アンホフ/ベンダー

2008_GSG-9,[R18]

Leidenschaft II

さして強くもないはずの風に、ベンダーは思わずコートの襟を胸元に引き寄せていた。
移動販売車の無愛想な売り子からコーヒーを受け取ると、じっとしているのが耐えられないといった様子の長い脚が、足早に並木道を横切っていく。実際、立っているだけで身体の芯まで冷えていく気がしていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ベンチに座っていた中年の上司は長身を見上げ、口の端だけで微笑んでカップを受け取った。ベンダーも笑みを返して、彼の横に腰を下ろす。
「……………」
コーヒーの湯気に、どちらからともなくため息が洩れた。
まだ雪こそ降っていないが、明日降ってもおかしくない。オフィスにはずいぶん前から暖房が入っている。そんな季節に、我らが司令官はあたたかいカフェからわざわざ灰色の空の下に出て、短い休憩時間の残りをここで過ごそうとしているのだった。
「なにも、こんなところで食休みをとらなくても……」
真っ黒なコーヒーを覗き込みながら呟くベンダーを、アンホフは横目で一瞥する。
「なにも、休憩時間を全て私に費やさなくてもいいんだぞ」
「……………」
ベンダーは言葉に詰まったのを隠すために、コーヒーをすすった。遅い昼食に誘われただけでもレアなのだ。その貴重な休憩時間を、少しでも自分のために使いたかった。つまり、彼と二人きりでいたかった。
沈黙が訪れる。気まずさを感じさせない、心地よい静寂。車が行きかう音、元気な子どもたちの笑い声、風に舞う枯葉が足元で立てる乾いた音。
冷たい空気に冷たいベンチだというのに、リビングのソファに座っているような穏やかな気持ちだ。仕事はまだまだこれからなのだが。
「今日は……すまなかったな」
アンホフがぽつりと呟く。
「いえ……」
今日、本来ならばベンダーはここにいる必要はなかった。休日だったのだ。だがそれはアンホフにも言えることだった。予定どおりならば、二人はこんなどんよりとした空の下ではなく、あたたかい家の中で別の過ごし方をしているはずだった。
慣れた、とはいえ、楽しくないことに変わりはない。だからこそ、職場では必要以上にそっけないアンホフが、彼なりに気を遣ってベンダーをランチに誘ったのだろう。
「あなたといっしょにいられるなら、どこにいても幸せですよ」
「いつも生殺しだと文句を言っているのはだれだ」
「それは……」
たしかに、こうして並んで座っていても、肩を抱き寄せることさえ叶わない。ときにはそれが耐えがたく思えてしまうこともある。
「今はまだ、だいじょうぶです」
「まだ、か」
アンホフはベンチの背にもたれて曇り空を見上げた。
そらした喉はコートの襟ときっちり巻かれたマフラーで見えない。だが記憶にあるそのラインを思い浮かべることは難しくなかった。
白い喉を下りて鎖骨よりさらに下、ネクタイを解いても見えない位置に、ベンダーがつけた痕跡はまだ残っているだろうか。今、空を仰いで白い息を吐き出しているのと同じ角度であごをそらし、恋人に縋りついて甘い喘ぎを洩らしていた夜のことを、彼は覚えているだろうか……
自分の妄想に思わず喉を鳴らしたとき、気づいているのかいないのか当のアンホフがこちらを向いた。ベンダーは思わず背筋を伸ばし、カップの中のコーヒーを飲み干す。
「……それにしても寒いな」
その呟きには、笑みが滲んでいた。
「おかげで頭が冴える」
言葉の意味を問うように見つめるベンダーに、アンホフは静かな笑みを返す。
「ただでさえ夏のようにあたたかいオフィスの中で、頭に血が上る仕事をしていると、脳が正常に働いているか怪しくなってきてね」
「冷却というわけですか」
本部のサーバールームを思い浮かべた部下に、上司は「そういうことだな」と苦笑してコーヒーを飲んだ。
「私が過剰な負荷でオーバーヒートしたら、ヘルムホルツが冷却してくれるだろうか」
もちろん、してくれるだろう。同僚たちからひそかに「氷の女王」と称されているスーパーコンピューター並みの頭脳は、システム相手だろうが上司相手だろうができないことはない。そのこと自体に異論はないが、ベンダーなりに思うところもある。
「私にはできないと?」
その言葉に、アンホフは驚いたように片眉を上げてから、顔を背けて並木を見渡す。
「ああ……そうだな……」
べつに今さらペトラと比較されても怒りはしない。ただの冗談だ。なのに、その歯切れの悪さが気になった。
アンホフは殊更に大きく白い息を吐き出してから、時計を見やった。
「……そろそろか」
「ええ……」
いつものように大儀さを感じさせない動きで機敏に立ち上がり、司令官はふり返りもせずに歩き出す。
ベンチに座ったままのベンダーは、すでに乾いてしまった唇を舐めた。それでもコーヒーのおかげかコートの中が少し熱くなっているようだ。
「ベンダー? 寒いんじゃなかったのか?」
並木道から皮肉とからかいがこもった声がかかる。
「……ちょっと冷却を」
そう答えながら腰を上げ、長い脚を大きく前に踏み出してアンホフに歩み寄り……ほっそりとした背中を抱き寄せたくなる衝動を抑えつつ……報告でもするような真顔で彼の耳元に口を寄せる。
「たしかに冷却はヘルムホルツのほうが適任です。私は……」
「わかってる」
眉一つ動かさず、それこそ報告を受けた司令官の顔で聞いていた彼は、部下の言葉を遮って手を軽く挙げた。そして無表情に本部への帰り道を歩きはじめる。
だがコートの襟に半分埋まった耳だけは正直で、朱に染まっている。ベンダーはゆるむ口元を隠すために、冷たくなった両手に息を吐きかけた。
冷やすことはできない。できることといえば、彼の内側に火をつけて熱くさせ、その明晰な思考を乱れさせることだけ……
そして当然ながら、今はそうするべきではない。ベンダーは冷えた頭でそう判断し、「氷の女王」が待つオフィスへとアンホフをエスコートすることに決めた。
彼の、上気した耳を眺めながら。

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2008_GSG-9,[R18]

Posted by nickel