七海/伊地知
赤絲結び
暗がりに浮かび上がる赤が目に痛い。
夜のあいだに動くらしいと噂になっていた、鎧の威しも赤色。
鎧に潜んでいた呪霊が吐き出す、糸状の呪力も禍々しい赤。
幾重にも張り巡らされた赤い糸を伝って垂れる、喰われた人間の血の色も……。
<あいしてる>
伊地知は固唾をのんで後ずさった。事前調査ではこの屋敷に本体がいるという予測はされていなかった。しかし少なくとも二級以上。補助監督が使い物になる場ではない。
呪霊を刺激しないよう、赤い糸に触れないよう慎重に、廊下のほうへとじりじり移動する。この離れではなく母屋へ向かった呪術師に早く知らせなければ……。
携帯端末を取り出したと同時に靴がすべった。血だまりを踏んでしまったらしい。
<あいしてる>
耳障りな呪霊の鳴き声が、偶然だろうがそう聞こえる。ただ音を並べているだけだというのに。
『運命の赤い糸というのは本来、糸ではなく縄だったそうですね』
調査資料を眺めていた七海が何気なく呟いたのを思い出す。
『手の指ではなく、足首を縛られるそうです。神の仕業なのでどう足掻いても切ることができないと』
任務に関係のない話だったから、伊地知も苦笑しながら答えたのだった。
『まるで呪いですね』
「……っ!」
片足に呪力の糸が絡みつく。
端末も弾き飛ばされてしまった。暗い室内で、四角い画面だけが発光する。しかし電話は繋がったらしく、画面の色が変わった。
「離れの仏間です!」
伊地知が叫ぶのと同時に端末が破壊され、足首が呪力で締めつけられた。咄嗟に防御の呪言を唱えるが、時間稼ぎにしかならないのは自覚している。術師の現在位置を考えると、間に合うかは微妙なところだ。
<あいしてる>
「何も愛してなんか、いないでしょうに……」
つい投げやりな呟きが洩れた。そんな情があれば、無関係の人間を片っ端から食い殺したりはしない。
不意に、どんと足下から突き上げるような揺れが起きた。
壁に天井に亀裂が走る。地震にしては短い。
事態が把握できないまま、伊地知は近くに置かれていた屏風を引き倒して、その陰に隠れた。降りかかる破片から身を守るにも、今はこれが精一杯だ。
運良く、梁や瓦が自分の上に落ちてきた衝撃はなかった。
抱えていた頭を上げると暗かった視界が一気に明るくなっていて、その眩しさに目がくらむ。呪霊が巣くっていた家は、天井も屋根も柱も崩れて全壊していた。
「無事ですか」
昼の白い光を背に受けて七海が立っていた。
きっちり締まっていたネクタイが、無造作に拳に巻きつけられている。拡張術式・瓦落瓦落。屋敷ごと破壊し、その破片を攻撃対象に集中させる……だから伊地知の上にはほとんど落ちなかったのだろう。
内側からとはいえ、その術式を目撃するのは初めてだった。廃屋とはいえ、七海がこんな広範囲の術式を使うことは珍しい。
「ええまあ……なんとか……」
伊地知が避難場所から這い出ようとしたとき、七海の背後から例の鎧がゆらりと立ち上がった。
だがもう勝ち目はない。七海は振り向かないで鉈を一振りするだけでよかった。
<あいしてる>
空っぽの鎧が崩れ落ちるのを彼の肩越しに見つめた。これが一級の仕事。呪霊が発する鳴き声にも気をとられることはない。
「すみません、調査が不十分だったようです……」
愛想笑いでごまかすつもりが、急いで立ち上がったせいか強い痛みが走った。一度膝をつくと、なかなか力が入らない。
「足をやられたんですか」
「はあ、面目ない……」
伊地知の謝罪などかまわず、七海は跪いて見聞を要求する。しかたなく鬱血した……多少の出血もあった……足首を晒す羽目になった。
明るい場所で見ると、それは赤い縄が巻きついているようだった。実際呪力で縊られていた時もそうだったが、そのまま痕跡として目に見える形で残っているのは気分が良くない。
七海が苛立った様子で深いため息をつく。そして手に巻いていたネクタイを、伊地知の傷に巻き始めた。
「あああ結構です、車に戻れば救急箱がありますから……」
「呪いで負った傷です。私の呪力では血止めくらいしかできませんから、さっさと家入さんに治してもらいましょう」
有無を言わせない口調でそう言うなり、伊地知の体を抱え上げる。
「……呪霊の分際で、神のつもりか」
低い声で吐き捨てた彼の残穢を至近距離で受け、疲弊した伊地知はそれ以上意識を保っていることができなかった。
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