【SS】戦兎とマスター(ビルド)
【Redo】
「二人とも、少し休みなさい」
部屋へ入ってきた父の言葉に、戦兎と巧は数時間ぶりに顔を上げた。
国立先端物質学研究所の非常勤職員として研究を許された二人は、時折こうして顔を突き合わせて研究室に籠もっている。
「万丈は?」
凝り固まった体を伸ばしながら、完全に忘れきっていた相棒の消息を尋ねた。彼も入構は許されているが、なにしろ全く役に立たないので仕事中はそのへんに放し飼いにしてある。
「筋トレに飽きたから走ってくるそうだ」
「どこまで筋肉バカなの……」
呻く戦兎を、葛城親子は静かに笑みながら眺めていた。
研究室の煮詰まりすぎたコーヒーメーカーとは別の味がほしくて、別棟の自販機へ足を伸ばす。
この時間は人気のないエリアだが、めずらしく自販機の前に人が立っていた。
「……石動さん」
スーツ姿の石動惣一は戦兎を認めるなり、笑顔を向けてくる。
「お疲れさま。好きなの押して」
あまりにも自然にボタンを指さされ、言われるままにカフェオレを選んだ。石動はわざわざ取り出し口から拾い上げて渡してくれる。
「まちがいなく美味しいコーヒーをどうぞ」
二人にしかわからないジョークに、思わず笑みが洩れた。しかしあのころのように気安く混ぜっ返すことはできなかった。
「……ありがとう、ございます」
他の関係者と同様に旧世界の記憶が戻った彼は、カフェを娘にまかせてライダーシステムの開発に関わると決めたらしい。この研究所に所属はしているが、戦兎や巧とは部署も違うためほとんど顔を合わせることもなかった。一度、皆が揃っているところで挨拶を交わした程度だ。
「葛城巧くんとは、うまくやってる?」
「今のところは……たまにケンカもするけど、平行線ですぐにどっちかが投げ出すんで、続かなくて」
「そりゃそうだな」
双子よりも近しい他人同士、微妙な均衡で成り立っている戦兎と巧の関係性を正しく認識している人間はそう多くない。目の前の男はその一人だった。
戦兎だけでなく皆が、「エボルトの顔をしたエボルトでない男」との直接的な関わりを避けているらしいというのは巧から聞いている。巧自身がそうであることも。見た目どおり神経質で繊細な彼は、変化と葛藤を受け入れるのに時間を要するのだ。
戦兎は缶コーヒーを飲みながら、相手の様子を窺う。
エプロンも帽子もない。眼鏡はかけているが、伊達なサングラスではなく知的なスクエアフレームだ。これが「本来の」石動惣一だとすると、自分が覚えている彼はやはり……。
「俺が言うのもなんだけど」
先に缶を空にした彼は、そう言いながらふと手を挙げた。そして、かぶっていない帽子を直す真似をしてみせる。
「他人行儀じゃねえか、戦兎」
それを見た瞬間の自分は、きっとひどい顔をしてしまったのだろう。相手から見慣れた笑顔が消え、狼狽の色に変わる。
「あ、ごめん……」
「ううん、いいんだ! ちょっとびっくりして……」
おろおろと謝る石動に、こちらも焦って手を振る。袖にこぼれたコーヒーの染みがついたが、気にしてはいられない。
「マスター……」
つい口にした呼び名にも、自分であわてた。自分が彼をそう呼んでいたのは、彼が彼でなかった時期だから。
「……って呼んでいい?」
「もちろん」
遠慮がちな問いに返ってきたのは、明快な肯定だった。
石動はスーツのポケットに手を突っ込み肩をすくめる。戦兎を励まし、そして絶望に叩き落とした男と全く変わらない仕草で。
「俺が知ってる桐生戦兎は、いつも『ねえマスター』って無茶なおねだりしてきたもんだ。違うか?」
「……今でも、していいの?」
無知で無邪気だったころには戻れない。しかし「石動惣一」に対する想いは、あのころから保留のままだ。
彼は「特別顧問」と書かれた名札をつまんでみせる。
「ここじゃなけりゃ、だいたいのことは」
戦兎も自分が研究所の入館証を提げていることを思い出した。混沌とした旧世界とは異なり、ここではそれぞれに立場がきちんとある。あまり馴れ馴れしくふるまうわけにはいかない。今もいつ万丈がランニングから戻ってくるかもわからないし……。
そこまで考えて、あまりにも平和な悩みに自分で噴き出した。
「どうしよう、やっと会えたのに俺……あのころとおんなじことしか思いつかない」
「やっと会えたからだよ。今度は『俺』が、全部聞いてやる」
明るく楽しく軽薄で、でもあの忌々しい元凶とは完全に切り離された男は、まぎれもなく戦兎が知っている『彼』だった。
「……ねえ、マスター」
戦兎は石動に向かっておそるおそる手を伸ばす。
迷いなく差し伸べられた手に触れ、握手でもなく指を絡めた。今はこれが精いっぱいだけれど。
「あとで、キスしていい?」
「喜んで」
*
万丈は猿渡ファームに預けてこようと思います。