映司/アンク
【謝罪と不在と優しい人】
同じ顔。同じ声。
なのに全くの別人が、そこに立っている。
映司は心の底から喜びながらも、同時に戸惑いも自覚していた。
「帰ろうか、比奈」
ようやく自分の身体を取りもどした泉信吾は、傍らの妹に微笑みかける。
それだけのことを、彼は一年近くのあいだ、どれほど願いつづけてきただろう。常にそばにいながら声も届かない。自分の口から出るのは、妹を、周りの人々を傷つける言葉だけなのだ。
そして比奈も、その微笑みを何度夢に見たことだろう。彼女はクスクシエが休みの日でも、毎日ここへ通っていた。きっと、兄のいない家に一人でいたくなくて。
幸せそうに笑っていた比奈だったが、はっと笑みを引っ込める。
「そういえば、課題の途中で散らかしたままだった……」
信吾は驚いたように比奈を見つめ、そして笑い出した。
「気にするなよ、慣れてるから。おまえは熱中するとすぐ他のことが手につかなくなるもんな」
「でも……久しぶりにお兄ちゃんが帰ってくるのに……」
顔を曇らせる比奈に、映司は努めて明るい声で語りかけた。
「先に行って片づけておいでよ。お兄さんはおれが送っていくから」
「いや、べつにおれは……」
気にしない、と言おうとして映司を見返った信吾は、自分に向けられた眼差しに気づいたようだった。
「……そうだな。比奈、片づけてこいよ。せっかくだから、きれいな我が家に帰りたいしな」
比奈の表情が再び明るくなる。
「映司くん、1時間……ううん、30分くらい……そんなに待たなくてもいいけど、とにかくゆっくり来てね!」
「わかってるよ」
笑顔で手を振って、映司はワンピースの裾がドアの向こうへ消えていくのを見送る。それから信吾に向きなおった。
「ありがとうございます」
映司の視線の意味を察した信吾は、あえて比奈を先に行かせた。彼の勘の良さと気遣いに、映司は頭を下げる。
「おれに話があるんだろう?」
信吾は手近な椅子を引いて腰を下ろした。長身の映司を見上げてくる目には、今までの敵意も皮肉もない。当然だ、彼はアンクではないのだから。
映司は腹に力を込め、信吾の前に立つ。
「だいたいのことは……覚えてるんですよね。アンクを通して感じていたって……」
この日が来ることはわかりきっていた。望んでもいた。覚悟はできている。
「……覚えてるよ」
それでも、その言葉を聞いた瞬間、冷や水を浴びせられたような心持ちになった。
自分の罪の重さなどではない。自らの意志で語ることも逆らうこともできなかった彼が、その身と心に受けつづけた傷の深さにだ。せめてなにも覚えていなければ、彼の傷は真実を知る衝撃だけで済んだのに。
「……すみませんでした」
今度は感謝ではなく謝罪の意味を込めて、頭を下げた。
「謝って許されることじゃないのはわかってます。おれ、信吾さんの身体だとわかってて、アンクと……」
ふっ、と息が洩れるのが聞こえた。
「ありがとう」
「え……」
顔を上げると、信吾は微笑んでいた。妹に向けたのと同じ笑みを。
「事情は理解してるって言ったじゃないか。きみが彼からおれを守るためにそうしたのは、よくわかってるよ。ありがとう」
「そんなこと……」
映司は首を振った。
どこから見ても、清廉な人生を歩んできた人だ。好きでもない、しかも同性相手に、自分の意志と関係なく行為を強要されることが平気なはずはない。責められ、詰られても映司は甘んじて受けるつもりだった。彼のためにできることがあるなら、なんでもするつもりだった。
それなのに、全てを受け入れたのは彼のほうで……
「ごめんなさい……」
「いいんだ」
薄い手が、そっと映司の腕を叩く。その触れ方は彼が信吾であり、アンクでないことをこの上もなく映司に実感させた。
もうアンクではない……必要以上に触れてはいけない……映司は思わず身を引いていた。
それに気づいた彼は小さく笑う。哀しげに眉を寄せて。
「だいじょうぶ、おれは彼じゃない。きみはもうあんなことをしなくてもいいんだ。つらい思いをさせて、ほんとうに悪かった」
「いえ……」
信吾は、アンクが……アンクに操られた信吾が、映司を苛んでいたと思っている。
哀しそうな表情の正体は、きっと映司に負けないほど大きな自責の念だ。
そうではない、信吾が罪の意識を感じる必要などないと、映司は伝えたかった。きっかけはアンクだったかもしれない。だが、主犯は自分だと映司は思っていた。信吾を含めた周りの人たちを救うために、信吾を犠牲にするしかなかったなど本末転倒だ。
映司は床にひざをつき、椅子に座っている信吾と目線を合わせた。
「こんなこと言われても、気持ち悪いだけかもしれないですけど……おれ、嫌じゃありませんでした」
信吾は目を見開き、それから苦笑した。
「……嫌々よりはいいさ」
「そうじゃないんです……おれ、ときどきわからなくなってて……信吾さんのためだって自分に思わせてただけで、ほんとはアンクと同じように楽しんでたんじゃないかって……責任があるとしたら、全部おれなんです。あなたじゃない……」
弱音にも思えるそんな言葉が出てしまったのは、彼があまりにも大人びた優しさを見せてくれたからなのか。
信吾は映司の顔を覗き込み、今度は両肩に手を置いた。
「もしおれが、なにも覚えていなかったら……きみはどうした?」
「それは……」
映司はうなだれ、正直に告白する。
「……黙ってるつもりでした」
「おれを傷つけないためにだろう?」
知らなければ、傷つくこともない。映司とアンクだけの秘密にして、遠い砂漠にでも埋めてしまえばいい。それが卑怯な沈黙だとはわかっていたけれど、それで信吾も比奈も傷つかないのなら、いくらでも口を閉ざし、いくらでも嘘をつくつもりだった。
映司が賭けていたわずかな可能性は外れた。信吾は全てを記憶し、そして自らも責任を感じながら映司の前にいる。
「きみの優しさはずっと見てきた。だれよりも近くで、だれよりも長い時間……そんなきみを信じられないわけがないだろう」
同じ顔で、同じ声で。
今までともに戦ってきた彼なら決して口にすることのない優しい言葉が、映司を包み込む。
それは、本来そうあるべき自然な状態なのに、映司はまだ困惑していた。
今、目の前で微笑む彼を抱きしめたいとは思わない。同じ顔をしていても見せる表情は別人で、その整った顔立ちが淫らに映司を誘うことはないから。脅迫にも似た懇願の眼差しを、信吾が映司に向けることはないから。
言葉を探して黙り込む映司を救うように、信吾は壁の時計を見上げる。
「まだ、早いかな」
聞き慣れないさわやかな声が、狭い店内に明るく響く。
「あいつ、あんまり手際がよくないんだ。手伝ってやったほうがいいかもしれない」
妹を思う兄の顔を、映司はあらためて見つめた。この顔を取りもどすために今まで心を砕いてきた、はずなのに。
「……じゃあ、そろそろ行きましょうか」
二人は立ち上がる。
ドアを開けた信吾は、映司を先に行くよう促した。まちがっても、腕を掴んでむりやり引きずっていくのではない。
「……アンクとは、大違いだ」
笑いながら呟いた声が寂しげな色を帯びていたことに、映司自身は気づかなかった。
ただ信吾だけが、哀れむような表情で、細めた目を映司に向けていた。
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