映司/アンク
人間の住処だった屋敷。
だが今そこに人間はいない。一人も。
いるのは全て……
アンクはテーブルの上に散らばるメダルを、赤い右手でつかんだ。欲望のメダル。体内に取り込むこともできる。だがそれだけだ。
左手を伸べる。ほっそりとした人間の手に触れるメダルは硬く、冷たい。弾けば音がする。割れるときも別の音がする。噛んでみても決して美味くはない。あごが痛くなるだけだろう。
わかりきったことはせず、アンクは左手の中の冷たいメダルを見つめた。
見える。聞こえる。味わい、感じる。
グリードには鈍い痛みでも、人間の身体では耐えがたいほど激しい痛みになり、そして全ての快楽は初めて味わうものばかりだった。
アンクだけが知っている。他の同族たちはせいぜいが擬態して「ふり」をするだけ。
ウヴァは鈍く光るメダルの色を知らない。
カザリは肌を切り裂かれる痛みを知らない。
ガメルはアイスの甘さを知らない。
メズールは肉体が交わる快楽を知らない。
真木はその全てを捨てた。
だがアンクはその全てを知っている。その全てを手に入れたいと願っている。なのに、目の前にあるのはメダルだけ。アンクが体験してきた快楽は、全てあの店と屋根裏部屋にあった。
「えい、じ……」
アンクの手からすべり落ちたメダルが、テーブルの上で他のメダルとぶつかり合って騒々しい音を立てた。
【グリードと人間と初めての夜】
その日、アンクは一歩も外に出なかった。
ヤミーの動きはないし、なにより雨が降っていた。濡れる羽根はないが、機動力が落ちることには変わりない。食事のとき以外は、自分の巣にこもっているしかなかった。
店じまいを終えた映司が屋根裏部屋へ上がってくる。彼はドアを開けると同時に「巣」を見上げ、「まだ起きてたんだ」と笑った。
返事をせずに映司から目を逸らし、手元の携帯端末をいじる。同じ部屋に住んでいるからといって、楽しい会話があるわけでもない。最低限の用事を伝える以外には、言葉を交わすどころか相手の存在を認識しつづけることさえ必要ない。
用事……そうだ、これだけは言っておかないと。
「アイス、なくなってたぞ」
「ああそうだっけ? ごめんごめん……」
服を脱ぎかけた映司は、そのままの状態でアンクを見上げた。
「ていうか、こんなに寒くなってるのに食べる量が減らないってどういうこと?」
まだ冬というには早いが、夜はそれなりに冷える。映司もさすがに下着だけとはいかず、部屋着でベッドに入るようになった。アンクも寒さは感じるが、それとアイスとは全く別の話だ。
「うるさい。契約だろ」
「べつにムリして食べなくてもいいんだけど……」
寒いと言いながらも、映司はあっさりと服を脱ぎ捨て下着だけになる。
見るともなしに見下ろしたアンクだが、なぜかその姿から目が離せなかった。
グリードとは基本的にちがう、脆弱な身体。
人間の区別などしていなかったが、「見える」ようになってから、男と女、大人と子供、以上の違いを認識するようになっていた。
映司はどちらかといえば大柄なほうで、オーズの力を使っているとはいえ変身前でも体力や筋力は人並み以上だった。鍛えた肉体はどんな仕事でもこなす。
アンクが寄生している男も、かなりの長身でそれなりに体力はあるが、映司と並ぶとやはり劣る。映司のように弾力のある厚い筋肉はないし、肉より先に骨が当たる有様だ。映司並みに厚い身体なら、もう少しまともに戦えるだろうか。
自分で気づかずに、アンクは映司を羨んでいた。あれが自分の肉体だったら、という漠然とした欲望は、まずあの身体を自分で確かめたいという直接的なものに変わり、触れるとどうなるのかという好奇心へと移っていく。
「……?」
舐めまわすように映司の裸を眺めているうち、妙な気分になってきた。
なにか息苦しい、そして暑くもないのに身体の芯が火照る感覚。
その感覚の意味を知るため、信吾の……一般的な成人男性の記憶を探る。
やがてアンクは、その感覚の先にある具体的な欲求、そして信吾が映司の身体を見てもなにも思わないであろうこと、を理解した。
「これが欲望か……」
「ん? なんか言った?」
信吾の身体でアンクの欲望をどこまで変換できるかは未知数だが、だからといって試してみない理由はない。なにしろ、経験したことのない「欲望」だ。
アンクは携帯端末を放り投げると、脱いだ服をたたんでいる映司の前に飛び降りる。
「なに? アイスは明日買ってくるから今夜は我慢……」
胸ぐらをつかもうにも裸の相手ではどうしようもなく、目の前の顔をつかんだ。
「ふぐっ!?」
「おまえの身体は好きにしていいって言ったよな」
目を丸くした映司が口を動かそうとするから、少し力をゆるめてやる。
「え……今?」
気の抜けた返事に苛立って、顔をつかんだ手で後ろのベッドへ映司を突き飛ばした。
「ちょっと、そんな急に……」
「こういうのはテンションとムードで急に始まるもんだろ?」
「そういう人間っぽいこと言うなら、ついでにムード作る努力もしたらいいじゃん……」
的外れなことをもそもそと呟きながら、映司はベッドの上で身を起こす。
「でもおれ、男同士のやり方よく知らないよ? 刑事さんもたぶん知らないんじゃないかな」
「ふん……」
映司が「好きにしていい」などと言い出した理由がわかった。アンクがその気でも大したことはできないと高をくくっていたのだ。
映司の前に仁王立ちになったアンクは、勝ち誇った笑みを浮かべるとベッドに片ひざを乗せる。それも、映司の足のあいだに。
「心配すんな、だいたいわかってる」
「え、なんで!?」
あてが外れたのと、一気に距離を詰められたのとで、映司が目に見えてあせっている。アンクは目を細めて間抜け面を覗き込んだ。
「欲望の定番だからな。何度も見てるさ。男でも女でも、厭きるほど……」
欲望を貪る人間はひどく醜くて愚かで、グリードたちは束の間の優越感に浸る。だが一方で、そこまで理性を捨てさせる欲望を自分で味わってみたくてたまらない。
本格的に身体が熱くなってきて、ジャケットを脱ぐ。
「ねえ、もしかしてアイス? アイス切らしたの怒ってる?」
どこまでも的外れだが、今はどうでもいい。足のあいだのひざを進めてカラフルなパンツに押しつけると、さすがの映司も息をのんで黙り込んだ。
「よく知らない……ってことは、なんとなくは知ってるわけだ」
凶悪な笑みを口元に張りつけているアンクを、映司は冷静な目で見上げる。冷静なふりをして、必死に対策を考えている顔だとアンクは知っていた。
「どうしてもやらなきゃダメかな? 単に処理するだけなら、もっと楽な方法あるけど」
「ふざけんな」
そうはさせない。アンクは映司の肩をつかみ、まだなにか言いたげな口に噛みついた。
「む……っ」
やわらかい唇。逃げようとする舌。鼻にかかった呻き声。そしてアンクが羨んだ裸体……
肩から胸を骨ばった手で撫で下ろされ、映司の身体がわずかに震えた。その反応だけで、アンクの心も体も昂揚していく。
ベッドに押し倒されても映司は大した抵抗もしなかったが、パンツを脱がされそうになったときにはさすがにアンクの手をつかんだ。
「あっ、待って待って」
「だれがやめるか」
「そうじゃないよ、準備はしなきゃ」
「はぁ!?」
虚を突かれたアンクの身体をなだめるように押しやり、「ちょっと待ってね」とジェスチャーしながらベッドを降りて、映司は箪笥の引き出しから例の「避妊具」を取り出す。
「せっかくだもん、使わせてもらおうよ」
「そんな面倒なことやってられるか!」
使い方は知っている。その目的も。だがアンクにはなんの益も得もない用途だ。
「だいじょうぶ、全部やってあげるから」
なにがだいじょうぶなのか、映司は人なつっこい笑顔を浮かべた。
「おれ海外長かったし、しばらくまともに健康診断受けてないし、万一のことがあったら困るでしょ」
「万一ってなんだ」
「おれかおまえのどっちかが体悪くして、戦えなくなるかもってこと」
「ちっ……」
最大の切り札を出されては、押し切ることも難しい。
「じゃあ早くしろ! 俺は今すぐヤりたいんだ!」
「……あんまり大きな声で言わないでよ、そういうこと」
他にだれが聞いているわけでもないのに、映司は心なしか声をひそめる。全裸で今さらなにをだれに憚ることがあるというのか。むだなことばかりを気にする相手に苛立ちながら、アンクは戻ってくる映司の腕をつかんでむりやりベッドに引きずり込んだ。
