【SS】矢口と赤坂(シンゴ)
矢口は、赤坂をプライベートで呼び出したことがない。
それに矢口自身が気づいたのは比較的最近のことだ。
用事のない他人に時間を割くということに意義を感じられない矢口は、こじつけでも何かの用件を自分の中でだけ用意する。断片でも有益な情報を、一人でも新しい人脈を、実際に得られるかはともかく自分の目的を明確にする。でなければ各種接待など苦痛でしかない。
以前、泉にそんなことを洩らしたとき……当然ながら泉とのさし飲みも大切な情報交換の場であるのだが……思いきり笑われた。バカだなきみは、などと散々に言われたあとで、「もうきみは総理大臣になるしかない」と背中を叩かれた。意味はわからなかったが、総合的に評価はされているらしい。
矢口が「顔をつないでおく」必要のない赤坂にコンタクトをとるときは、明確な用件があるときだけだ。総理周辺の事柄なら総理本人より把握していて、入ってくる情報量も矢口とは格段に違う。面倒な手順を踏んでいる余裕がないとき、ダメ元で赤坂を頼ることは多い。
だから二人がプライベートで落ち合うのは、必ず赤坂からの誘いだった。
そしてそのときだけ、矢口は「用件」も「目的」も設定するのを諦める。赤坂は「なにかのついで」に不用意な情報漏洩などしない男だから。意図的なら、もっと賢く効率的な手段をとる。少なくとも、後輩をホテルに誘い出して含みを持たせた睦言を囁く、などという面倒なだけのことはしない。
性交渉は目的に入らない、と矢口は考える。おそらく赤坂もそうだ。ホテルに部屋を取っておきながら、食事だけして部屋に戻りそのまま眠ってしまうということもあった。
ただ矢口は、よほどの仕事でも抱えていないかぎり赤坂の呼び出しを断ったことはなかったし、なぜか「よほどの仕事」がないときにしか誘いは来ないのだった。
赤坂には、なにか意図があるのだと思っている。なんのためか、だれのためかはわからない。そのうち教えてもらえるのか、永遠に謎のままなのか。そんな関係が何年もつづくうち、赤坂の目的も気にならなくなってしまった。
千代田区のホテル、その上層階。
かつては高級ホテルだったが、今は実情ビジネスホテルとなりつつある。この町に用事がある人間しか利用しなくなったためだ。
窓の外には、毒々しい夕日に照らされた巨大な生物のシルエットがそびえ立っていた。すっかり見慣れてしまったが、異常な光景なのだと忘れてはいけない。
どれほどそうしていただろう。赤坂が来たときには、部屋はすっかり暗くなっていた。
「一人であれと向き合っているのが、怖くなるときがあります」
背後の赤坂を一瞥もせず、だがはっきりと彼に向けて言った。
「子供か」
「根源的な恐怖は生物の防衛本能です」
ため息とともに洩れる笑いが聞こえる。
「ちがう。あれと対峙しているのが世界に一人きりだと思い込む狭視野のことを言ってる」
まったくだ、と矢口も微笑む。むしろ他人事にされては困ると日々国民に訴えているのに。
「だから、あなたに来てもらったんです」
赤坂は一瞬黙り込んだ。
「……俺に、あいつと戦っておまえを守れっていうのか」
「それはいい」
笑いながらカーテンを閉める。
ふり返ると、赤坂は笑ってはいなかった。ひどくまじめな顔で矢口を見ている。いや、探ろうとしている。矢口の目的を。当然だ。矢口は理由なしに他人を呼びつけたりはしない。必ず明確な意図があるはずだと彼は考えている。
矢口自身もそう思っていた。だが今、彼を目の前にしてなお、もっともらしい「用件」は全く思いつかなかった。
「怖いんですよ」
もう一度、口にする。
だがその言葉は果たして、赤坂を呼び出した口実になるのか。
もし現実にあの生物が再び暴れ出し、あるいは観察事例のない活動を始めたら、矢口は赤坂になど連絡しないだろう。官邸にいてもいなくても、それぞれの立場でそれぞれに動く。怖いなどとは言っていられない。
二人がここにいるのは、まだなにも起きていないからだ。
矢口は手を伸ばし、押しとどめようとした赤坂の手を払って、目の前の体を抱きしめた。
すぐ背後には、この国の抱えた巨大な危険が「停止」している。
一歩踏み出すだけで町が崩れ、口を開けるだけで何千人をも瞬時に葬る、悪夢のような存在だ。
凍結を維持しつづける方法、存在を無害化する方法、巨大な肉体を「解体」する方法など、研究や対策は今も進められている。
だが今この瞬間、矢口にできることはなにもない。ただあれを見つめ、震えを抑えることしかできない。
「一人でいるのが怖いから、あなたを呼んだ。……いけませんか」
ひざの震えが彼に伝わったのか、相手もはっと息をのむ。
「おまえらしくも……」
戸惑った声が途切れ、小さな嘆息が聞こえた。
「いや……おまえらしいのかな」
赤坂は低く呟き、自分の目線より高い頭を抱き寄せる。その髪を撫でるようにかきまわしながら、矢口の肩に頭を乗せた。
「ああ……俺も怖い」
その言葉に、どういうわけか全身の力が抜けていくような安堵を感じた。
なにを知りたかったのだろう。何を得たかったのだろう。
あの存在に対する恐怖など明らかだ。今さら口にするまでもない。建設的な意見ではなく非建設的な感情だけを声高に叫ぶほど、矢口は愚昧でも恥知らずでもない。
だが赤坂は拒まなかった。拒まないことを矢口は知っていた。そのことに、やっと気づく。
赤坂に導かれるまま何年もつづけてきた「無意味な」逢瀬は、この瞬間のためだったのか。
何も得られない、ただ腹の底に沈めた恐怖を共有するだけの、無為な時間を矢口が持てるように。
そのためだけに、矢口は初めて赤坂を呼び出した。
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王道作風とは無縁なので好きにやっていいって森課長が言ってました。