蒼太/鳥羽
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恋の病
『なあ、今日は愛想悪かったけど。あの取引相手は気に入らなかった?』
『好みじゃなかっただけです。なんか卑屈な感じがちょっと……』
『蒼太、おまえの理想の相手ってどんなの?』
『うーんとねえ、ぼくのものにならない人!』
自宅のドアを開ける。
その瞬間、違和感に気づいて反射的に閉めていた。
侵入者がいる。
「……………」
この部屋へ入るためには、三つのゲートをくぐり抜けなければならない。マンション外の門、マンション一階の入り口、そしてこの玄関ドア。どれもがオートロックのキー認証で、かんたんには入れないはずだった。とくにこのドアは、自分でつけた第二のロックがかかっている。並みの泥棒レベルではまず侵入不可能だ。
携帯電話を出して、室内に仕掛けた監視カメラを確認しようとした、そのとき。
「!」
目の前のドアが無防備に開けられた。
「よっ」
「とっ、鳥羽さん!」
身がまえたまま、呆然と相手を見つめる。
今日……日付が変わっているから昨日だが……別れたばかりの男が顔を覗かせていた。
「遅かったな。まあ立ち話もなんだから、入れよ」
自分の部屋のように手招きをする彼の態度に、思わず苦笑してしまう。
「……ぼくの部屋なんですけど」
肩をすくめて、携帯電話をポケットに突っ込んだ。
この部屋には数日帰っていなかったが、それなりに散らかっていたと記憶している。というより、散らかっているのがデフォルトなのだ。
だが入ってみれば、脱ぎ散らかされた服もなく、汚れた皿やインスタント食品の残骸もない。見ちがえるほどきれいに片づけられた部屋のテーブルに、ただ淹れたてのコーヒーだけが置かれていた。
「おまえ、あいかわらずの生活してるなあ。ある意味安心したよ」
すっかりこの部屋の主と化した彼は、ソファに身を投げ出してコーヒーに手を伸ばす。
「鳥羽さん、なんでここに……」
あたりまえの質問をすれば、彼もあたりまえのような顔でこちらを見た。
「身を隠すって言ったろ?」
「まさか……」
彼が「身を隠す」場所に選んだのは……。
悠然とコーヒーをすすりながら、彼はにっこりと微笑んだ。
「住人はほとんど帰ってないみたいだし、だれにも迷惑はかからないよな?」
あまりに堂々とした態度こそが「あいかわらず」で、また苦笑が洩れる。
「もう、いきなりなんだから……」
あのころにもどったようなくつろいだ気分で上着を脱ぎ捨て、それからふと今の自分について考えをめぐらせた。そうだ、あのころとは決定的にちがう。もうフリーランスではない。
ふっと息を吐き出して、彼の手からカップをさらった。
「でも、今夜は寝かせてください。上司命令なんです。ゆっくり休めって……勤め人もたいへんなんですよ?」
一口飲んで、異常な甘さに眉をひそめる。忘れていた。彼が、角砂糖を茶菓子にするほどの甘党だったことを。
カップを置いて、あらためて自分のコーヒーを淹れようとキッチンへ向かいかけると、彼がため息混じりに呟いた。
「残念だな。せっかく今夜の予定キャンセルしてきたってのに」
「また……女の子泣かせて……」
こちらの言葉は聞こえなかったように、彼は携帯電話を取り出す。
「まあいいや、別の子に声かけ……」
大股に歩み寄って、携帯電話を取り上げた。
「……ぼくまで泣かせる気ですか?」
眉を上げて、おかしそうに口を曲げる。
「おや、いつからジェラシーなんてコマンドが増えたんだ?」
「さあね」
彼の電話を放り投げ、腕を伸ばす。その抱擁は自然に受け入れられ、二人は毎日顔を合わせている恋人同士のように抱き合った。
心のどこかに引っかかっているわだかまりも、この関係へのためらいも見せずに。
『ぼくのものにならない人? なぞなぞ?』
『ちがいますよぉ。そのまんまの意味で……
ほら、ミッションだってインポッシブルなほうが燃えるじゃないですか。
ぜったい手に入れたいのに、ぜったい手に入らない、そんな人がほしい!』
『じゃあ、俺は失格だな』
『あはは! そうですね、こんなにしっかりぼくの腕の中ですもんね』
キッチンに、カレーのいい匂いが立ちこめている。どんなスパイスをどういう配合で作っているのかは知らないが、彼オリジナルだと聞いた。
見覚えのない鍋があるから、たぶん彼が買ってきたものなのだろう。ここの台所には鍋もフライ返しも菜箸もない、と先日こぼしていたから。
