七海/伊地知
記憶の中
その問いは、何の脈絡も前置きもなく投げかけられた。
「ナナミンさぁ、好きな人いる?」
彼より十歳以上離れている大人はたっぷり4秒考え、回答以外の返事を絞り出す。
「……そういう話が楽しい時期を過ぎた大人ではなく、同級生と語り合ったらどうです?」
「いや俺だって楽しいかどうかって言われたらそこまで興味ないっつーか、ナナミンにも恋バナ楽しい時期あったんだ?」
「なかったですね」
そう返してから隣に立っている学生を見下ろしたが、にやついているわけでもなく透明な視線がこちらを貫く。どうやら至って真剣な話のようだった。
「五条先生がさ、言ってたんだ。好きな人が待ってると思えば、生還率上がるよって。家族でも恋人でもアイドルでも二次元でもなんでもいいんだってさ。じゃあ強い呪術師はみんなそういうのいるんかなって」
また適当なことを……と思ったが口には出さないでおく。最強には最強なりの指導方針があるらしい。その割を食って素朴な疑問をぶつけられる身にもなってほしいが。
「虎杖君は」
「俺は家族死んじゃってるし、まあ好きな芸能人はいるけど、その人のために生きようってのはないかな。相手は俺のこと知らないわけだし。そう考えると、いないのが普通かも」
天涯孤独にも関わらず、無駄に気負った様子はない。その屈託のなさが虎杖の強みではある。
「まあ今は……伏黒と釘崎のために生き残らなきゃとは思ってる。あと先輩達……と、五条先生とナナミンも」
彼は「好きな人」達を指折りながら数え上げていく。自分がこの歳の頃にはとっくに世を拗ねていて、他人を素直に好きなどと言えなかった。
「それだけいれば十分ですよ」
生きたいという意志だけで絶対に帰れるなら、命を落とす術師はいない。
だが自己暗示として有効な場合もある。未熟な学生はそれくらいの思い込みで実力を補強してもいい。
「あ、来た」
二人の前に、見慣れた黒い車が横付けされる。
「お待たせしました」
運転席の窓から顔を出す補助監督を見て、虎杖はまた指を折った。
「あと伊地知さんと新田ちゃん」
「何の話です?」
着くなり自分の名が出てきて、伊地知は混乱した様子だ。
「単なる雑談ですよ。乗ってください」
七海は伊地知の気を逸らすように後部座席のドアを開け、虎杖を中へ促す。二人がシートベルトを締めるのを待ってから、伊地知は車を出した。
「ナナミンは? 絶対に生きて帰って会いたい人、いる?」
彼の中ではまだ話は終わっていなかったらしい。七海は窓の外を眺めながら、今度は妙な間を空けずに答えた。
「いますよ」
何か問いたげな気配を感じるのは隣ではなく前方からだが、それ以上明かす気はない。虎杖も気を遣ってか自分に無関係と思ったか、誰かとは尋ねなかった。
「ねえ伊地知さん……」
「勿論います」
思いのほか敏捷な返事に、虎杖が目を丸くする。
「補助監督になる前から、ずっと。実際、それで生き延びたこともあったと思いますよ」
「そっか」
伊地知は元々呪術師志望だった。五条に同じことを言われているかもしれないし、家族や友人も自分よりは多いだろう。何もおかしくはないはずだが、七海の中で判然としない感情が混じり合う。少なくとも自分には、その相手が誰なのか想像もつかなかったから。
ほどなく現場に到着し、三人は車を降りる。
「さて虎杖君、生きて帰りましょうか」
「おう!」
その気合いが空回りしないように見張るのが自分の役目。更に背後で、伊地知が帳を下ろすための印を結ぶ。
「ご武運を」
大人同士の視線がぶつかったその刹那、二人は互いの「帰る場所」を悟った。
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