餌として搾取し、あるいは傷つけることしか知らなかった、人間の肉体。だが同じ皮膚を持った手には、その感触は心地よく感じられる。
手のひらを押しつけるだけで、わずかに身体がこわばったのが伝わってきた。
「あのさ……やっぱりムリでした、とかでも怒らないから……」
「んなわけあるか、さっさと脚開け」
ひざで蹴ってやると、「だからそういうこと言うなって」と呻きながら、のろのろと両足の位置をずらす。アンクは両手でそのひざをつかんでさらに押し広げ、後ろの窄まりへ適当に指をねじ込んだ。
「ひ……っ」
映司がとっさに自分の口を押さえる。
こらえようとした声がどういう種類のものなのか、アンクにはわからないし興味もない。ただ単純に見た目、アンクが映司を貫くにはそこは狭すぎるという理由で、中を広げるために指を動かす。そのたびに映司は声もなく喘ぎ、逃げるように腰を揺らした。
反応が常の映司とちがうことに愉悦を覚え、アンクは差し入れた人の指をグリードの指へと変えてみた。
「……!!」
大きく息をのんだ映司が目を見開き、完全に身を硬くした。
質量は一気に増し、岩のように硬くごつごつとした形状のせいで、絡みついてくる内壁に埋もれて動きが取れなくなる。このまま動かせば、爪や突起が映司の中を傷つけるだろう。
「アン……アンク……お願いだから、戻して……もう、本番、してもいいから……」
彼は虚空を険しい顔で見つめたまま、震える声で懇願する。
「はっ……ずいぶんと素直になるもんだな」
アンクが人の手に戻した指を引き抜くと、息を止めていたらしい映司が大きく呼吸するのが聞こえた。
「全部やってくれる、んだったな?」
どこか怯えの見える顔を覗き込み、映司の手を立ち上がりかけた自身へと導く。戦き震えた手は、遠慮がちにそっと指を這わせてきた。ゆっくり追い上げられるように丁寧な愛撫を受け、アンクは快感ともどかしさに映司の手へ熱をこすりつける。
映司はもたつきながらも真剣な顔でアンクにゴムを装着し、戦いに向かうかのような表情でアンクの細い腰を抱き寄せた。
「……いいよ」
もとより了承など得るつもりはないが、アンクはもう一度映司に指を突っ込んで乱暴に探る。そして、張りつめた屹立をそこへ突き立てた。
「……ぁああっ!!」
激しい快感が全身を突き抜ける。部屋に響いたのは自分の声だけだったが、気にする頭すらない。なにも考えず、アンクは衝動のままに腰を動かした。
「あぅっ、ああっ、ぁんっ……」
自分がどんな顔でどんな声を上げているかなど、思いを巡らす余裕もなかった。
「く……っ」
小さな呻き声にふと見下ろすと、映司が固く目を閉じて、ひたいに脂汗をにじませている。そうしなければ苦しいからだろう、自ら脚を大きく広げて、両手は皺の寄ったシーツを握りしめ拳を作っている。声を出さないのは、歯を食いしばっているからだ。
「おい映司」
「……なに?」
片目を薄く開け、焦点の定まらない瞳でアンクを見上げてくる。
「気持ちいいか?」
彼の眉間に深く皺が刻まれた。
「なに言ってんのおまえ……いいわけないじゃん……」
どこか投げやりな口調で呟く態度が気に入らない。苦痛を訴えるでも快感に悶えるでもなく、ただアンクを黙って受け入れている。映司らしい、だがアンクにとっては最も気に入らない選択だ。
「ちっ……」
二人の腹のあいだにある映司自身に鷹の手を伸ばす。そこは少しも反応していなくて、映司の態度と一致していた。
「アンク!?」
人間のものでない指を絡めると、映司が再び恐怖に息を止める。映司といえども、無防備な状態で「グリード」と接触するのは恐ろしいらしい。最も単純だが今のところ最も有効な脅しだろう。
「安心しろ、食いちぎったりはしない」
自分の優位を確信し、アンクは笑みを浮かべて優しい声音さえ作った。そのほうが映司が怯えるだろうと思ったからだった。
「じゃあ離して……」
その懇願は無視して、ゆっくりと手を動かしさすり上げていく。
呼吸を思い出した映司が、今度は荒くなる息を必死で沈めようとしている。
「ねえ、アンク、なんで……」
「うるさい」
覗き込めばそこはたしかに反応しているのだが、感触がよくわからない。
