伯爵/ベルッチオ
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雨上がりの夜空
薄暗い寝室の中、ベルッチオは手早く身支度を整えていた。主を待たせてはならない。仕事はまだ終わってはいない。
その主ことモンテ・クリスト伯爵は、待つどころか家令の存在すら忘れたように、涼しい夜風が吹き抜ける部屋のソファにもたれている。
東洋風のローブは申しわけ程度に身体を覆っているだけで。裾を割って伸びる長い脚や、露わになったままの肩は、つい今まで淫靡な戯れに身をゆだねていた雰囲気を隠そうともしない。
そうして、ただ気怠い眼差しを外の景色へ向けていた。
「伯爵」
奥の寝室へ主をいざなおうとした家令を、彼はわずかに手を動かすだけで制する。
「……このままでよい」
「お体に障ります」
たやすく引き下がらないベルッチオを見上げ、主人はもの憂げに微笑んだ。それから長い髪を揺らし立ち上がる。そして、差し伸べられた手には触れもせず、バルコニーへと歩いていった。
「私は雨を見たいのだ。そう言ったではないか」
「は……しかし……」
たしかに先ほど、彼はそう言ってこの部屋へ来たのだった。だが雨はもうやんでいる。
屋敷の地下に広がるこの広大な箱庭に、雨が降ることはそう多くない。人工の風景とはいえ、精巧にプログラミングされた環境システムは、彼の故郷の気候を精確に再現していた。気まぐれなようでいて本来のサイクルに則った雨は、さあっと降りそそいですぐに上がってしまう。
だから、屋敷の者は皆、人工の雨をどこかで楽しみにしていた。それは主人である彼も例外ではない。
「マルセイユの雨は、あたたかい……」
音もなく降りしきる人工の雨に手を伸ばし、彼はベルッチオを招く。そして奥の寝室ではなく、外の景色が見えるこの部屋での伽を求めたのだった。
そのささやかな欲望も満たされた今、早く寝室へもどって身体をやすめてほしい……とベルッチオは思わずにいられない。
しかし主人はバルコニーにもたれかかり、妖艶な笑みとともに再び手招いている。
ベルッチオは小さくため息をついて、足早に歩み寄った。
彼が夜空を仰ぎ、つられて見上げる。雲の切れ間に、星が瞬きはじめていた。
「美しいな……まがいものだというのに……」
「……………」
どれほど美しく、どれほど思い出に忠実であっても、すべては作り物。彼は片時もそれを忘れたことはないのだ。それなのに、偽りの雨を心待ちにする。
その哀しさに思いを馳せ……ベルッチオは思わず口を開いていた。
「すべてが終わったら……マルセイユへ、参りましょう」
「なに……」
「本物の雨を、その手に……」
彼は驚いた顔で暫し下僕を見つめていたが、やがて穏やかな笑みを浮かべて目を閉じた。
「ああ、そうだな……」
その表情に、安堵しかける。だが彼は目を開け、もう一度夜空を見上げて言った。
「私から解放されたら、そうするといい。エデも喜ぶだろう」
「伯爵!?」
それではなんの意味もない。それは彼自身がよくわかっているはずだ。本物の風景を欲しているのは……。
「私はもう、あの地には帰れぬ」
低く呟きながら、彼は自らの裸の胸に手を当てた。その中では得体の知れぬ存在が、復讐鬼たる彼を支え同時に蝕んでいることを、ベルッチオは知っていた。
「伯爵……」
「ここから見えるのは麗しい郷愁だと思うか。この風景を作り上げたのは切ない感傷だと思うか。否、この地下に住まうことは罰なのだ。この世の摂理にすら逆らった私にふさわしい、あの忌まわしい監獄と同じ……」
彼は静かに肩を震わせはじめ、そのひそやかな笑い声はやがて哄笑へと変わっていった。
ベルッチオは黒いグラスの奥でかたく目をつぶる。絶大なる力と引き替えに、本来の彼が失ったものはあまりにも大きかった。この渇いた魂を潤すことができたなら、卑小な己の命など、喜んで差し出すものを。
「ベルッチオ……」
伸ばされた手を取り、引き寄せられるままに身を重ねる。
忠実な家令の首をかき抱いた主は、その耳朶をとがった歯で甘く噛みながら囁いた。
「もう一度だ、ベルッチオ……」
偽りの雨を受け、偽りの夜空を仰ぎ、刹那の快楽を求め。自ら破滅への道を歩んでいく。
この美しい偽りの世界から彼を解き放てないのならば、せめて。
「貴方様の、仰せのままに……」
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