戦兎/石動
【innocent】
外の看板を下ろしたばかりだというのに、青年は悪びれることなくふらりと入ってくる。こちらも居候が勝手に出入りするくらいは今さら気にしない。
「おかえり」
「ただいま。美空は?」
ポケットからボトルを出そうとしているが、あいにく今すぐに実験はできない。
「さっき配信終えて寝たよ。明日までは起きねえな」
「そっか……」
彼は手にしたボトルを弄びながら、カウンターに寄りかかる。こちらもカウンターを拭いていたから、自然と距離が近くなった。
「……どうだった?」
顔のすり傷に固まった血がこびりついているのは気づかないふりをして、手を止めずに尋ねる。彼もボトルから目を離さずに答えた。
「だれにも怪我はさせなかったよ」
うつむいたままの、心底うれしそうな横顔を眺める。
実験結果に興奮しているときとはちがう。理知的な顔がくしゃっと無邪気な少年のように崩れるのだ。前にからかい半分でそう指摘したら、ひどく驚いた顔をして、それからまたその顔で笑った。
「そっか……うれしいと、くしゃってなるんだ」
そんなことを言いながら。
今もそんな表情をしていて、こちらまで口元がゆるむのを止められない。
「なんか食うなら、今作ってやるぞ」
家主の親切な提案に、彼は腹を押さえて自分の腹具合と相談するように首をかたむけ、「うーん、いいや」と答えた。それでもすぐ地下に下りていくわけでもなく、今日の戦果であるボトルをただ眺めている。
「なんだなんだ、疲れたのか?」
手を伸ばして髪をかきまわしてやると、彼はくすぐったそうに肩をすくめて、「ぜんぜん!」と笑いながら小突いてきた。じゃれついてくる顔は打って変わってやんちゃな悪ガキとでもいった様子で、くるくる変わる表情はこちらを厭きさせない。
「お、まだ元気余ってるじゃねえか」
「疲れたなんて言ってねえし! 今回も超余裕でしたぁ」
「顔に傷作って言われてもなあ、説得力がなあ」
成果がわからなかった段階ではあえて触れなかった頬の傷をつついてやると、忘れていたのか彼は初めて痛そうに顔をしかめた。
「かすり傷だよ」
「そうかい。じゃあすぐ治るな」
実際、この肉体の回復力は通常の人間とは段違いだから、それほど心配してはいない。体のほうは。
「まあ、よくがんばったよ」
身をかがめてその傷に軽く口づけた。他愛ない接触のつもりだったが、彼は目を丸くしてこちらを見返してくる。
「なに今の」
「……ご褒美?」
わざとらしく小首をかしげてみせると、青年はすぐに噴き出して「なにそれ」と笑いながら、腰に抱きついてくる。さっきのじゃれ合いのつづきかと思ったが、そのままこちらの肩口に顔をうずめて動かなくなった。
「戦兎?」
呼びかけてもレスポンスはない。手持ち無沙汰に頭や背を撫でてやると、甘えるような仕草で肩に顔をこすりつけてきただけだった。
「……お疲れ」
カウンターにもたれかかったまま、やわらかい髪をいじりながら見えない顔に声をかける。
くしゃっと崩れた、その顔を思い浮かべながら。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます