、彼の腕力ではそう簡単に逃れることはできない。濡れた手で尻をつかんで撫で下ろす。
「なにすんだよ……」
「全身はちょっと足りないか」
窄まりにべたついた指をねじ込むと、侘助の息が止まる。今度は、侘助が理一の肩をつかむ番だった。
「んぁ……っ」
二人の身体のあいだで、こぼれたローションが濡れた音とともに広がっていく。ぶつかり合うのは胸や腹だけではない。侘助の逃げる腰が理一に押しつけられ、互いにこすり上げられて、息を荒くしていった。
「り、いち……もぉ……っ」
すでに嗄れそうなしゃがれ声が懇願してきた。
「ほしい?」
侘助はやけくそのように何度もうなずく。その必死さに決して悪い気分はしなくて、そしてすっかりこちらの術中にはまりこんでいるのも愉快で、理一も顔に広がる笑みを抑えきれない。
「でもおれ、今動けないから」
「てめ……ぅあっ!」
指を大きく動かして中をぐるりとえぐってやれば、侘助は理一の腕に爪を立てて悶えた。
「どうする?」
「くっそ……わかったよ!」
コンドームの袋をつかんだはいいがローションですべって破けないらしい。苛々と歯で噛み切った侘助は、手をすべらせながらもなんとか自分を貫く凶器の用意を済ませた。自身の快楽のためとはいえ、涙ぐましい奉仕だ。実際に目を潤ませているのは理一ではなく侘助のほうなのだが。理一は笑いを噛み殺しながら、侘助を促した。
「ん……」
侘助が自重で腰を落としてくる。不安定な体勢に怯んでいるのか、ソファの背にしがみついて、焦りに目を見開いて。
理一は逆に目を細め、骨が浮いた細いひざをつかんで引き寄せた。
「あ……あぁああっ!!」
奥まで一息に屹立を飲み込んだ侘助は悲鳴に近い声を上げて腰を浮かそうとする。だが絶望的な筋力のなさに加えて、平らなベッドの上とは勝手がちがう。思うように動けずに、自分の動きに翻弄されるばかりだ。
みっともなく腰を振る姿を揶揄して嗤ってやろうと理一は口を開いたが、言葉どころか笑い声すら上がらなかった。おそらくは侘助以上に情けない嬌声が部屋に響いただけだった。
それから、理一の腹が今度は侘助の精によって汚されるまで、二人は悪態以外の言葉を口にすることはできなかった。
終わったあとも、侘助はぜいぜいという呼吸音とともに肩を大きく上下させている。理一はクッションの上で頭をのけ反らせ、ただ壁を見つめていた。滞在中に隣人に会わないことを祈るしかない。
「……まだ、する?」
理一の問いかけが強がりとも気づかずに、侘助は力なく頭を横に振った。
シャワーを浴びてから、ソファで毛布をかぶって眠っている侘助を横目に寝室へと向かう。昨日、二人で身を寄せ合って眠るはめになったベッドは、今日は気持ちいいほどに広く感じられた。
ゆっくりと手足を伸ばしながら、明日以降の予定について考えようとした。ところが思考は勝手に侘助へと収束していく。
意地っぱりだった少年は、成長したのか退行しているのか、素直すぎるくらい素直に理一を求めてきた。年を追うごとにひどくなっている気もするから、やはり退行なのか。老化の一歩かもしれない、と意地悪く考えてみる。
帰国を口にしたのも、以前の侘助なら考えられないことだった。日本が、故郷が恋しくなっている。その気持ちはわからなくもないが、まだ早すぎる気がする。
たとえば、理一でなく夏希や佳主馬が来たとしても、侘助は彼らを離そうとはしないだろう。酒盛りやセックス以外の方法で、なんとかして彼らとつながろうとするはずだ。はしゃぎすぎてコミュニケーション能力の低さを露呈することにはなるだろうが、そちらのほうが自分の心も自覚しやすいにちがいない。
だが実際には、家族への愛着をむりやり即物的な性欲にすり替え、理一への執着と思い込むことでやりすごそうとしている節がある。
もぞり、と寝返りを打った。
自分は呆れているのだと思う。やはりあの男は退行中なのだ。
理一も、彼に恋愛感情のようなものを抱いたことはたしかにあった。それもずいぶん昔のことだ。どうしてそうなったのか理屈で説明はできるけれど、あのときの感覚はもう思い出せない。動物園を楽しめなかった悔しさと同じように。
「ふ……っ」
枕を引き寄せながら笑みを洩らす。
はるばるバンクーバーまでやってきて、顔を合わせる人間はよりにもよって侘助。酒を飲んでセックスして、昔のことを思い出して……東京でも長野でもできることばかりだ。
それでも、この旅行にケチがついた気はしなかった。半分はこのために来たのかもしれないという考えすらよぎった。
あとは、侘助がきちんと起きてくれれば言うことなしだ。
理一はもう一度寝返りを打ち、今度こそ明日の予定に頭を切り換えた。
毛布を引き剥がされ、侘助は条件反射で奪い返す。すると今度は頭の上から怒声が降ってきた。
「今日は起きるって言っただろ!!」
言った。言ったが、眠いものは眠い。べつにチェックアウトの時間があるわけではないのだから、そんなに追い立てなくても……
「あと120秒以内に起きなかったら……」
低くなった声にはっとする。そういえば、昨日とんでもない約束をしたような気がする。
「待て、待て待て待て……」
必死に目をこすって顔を上げると、すでに着替えて髪も上げている理一が、厳しい顔つきで腕時計を見つめていた。しかもぶつぶつとカウントしている。仕事モードというよりは、軍人なりきりモードだろう。侍モードでなくてよかった、と口に出さずに呟き、侘助はむりやり体を起こす。
ようやく目が開いたと思ったら、テーブルの上に堂々と鎮座しているジャックオランタンが視界に飛び込んできてぎょっと身を引く。それがそこにある理由を思い出すのには、もうしばらくかかった。
インスタントなコーヒーの香りと、それから別の香ばしさ。
寝ぼけ頭の侘助は首をひねりながらキッチンを覗き込む。湯を沸かすくらいしか使ったことのない火の上に、フライパンが置かれていた。
「それ、どっから……?」
この台所にフライパンなどない。それに冷蔵庫はほとんど空のはずだ。卵もベーコンもマフィンもこの家にはなかった。
「昨日出たついでに買ってきたんだよ。せめて朝ごはんだけでもと思ってね」
日本へのみやげだとばかり思っていた袋は、どうやらこれだったらしい。
朝に食べることはめったにないが、今朝はなぜか腹が鳴った。理一がこちらに背を向けたままで尋ねてくる。
「食うか?」
「食う……」
「では15分以内に洗顔と着替えを済ませて着席しているように」
口調が軍人モードだ。
「サー、イエッサー……」
敬礼でもすればいいのだろうが、腕を上げる元気もない。侘助は時計にちらりと目をやりながら、のろのろと洗面台へ向かう。
全身がだるいし重いし、あちこちの関節やら筋肉やらも動くたびに痛む。しかもこれは昨日のぶんではない、おそらくはその前夜のぶんだ。ということは明日はこの痛みが倍加されて脚にまでくるということだ。想像したら絶望的な気分になった。
同じ行為に興じていた相手は、普段どおりにしゃんと背筋を伸ばしてフライパンを器用にあおっている。
機嫌がいいのか鼻歌まじりで朝食の用意をしている姿が、あまりに見慣れなくて、起きていない頭で必死に記憶を辿ってしまった。大学時代にアパートへ呼びつけたころまで遡るだろうか。だがあのときは、なにもしない侘助に根負けして罵声を並べ立てながらの食事作りだった。鼻歌など出るはずもない。
そのリズミカルな鼻歌を聞きながら、侘助は洗面台の前に立つ。
「……………」
ひびの入った鏡に映る、寝癖だらけの頭も、うすらぼんやりした中年男の顔も、いつもとなにも変わらない。うんざりするほど見慣れた光景。
ただひとつちがうのは、その顔がにやにやとしまりのない笑みを浮かべていることくらいだった。
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