料理をしない自分に、鍋が何種類あっても無意味だ。フライパンくらいはあるが、それさえもほとんど使わない。冷蔵庫さえも空っぽで、調理しなければ食べられない食材が山ほど入っているのも初めてだった。
これまた見覚えのない皿に乗ったナンをちぎりながら、目の前の彼に訊く。
「仕事はないんですか?」
「だれかさんのおかげで長期休業中だよ」
ほんとうに、ここに身を隠しているらしい。いちおう彼の衣服や持ち物を調べてはみたが、なにかの任務を抱えている形跡は見られなかった。この自分にも見つけられないものなら、探してもムダだ。彼を信じるしかない。
首をすくめて、カレーをつけたナンを口に運ぶ。
さすがにこの自分の好みを知りつくした男が作るものは美味い。料理の腕なら、うちのチーフやサブチーフも負けていないだろうが、それとは別次元の味だ。実の家族との記憶がほとんどない自分にとって、これが「故郷の味」とか「母親の味」に代わるものなのだろう。
彼は黙々と自分の作った料理を食べている。美味いか?とは訊かない。それがあの人とはちがうところだな、とぼんやり思った。
「蒼太」
「はい?」
「考えごとしながらメシ食うクセは直ってないんだな」
「すいません」
あいまいに笑って、ナンをほおばる。あのころは、楽しいミッションのことで頭がいっぱいだった。今は……
「鳥羽さん」
「ん?」
「明日……は帰ってこないんですけど、あさっては和食が食べたいです」
「いいよ」
イヤな顔もせず、彼は即答し、それからテーブル越しに手を伸ばしてきた。
長い指がこちらの口元をすっと拭っていく。一言もなく、照れや笑みもなく、平然と。指についたカレーを舐め、また自分の食事にもどる。こちらもその唐突さ以外には驚かないし、なにも思わない。
あのころの生活そのままで、なんだか奇妙な気分だった。
『でもさあ……手に入らない相手ってのは、手に入っちゃったら
やっぱり厭きちまうもんじゃないのか?』
『そうか……そうですね。でも、その過程を楽しめればいいんですよ』
『そりゃおまえ、理想の相手じゃなくて、理想のゲームだろうが』
『ゲームじゃないです、本気の恋愛です』
『うん、恋愛ゲームな』
『だからゲームじゃないんですってばー!』
ロックされているはずの玄関ドアが開く。
「ただいまぁ」
「鳥羽さん……フツーにチャイム鳴らしていいんですよ?」
「ああ、ごめんごめん。こっちのほうが楽でさ」
めずらしく、家主のほうが先に帰ってきていた夜。きちんとメールも入れたのに、彼はごていねいにマンションのセキュリティをすべてくぐり抜けて部屋にやってきた。
楽なはずがない。だが、追われる身が一箇所にいつづけることのリスクを彼は理解している。表から堂々と入ってくることはほとんどないのだろう。
「一週間ぶりだね、ハニー」
両手を広げて歩み寄ってくる彼に応えようとして、思わず眉が寄ってしまった。急いで笑顔を作り、胸の前で両手を広げてみせる。
さりげなく抱擁を拒否された彼は、驚いた顔で首をかしげた。
「鳥羽さん、まずシャワー浴びて着替えたらどうですか?」
「は? ちゃんと向こう出るときに……」
言いかけて、彼は自分の袖口に鼻を寄せ移り香を確かめる。少しきつめのトワレが残っていたのだ。
「シュミ、変わったんだ?」
「はい、アブノーマルからノーマルに」
「老けたねえ」
彼は笑いながら、脱衣所へと姿を消した。
その姿を見送って、彼の着替えを探すために寝室へと向かう。
以前は、彼がどこのだれとも知らない相手の香りを持ち帰ってくるのが、楽しくて仕方がなかった。男か女か、年上か年下か。遊びのつもりか、本気になってしまったのか。そんなことを想像しながら、彼を抱き、ときには抱かれる。相手はよく知った彼なのに、まるでちがう人間に抱かれているようで、ひどく昂奮した。
だが今は、なぜかまったく楽しくない。今日のように香りが強いときには、敬遠すらしてしまう。
嗅覚という本能的な部分だから、自分では原因も理由もよくわからないが……彼には、彼自身でいてほしかった。この自分が、自分自身であるように。
『でも、手に入らなくてもいいかなって思うんです』
『ん? おまえらしくないな』
『えへ、ぼくらしくないでしょ? ぼくらしくなく、恋の病にかかって、
手に入らない人を想いながら、悲しみのあまり死んじゃうんです。
恋に生き、恋に死ぬってかっこよくないですか?』
『腹上死はかっこよくないと思うよ。ちょっとあこがれるけど』
『恋の病と腹上死はちがいます! 鳥羽さんにはロマンがないなあ』
『恋の病、ねえ……』
「こういう発言は、年寄りみたいでどうかと思うけど」
風呂上がりの彼が髪を拭きながら言った。
「昔のおまえはさあ……いっつもにこにこしてて、悩みなんかぜんっぜんなさそうだったよなあ」
「実際、なかったですし」
当時に負けないくらいの笑顔を作れば、彼もとろけるような甘い笑顔を返してきた。
「でも、今の作り笑いのほうが、俺は好き」
「え……」
彼の笑みが、ますます優しく蠱惑的な色を帯びる。
「そそるっていうか。あれだ、人妻とか未亡人とかにムラムラッとくる感じ」
「えー……」
こちらの笑いは苦笑に変わった。
「恋の病にかかった気分はどう?」
いきなりそんなことを言われて、なんの話かと数秒考える。それが、大昔に交わしたピロートークと、今の自分についてだとわかると、思わずため息をついてしまった。
「……最悪ですね。まさに死に至る病、って感じ」
厳密には片想いではない。相手が自分に好意を持ってくれていることは知っているし、何度も身体を重ねた。だがそれでも。あの人は、永遠に自分の手に入ることはないのだ。
もう一度、ため息が洩れる。
「恋の病にかかって死ぬ、か……最高にロマンティックな最期じゃないか」
「えー、ぼくはスパイとして腹上死は不名誉だと思うんですけど」
「腹上死じゃなくて、恋の病だろ。ロマンのないやつだな……」
なんだか覚えのあるやりとりだ、と思いながら、ソファに座る彼にもたれかかった。
そして、三度目のため息。
「ロマンなんかないですよ。苦しいだけで夢もロマンもなくて、まるで永遠につづく拷問です。ぼく、そんな拷問に対する訓練は受けてないですし。それなら、不名誉でも腹上死のほうがいいなって最近よく思うんです」
「末期だよ、それ」
どういう相手だとか、どういう関係でどういう状況だとか、ライバルは何人だとか、相手の名前さえ、具体的なことはなにひとつ話していない。それでも、彼はこの自分の現状を見抜き、そして……
そして? なぜ、彼はここにいる?
お互いが、だれとどんなつき合いをしようと、干渉も口出しもしないのが暗黙のルールだったはず。だがこれはまるで恋愛相談だ。
もしかして、彼は……だがそう訊いたところで、素直に答えてくれる相手ではない。彼の肩に頭をあずけ、笑顔を作った。
「ぼく、鳥羽さんを利用してます?」
「しろよ。俺たちはそういう関係だろ?」
そういう関係。
抱いて、抱かれて、利用して、利用されて。欺き合って、協力して、なにも言わずに別れて、また再会して。何度も何度も、あたりまえのようにそうしてきた。そんな相手は、彼しかいなかった。
今ここにいる理由だって、直接尋ねれば、暇つぶしだとでも言われるのだろう。家族愛のような、後輩への深い愛情を隠して。
『蒼太……今の、ぜんぶ嘘だろ?』
『あ、バレてました?』
『おまえはそんなにバカな子じゃないって、お父さんよく知ってるから』
『だってぼくの理想の人は、鳥羽さんですもん』
『嘘も大概にしなさいね。オオカミ少年になっちゃうよ?』
『あはは、ぼくに真実なんて必要だと思います?』
ふと、彼がなにかを思い出したように天井を仰ぐ。
「そういえばおまえ、スパイやめたのってまさか……運命の男に出会ったからとか言わないよね?」
だったらどれほどロマンティックだったか、と苦笑した。
「まさか。あの人に出会ったのは、ぼくが捕まってからですよ。ぼくの進退はぼく自身の意志で決めました」
それは、フリーのエージェントとしての最後の矜持。
たとえきっかけは小さなプリンセスの涙だったとしても、あふれる才能を捨てるには、恋などという甘ったるい理由が入るはずもなかった。実際のところ、恋は甘くなどなくて、矜持よりも職業意識よりも厳しいものだったのだけれど。
「それならいい」
「なんでですか?」
「おまえはまだ、自分を見失ってないってことだよ。恋の病で死ぬなんて百年早い。せいぜい俺を利用して息抜きしとけ」
「あ……」
ありがとう、と言いかけ、口を閉ざす。
礼を言うようなことでもないし、そんな仲でもない。彼は自分の意志でここにいて、なにもかもわかった上で利用されてくれている。ありがとうと言えば、それがすべて崩れてしまうような気がした。
「鳥羽さん」
「なに?」
「お疲れのところ申しわけありませんが、セックスしませんか」
「うーん……それは悩むなあ……」
二人は互いに顔を見合わせ、極上の笑顔を作った。
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