舌打ちして人の手に戻した。とたんに、手の中のものが明らかに質量と硬度を変え、脈打っているのが直接感じられた。
その感触に寒気が走るほど昂ぶったアンクは、映司を握ったまま腰を叩きつける。
「や……っ」
映司が身をのけ反らせた。シーツをつかんで衝撃に耐えているのは変わらないが、洩れる声に甘さが混じりはじめる。
「んぅ……っ、ぁっ……」
そしてなによりもわかりやすい身体の反応。今アンクが感じている快感を映司も同様に体験しているのだという事実が、目に見えるかたちで表れるのは痛快だった。
「ぁあ……んっ!!」
上ずった声とともに、映司が絶頂を迎えた。同時にアンクも映司の中に欲望を放つ。
「ぉああっ……!!」
全身を貫く衝撃。
初めての「満たされた瞬間」をアンクは確かに体験した。
「はっ……はぁっ、は……」
息が収まらず、崩れ落ちそうになる身体をなんとかシーツに手をついて支える。
見下ろせば、自らが放った精で胸まで汚した映司が、全身で息をつきながらぐったりと横たわっていた。それを淫らな姿だと感じる、これも欲望だ。
だが、映司は今、アンクと同様に淫らな気持ちを抱えているのだろうか。
「よかったか?」
「……………」
疑問をそのまま口にしたが、返事はない。
「おい映司、答えろ」
軽く頬を叩いてやると、彼は薄く目を開けた。もともと重い右のまぶたはほとんど開かず、左目だけが物憂げにアンクを見やる。
「なんか、意外……」
「あぁ?」
「いや……もっと一方的な感じかと思ってたから……」
意味がよくわからず、アンクは眉を寄せる。
「俺はおまえの欲望を食らっただけだ」
「それって……そっか……」
映司はなにかを言いかけたが、言葉が見つからなかったらしい。結局なにも言わずに起き上がって、汚れた身体を拭いはじめた。
今なら、映司が感じたこともわからなくはない。
グリードは直接、自分自身の「欲望」に触れることはできない。欲望を持った人間からメダルを生み出し、あるいは欲望を持った人間を食らう……そういうやり方でしか「欲望」を得ることができない。
人間の身体になっても、自分自身で欲望を満たせるようになっても、いじらしいまでの卑屈さは抜けていなかった。そんなグリードを、アンクを、なにも知らない映司はなにか感じとり、どこかで哀れんでいたのだ。
人間のいない人間の屋敷で、アンクは苛々とため息をつく。
コアは破壊され、あの身体を取り戻すことはできなくなった。だがあの身体に戻って今さらどうしようというのか。アイスの味もわからない。映司と交わることもできない。
映司を食らっても、あの快楽は二度と手に入らないということはわかっている。映司から離れるためには完璧な存在になるしかない。
「映司か……」
最も使える、だが最も忌々しい存在。グリードの想像も能力も超えた巨大な欲望を抱え、その欲望を満たすためなら、アンクを敵に回すことさえためらわない。
執着がない人間の相手をするというのは、グリードにとって底なし沼へ足を踏み入れるようなものだった。映司を欲にまみれさせようとすればするほど、自分が欲望の中へと沈み込んでいく。気づいたときには欲で息ができなくなっていて、そしてこの首に絡みつく欲の正体は……
「くそっ……」
じんわりと熱くなった自分の身体を抱きしめ、テーブルを蹴飛ばす。
我慢できないというほどではない。だが、求めるものが手に入らないという現実は、未完成のグリードに戻ってしまったようで、屈辱的ですらあった。
欲しい、欲しい、欲しい。
オーズの力。
アイスキャンディ。
交わる相手……
欲しいものは全て映司にたどりつく。どんなに不自由でも、映司の傍らが最もアンクを満たしてくれる。なのに映司はアンクを拒み、アンクから全ての快楽を奪おうとしていた。アンクが渇望してきた、映司自身の欲のために。
「映司……っ」
憎々しげに吐き出して、アンクは椅子の上でうずくまる。
夏だというのに屋敷はひんやりと肌寒い。しかしそれを感じているのは、この屋敷でアンクただ一人だった。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます