映司/アンク
【キスと恐怖と紫色】
胸ぐらを掴まれ、必死に睨み返した。だがこちらを覗き込んでくる瞳の色は、紫。
普段のしまらない表情でも、覚悟を決めた意志の強い表情でもない。まるで知らない人間のような顔をして、映司は無表情にアンクを捕まえていた。
不意に殺気を感じた次の瞬間、思いきり床に叩きつけられる。
「ぐぁ……っ!」
肩や背中を打って、床に転がったまま痛みに身をよじるアンクに、紫の目をした男が襲いかかってきた。
「映司!!」
他に呼びようがないから仕方なく彼の名を呼んだが、返事はない。
映司の顔をした男は、躊躇いもせずアンクのシャツを引き裂く。爪がアンクの肌に傷を残すことさえ気にしていない。
アンクは必死に床を這いずって逃げようとする。だが手足が思うように動かない。もがいているうちに、革のパンツまでもがたやすく引き裂かれる。服といっしょに腿を爪で深く切られ、アンクは声にならない叫びを上げた。
「なにしやがる、やめろ……」
情けなく震えた声にも、映司は心を動かされた様子がない。アンクは恐怖に肌を粟立たせ、映司の下で虚しい抵抗をつづけていた。
映司が口を開ける。だが言葉は発せられなかった。アンクの目に映ったのは、鋭い牙。
白い肌から血を流しながら、アンクは裂かれる寸前の喉で叫んだ。
「やめろ、映司……映司!!」
「……っ!!」
唐突に目が覚める。そこはいつもの「巣」で、真っ暗な部屋は静寂そのものだった。
「はっ……」
荒い息を抑えながら、シャツの胸元をつかむ。破れてはいないが汗で濡れて気持ちが悪い。
おそるおそる巣からベッドを見下ろすと、映司がのんきに寝返りを打ったところだった。少なくとも自分は寝言で悲鳴を上げたりはしていないようだ。そうなったら眠りの浅い映司が飛び起きないはずがない。
だが、夢を見た。人に欲望という名の夢を見せるグリードは、自分の夢など見ないはずなのに。
しかも悪夢だ。よりによって、この自分が屈伏し蹂躙される夢など……
「……ちっ!」
舌打ちしたアンクは巣から飛び降り、シャツを脱ぎ捨てる。映司がいつも着替えをしまっている箪笥から適当なシャツを引っぱり出したところで、映司が再び寝返りを打った。
脳天気な顔で、楽しい夢でも見ているのだろうか。こちらはその顔にうなされたというのに。
アンクはシャツに腕を通しかけて、はっと自分の立っている場所に気づく。ちょうどこの位置に立つアンクを、紫の目をした映司が押さえつけ、床に投げ出して……
「映司!!」
思わず寝ている彼を怒鳴りつけてしまったのは、衝動としか言いようがない。
「……な、ヤミー!?」
寝ぼけた声のまま、映司は目を開け身を起こそうとする。
アンクは着ようと思っていたシャツを放り出し、寝ている映司に飛びかかった。
「え、あ、アンク!?」
毛布を引き剥がして肩を押さえつけ、口で口をふさぐ。
「むっ!?」
無防備な唇をこじ開け、舌先で映司の歯をなぞり、そこに牙などないことを確かめる。そんなものなどないことはわかりきっているのに。自分の無意味な行為に腹が立ち、アンクは映司の唇に歯を立てた。
「い……っ」
映司がもがいてアンクの腕をつかむ。だが解放などしてやる気はなかった。アンクは苛立ちのままに映司の頭を抱え込み、なおも凶暴な口づけをつづける。悪夢の仕返しをここでしても意味がないと知りながら。
「ん……」
そのとき、ゼロ距離の視界に紫色の光が瞬いた。
「!」
一瞬の隙は、恐れだった。実際に自分が怯んだかどうかはわからない。だが腕に食い込む指の力を痛いと認識した瞬間、アンクは映司の体温が残るベッドに押しつけられていた。
「……っ!?」
唇は重なったままだったが、役割は完全に入れ替わっていた。猛然と貪るのは映司で、逃れられない獲物はアンク。
人間の細い腕など簡単にへし折ってしまいそうな力が、アンクを拘束している。
あの夢と同じだ。
紫の目をした男が、アンクを蹂躙する。息はあっという間に上がり、頭の芯が痺れ、苦痛と快感の差異がわからなくなっていく。必死に顔を背けようとしても、映司は執拗にアンクの口をふさぎつづけた。
「んんっ……!」
映司のシャツ一枚を隔てて、尋常ではない鼓動がアンクを追いつめる。腰に押しつけられているのは、映司の意志ではない映司の欲望。それを獣の勢いで突き立てられる感覚を想像しただけで、背筋が冷たくなった。
「うぅ……」
映司が呻りながら唇をわずかに離す。やっとの思いで一呼吸したアンクは、再び噛みつかれる直前に、喉の奥から声を絞り出した。
「映司……!!」
力がゆるんだ。
戦きながらその顔を凝視すると、紫の光が消える。はっとこちらを見たのは、見慣れた男の顔だった。
「……ごめん!」
黒に戻った瞳に、自分が映る。恐怖に目を見開いた、惨めな顔が。
なにか言わなければならないのに、言葉が出てこない。アンクは唇を震わせたまま、映司を睨みつけることしかできなかった。
「ごめんアンク、今の……」
「……うるせえ!!」
映司を押しのけたくても力が入らない。仕方なく、言葉で要求する。
「さっさとどけ……」
だが映司は力強い腕で、アンクを抱きしめた。
「映司!?」
「ごめん、ごめん……もうこんなことしないから……」
今にも泣き出しそうな声で呻きながら、映司は裸の肩に頬を押しつける。
「離せよ……おい映司!」
どういうわけか震えが止まらない。だがすぐに、それが映司の身震いだと気づく。映司はアンクを抱きしめて震えていた。
「アンク、ごめん……」
「聞こえねえのか! 離せ!!」
自分でも驚くほどに声が上ずり、焦燥を隠しきれない。映司は暴走する力を押さえ込んだはずだ。それでも安心できない。いつまた爆発するか……だからといって映司に屈するわけにはいかない。
映司が、汗で濡れた金髪にそっと手をすべらせる。
「怖いよね……」
「だれが……」
恐怖を見透かされたのかと思った。だが映司は、独り言のように呟いていた。
「こんなに怖いのに、手放せないなんて……」
映司は映司自身のことを言っているらしかった。しかしその言葉はアンクにもそのまま返ってくる。悪夢にうなされるほど、紫のメダルもオーズの暴走も恐ろしい。それでもアンクは映司なしでは生きていけない。
自分の脆弱さを否応なしに実感させられるのは、アンクにとって耐えがたい屈辱だった。
拳を握りしめ、映司の脇腹に思いきり叩きつける。
「ぉらあ!」
「ぐっ……」
わずかに力がゆるんだところで彼を突き飛ばし引き剥がした。
「まだ寝ぼけてんのか……」
「アン……」
腹を押さえてうずくまる映司の表情は見えない。息を切らせながらもアンクは低く呻いた。
「怖いなら、死ぬ気で抑え込め。次はおまえの腹から直接メダルを引きずり出すぞ」
実際にそうできたら、どんなに楽か。
凄みながらアンクは内心で歯噛みする。紫のメダルは未知の領域だった。映司の中に飼っておくのが安全なのか、それとも自分が取り込むべきなのかすらもわかっていない。その不確定さが、またアンクを苛立たせる。
「ん……ちょっと寝ぼけてたかも……」
ようやく映司が顔を上げた。苦しそうに笑いながら。今度こそ、あの凶暴さは微塵も見られない。
「どけ!」
「痛っ……」
アンクは映司を蹴飛ばしてベッドから立ち上がり、さっき投げ捨てたシャツを拾った。
「飲まれるなよ。俺のためにだ」
映司がなにを企んでいても、アンクの邪魔さえしなければかまわない。人間離れした肥大な欲望を隠していようが、そのためになにを利用しようが、知ったことではない。この身体を人質にしているかぎり、メダルをこちらが握っているかぎり、映司はアンクを守らざるをえないのだから。
わかっているはずなのに、何度も釘を刺さずにはいられなかった。
「おやすみ、アンク」
「……ふん」
アンクは巣に戻り、映司は毛布をかぶる。
だが、お互いに相手が寝ていないことはわかっていた。このまま朝を迎えるであろうことも。
互いの胸の内にくすぶっている恐怖の対象が、同じだということも。
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