戦兎/石動
【coffeemaker】
静かだった。
室内には確かに人間が三人いるのに、会話もない。地下の隠し部屋に外界の騒音など聞こえるわけもない。
だが無音ではなかった。
石動はロッキングチェアに長身をゆだね、目を閉じてラボのほうから聞こえる音を聞くともなしに聞いていた。
まずは空調……締め切った空間の温度と湿度を一定に保つ機器は二十四時間休みなしで働いていて、もはや意識にも上らない。そして戦兎が作った浄化装置の稼働音……今まさに美空が中にいて動作している。これもよほど耳を澄ませなければ気づかないだろう。
「うーん……」
一方、非常にわかりやすく聞こえてくるのが、戦兎の呻き声だ。
「むー……」
さっきから机にかじりついて、髪をかきまわし唸っている。その前は忙しなくボードにアイデアを殴り書きしたり、大量のメモをがさがさと散らかしたりしていたのだが、動きがなくなってからは何かひたすらに考え込んでいるようだった。
「……うがー!」
よくわからない叫び声につい噴き出しそうになった石動は、頭の上にあった帽子を顔の上にずらす。煮詰まった末に爆発、といったところだろうか。
大きな大きなため息とともに彼が椅子から立ち上がり、こちら側へ歩いてくるのがわかった。コーヒーブレイクだろうなと思う。しかしコーヒーメーカーは空のままだったような……。
帽子を顔の上に乗せたまま、戦兎が洗い物から始めるのを聞いていた。
ガチャガチャと器具を扱う音や水音の合間に、鼻歌めいたものも聞こえる。楽しそうというより、無意識に出ているといった雰囲気だ。頭の中は、まだ考え事でいっぱいなのだろう。
コーヒーメーカーがやっと動きはじめた……と思ったところで。
「マスター」
不意に声をかけられた。思ったより声が近いと思いながらも、顔が隠れているのをいいことに無視する。
「起きてんでしょ」
「いいや、ぐっすり寝てる」
その答えに、戦兎は呆れたような笑いを洩らした。
「あっそ……」
帽子を取り上げられたが、目は開けない。
それでも戦兎の顔が近づいてきたのはわかる。柔らかい唇が頬に触れた。口じゃないのか、と思い、わずかに落胆した自分にも驚いた。
それでも動かずにいると、今度は眼鏡を奪われる。互いの鼻が軽くぶつかり、今度こそ唇が重ねられた。相手の息遣いを音だけでなく肌でも感じる。
こちらの予想どおり……期待どおりに唇をこじ開けながら、戦兎はひじ掛けに置かれた石動の手を掴んだ。
ひざに乗りかかってくる体の重みが心地よい。
パーカーの裾から手を入れ、骨の浮いた背筋をなぞった。身をよじるものの文句はなく、いつもの軽口も出ない。
一心不乱といった様子で、戦兎は濡れた唇を石動のあごへ押しつけた。それから首筋へ。くすぐったくて笑ってしまうが、彼は至って真剣に石動の肌に触れている。
鎖骨を通りすぎて、ボタンを外したシャツの胸元に顔を突っ込むときも、何ひとつ言葉を発しない。熱中しているのではなく、うわの空なのだ。脳はブレイクタイムどころかまだフル稼働していて、熱を帯びた体とは全く別の方向を向いている。
わかっているから今さら気を引こうとも思わないが、されるがままは性に合わない。石動はひざを戦兎の脚のあいだに押しつける。
「……っ」
熱い息を洩らした青年は、前髪のあいだからこちらを見上げた。笑みが見たくて頬をさすってやるが、その表情は真剣そのものだ。まだ身体の変化に思考がついてきていない。
「戦兎……」
誘い文句を考えながら、彼の名を呼んだとき。
唐突に、隣室から小さな爆発音が聞こえた。
「!」
戦兎が勢いよく身を起こす。浄化が終わったのだ。
「ぃやったーぃ!」
ハイテンションな歓声と、野生動物のような形容しがたい奇声。するりと石動の腕から抜けた戦兎は、躊躇いもなく身体を離して処理が完了した装置へ駆け寄っていった。
「……………」
思わず天井を見上げ、そのまま息を吐き出した。
余韻も何もない。しかし呆然としていても仕方ない。
肌に残る感触や熱を振り落とすように、シャツやエプロンを軽く払って裾やボタンを直す。外された眼鏡は、エプロンの肩紐に引っかけてあった。帽子はロッキングチェアの背もたれに。床に放り出されなかったことに感謝すべきか。
それぞれ取り戻したところで、疲れ切った顔の美空が姿を見せた。
「おう、おつかれ」
「……おやすみなさい」
娘を労るために全開の笑顔を作ってみせるが、のんきにくつろいでいる父親のほうをほとんど見向きもせず、彼女は目の前のベッドに倒れ込んだ。そして気絶同然の眠りに落ちる。
ラボのほうは賑やかなものだ。テンションとともに何か思いついたのか、問題解決の糸口が見つかったのか、大きな独り言を口にしながらまた紙を散らかしはじめている。
「……やれやれ」
ボトルについては気になるし、戦兎の発想や発明も確認しなくてはと思うが、彼ほど瞬時には切り替えられない。耐えられないほどではなくとも、熱はまだ残っていた。今すぐ彼を数式から引き剥がし、むりやり欲望に溺れさせてやりたいという衝動もなくはない。やろうと思えばそれほど難しくはないだろう。
だがああなると、彼は他のことに意識がいかなくなる。それを遮ることはだれにもできないし、最もしてはならないのが自分だということもわかってはいる。
結局、吐息を嘆息にすり替えて、帽子を顔の上に乗せるしかない。
視界を隠す直前に、さっき戦兎がセットしたコーヒーメーカーを見やる。本人はコーヒーのことなど完全に忘れているにちがいない。つまりあのコーヒーメーカーも、今の自分と立場的に大差ないということだ。
「ったく、どうしてくれるんだよ……」
帽子の下で呟いて、石動は再び目を閉じた。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます